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玉響(たまゆら)とは、かすかなとか、ちょっとの間を意味する。
熟語的には「玉響の心の触れ合い」が一般的な使い方だろう。
偲び(しのび)は、懐かしく思い出すこと。
そんな表題を掲げて今後、連載しようとするのは、
今は亡き父と母を取り巻く我が一家の古い思い出を掘り起こし、偲んでみようというわけ。
どんな家族にもありがちな事象を並べ立てるに過ぎないだろうが、
ぼくなりに思い出を整理したくなったからでもある。
「最古の思い出」
「明治は遠くなりにけり」という言い方をひところ、よく耳にしたが、
近年、ほとんど聞かれなくなった。
「大正」も、「昭和」でさえも、遠い過去のように思えてくる。
だけど、ぼくはどの時代も心の奥底に秘め隠しているようだ。
父=おやじは明治の生まれ、母=おふくろは大正の生まれだからだ。
その両方の時代ともぼくは故知らぬが、薄紙を剥がすようにうっすらと見える。
ともあれ、思い出のなかのおやじの最も古い姿は、中国(当時は支那)に向かう時のことだ。
おやじは同盟通信(戦後、共同と時事の両通信社に分離)に勤めていて、
中国へ特派員として移り住むところだった。
そこで乗船したのは「原田丸」という日本郵船の客船で、
我が5人家族は神戸を出て、青島(チンタオ)へ向かっていた。
その甲板で、おやじは当時5歳のぼくの手を引き、船長らしき人に引き合わせた。
すると、船長はぼくら親子をその船の機関室に案内してくれたことを記憶している。
広大で、暗い機関室が目の前に広がり、おやじは得意顔だった。
青島に上陸後、しばらくしてぼくはそこの日本人学校に入学したが、
その当初の思い出は、厳冬の朝のことだった。
あまりに寒かったので、ぼくが登校に尻込みしていたら、
おやじが人力車(ヤンチャ)を呼びつけ、それに乗せようとした。
すると、車夫が何やら渋った。
それを見たおやじは、車夫の顔に平手打ちを食らわしたのだ。
その一場面が脳裏に焼き付いているが、後年、納得したのは、
おやじは若い頃、ボクシングを習っていたからだ。
やがて我が一家は、北京に移住したわけで、そこでは楽しい日々があった。
おやじとおふくろが近隣の観光名所によく連れていってくれたのだ。
北海(ペーハイ)公園や天壇(デンダン)などが記憶にある。
行けば、習慣的におやじは双眼鏡を携えるのだった。
それをぼくがなぜか肩代わって持ち、走ったはずみに落としたことがある。
そして、双眼鏡のレンズが割れてしまい、おやじにきつく叱られた。
あとあとになっても、その一件では怒りが収まらなかったようだ。
ともあれ、青島でも北京でも、あの頃、青空がやたらに広く、済んでいた。
(つづく)
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