丑の戯言 栗田英二

体調不良につき、プロク゜投稿も途絶えがち

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 思い返すと、青島と北京で暮らしたのは、合わせて3年少々だった。

 その終わりの頃、つまり昭和20年の夏、太平洋戦争は日本の敗戦によって終わった。

 ぼくが国民学校(小学校)3年生のときで、当時は北京にいた。

 そして、終戦の日、全校生徒は学校に集められ、天皇陛下の詔勅を校庭で聞かされた。

 それが終わったところで、上級生の一部が泣き始め、教室か、どこかに潜り込んだ。

 憧れていた上級生までもが泣き顔になるのを見た瞬間、恐ろしいことになったと
 下級生のぼくも縮こまった。


 それまでは北京のみならず、中国在住の日本人たちは、男女や長幼を問わず、
 なんの不安もなく暮らしていた。

 多くの家庭では、クーニャンやアマと呼ばれる中国人を雇い、
 一見、優雅に暮らしていたものだが、敗戦によって様相が一変した。

 日本人たちは、ちぢこまってしまい、あげくは馬賊や八路軍が攻めてくると恐れ。
 ぼくらの住む共同住宅の門は堅く閉ざされた。


 何日か後、そこへやっとのことで迎えの軍用トラックが来てくれて、
 住宅で縮こまっていた日本人家族は全員、乗り移った。

 いよいよ祖国への引揚げの始まりだ。
 ほくも家族と共に荷台に乗った。

 さあ、祖国へ向けて出発!

 なんたって初めてトラックに乗るのだから、ぼくき浮きうきしてしまった。

 高い荷台の上から北京の街を眺め回しながら、ますます調子に乗ったのだろうか、
 荷台の前部、つまり運転席の天井をドンドンと叩いた。

 すると、どうしたわけか、トラックは急停車してしまった。
 そして、日本軍の軍人が数人、どやどやと降りてくるではないか!

 「どうしたんだっ!」と叫びながら。
 敵でも現れたと勘違いしたのだろう。

 だけど、天井を叩いた犯人がガキのぼくだとすぐに分かってしまい、
 おやじが前に出て「こいつがいたずらしましして……」と謝った。

 それで一件落着し、トラックは再び走り出したが、それが北京の街とのお別れの場面でもあった。

 やがて北京駅に着き、そこから無蓋列車に乗り移って百キロほど先の天津に向かうのだった。

                                        (つづく)

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