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こんにちは、ゲストさん
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先月は『特務艦「宗谷」の昭和史』を感動とともに読了した。(8月13日付) その余韻に浸っているころに手に入れたのが、『東京アンダーナイト』。 副題に「"夜の昭和史"ニューラテンクオーター・ストーリー」とある。 参ったなあ。読み出したら、またも止まらなくなってしまった。 「昭和史でも、とくにその裏面にひとかたならぬ関心があるからだ。 本の帯からして惹きつけられる。 つまり「力道山刺殺事件の真相!! 刺した男と目撃した著者が揃って証言! 児玉機関、GHQ、豪華ショー、芸能人、ヤクザ……。 "東洋一"と謳われたナイトクラブで何が起こったのか? オーナー自らが衝撃の証言で綴るノンフィクション!」 まず興味深かったのは、あの力道山事件だ。 時代のヒーローだった力道山は昭和38年の暮れ、 赤坂のニューラテンクォーターに遊びに行った。 何軒かハシゴをしての後だけに酩酊状態で。 事件が起きたのは入店した直後で、洗面所にいた力道山を刺した男がいた。 恐れられた住吉連合の下部組織に属する組員が、 すれ違いざまに力道山をドスで刺したのだ。 その一部始終と、その刺殺犯との最近の会話までが詳細に記してある。 同書の著者、山本信太郎がその場に居合わせて目撃し、 その後40数年を経た最近、犯人だった男から真相を聞き出してもいるのだ。 それ自体、驚きの内容だ。 山本信太郎という人は、ニューラテンの実質創始者であり、 同店に隣接するホテル・ニュージャパンが火災後、 ニューラテンを閉鎖するまで社長の任にあった。 その〈事件〉の真相も興味深かったが、 全盛期のころのニューラテンの内実をもっと知りたかった。 赤坂の中心地に開店したのは、昭和34年。 皇太子ご成婚と時を同じくしている。 時代は、日本が経済復興に走り出し、夜の繁華街が爛熟期を迎えてもいた。 そして、ニューラテンの名声が鳴り響いたのは、 開店早々から大物外国ミュージシャンを同店の舞台に上げたことだ。 抜粋するだけでも、 トリオ・ロスパンチョス、ミルス・ブラザーズ、ナット・キング・コール、 ザ・プラターズ、ルイ・アームストロング、パテイ・ページ、 サミー・ディヴィス jr、パット・ブーン、アーサー・キット、 カテリーナ・ヴァレンテ、ジュリー・ロンドン、フォー・フレッシュマン、 フランキー・レーン、ピーター・ポール&マリー、ペニー・グッドマン、 ハリー・ジェームス、ローズマリー・クルーニーなどと続く。 ただし、以上は開店5年後までの外国人出演者に過ぎない。 ともあれ、名声を馳せたスターがニューラテンのショータイムを彩っていた。 そのような〈豪華ショー〉に惹きつけられるように、 客筋も一流どころと言えばいいか。 著者と親交のあった勝新太郎や石原裕次郎を始めとする キラ星のごとき芸能人が常連客となっていたという。 名声のほどはともかくとして一流企業の幹部からその筋の有力者までも、 通い詰めていたようである。 それこそ『東京アンダーナイト』であり、"夜の昭和史"が描かれている。 しかし、さしもの豪華ナイトクラブも、 その地上に建つホテル・ニュージャパンの不慮の火災(昭和57年)により傾く。 実際にニューラテンが閉店のやむなきに至ったのは、 その5年後の平成元年であったが。 この火災から閉店に至る経緯も、詳述されている。 そこに虚業家といわれた横井英樹の影が見え隠れする。 こんな本が出ていたのをぼくが知ったのは、つい先日。 実際には2年ほど前に出版されていたが、知らなかったのだ。 教えてくれたのは、ニューラテンのホステスとして"ナンバー"だった女友達。 そこで思い出したのは、あの当時のことである。 まだ現役ばりばりのころ、ぼくは夜な夜な銀座、赤坂、六本木に足を向けていた。 主に大手企業の幹部や営業マンの接待によるもので、 おかげでニューラテンでも何度か遊ばせてもらっている。 むろん、遊興費はスポンサー持ちとなったわけだが、 前記の元ホステスに訊いたら「最低でも1人5万円以上よ」とのこと。 となると、例えば売れっ子スターが仲間十数人を引き連れ、 飲み食いしていたのを間近に見たことがあったが、 その遊興費は数十万円しただろうな。 ほかに銀座ではクラウンやモンテカルロ、赤坂ではコパカバーナなどでも、 遊ばせてもらったが、いまやこれらのクラブは消滅したようである。 昭和は遠くなりにけり、か。
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昭和30年代の前半、人々の関心と興奮を呼び起こしたのが、 南極観測船の宗谷だった。 あのころ政治・経済・文化などの出来事は、 今とは比べものにならないほど貧弱。 それだけに、折柄の南極観測年にあたり、 宗谷が一躍"大スター"となって登場し、 日本中の耳目を集め、夢をもたらしてくれたのだった。 しかし、あれから数十年を経て考えてみると、 この特殊な船舶は、何だったのか。 その生い立ちや、南極前後の経歴などは知らないことばかり。 さきに新潮社から出版された『特殊艦「宗谷」の昭和史』が、 その疑問と関心を丁寧・緻密に説いてくれた。 著者は、作家の大野 芳(かおる)。 本書からかいつまんで説くと、まず生い立ちが複雑だ。 建造発注主がソ連国務機関で、請け負ったのが長崎の新興造船所。 進水したのは、昭和13年だが、竣工する段になって発注主と揉め、 結局は日本籍の地領丸となり就航。 もともと耐氷型の貨物船として建造されたので、 それに着目した日本海軍が買い取り、艦名を宗谷とした。 北洋や南洋での海洋測量や物資輸送に投入されたのだ。 ところが、太平洋戦争の終結に伴い任務が一変する。 主に樺太の在留邦人を内地に運ぶための引揚げ船となったのである。 これでどれほど多くの邦人が救われたことか。 その任務が一段落すると、海上保安庁の灯台補給船として活躍しだす。 全国に配置される灯台への物資郵送などを司るのだ。 そして昭和31年、南極用に大改装を施される。 やがて同船は主に海保庁の乗務員とともに南極観測隊員を乗せて出航。 現地では昭和基地が築かれ、以後、日本/南極間に就航する。 その矢先、氷塊に閉じ込められて身動きできなくなったとき、 救援に駆けつけ、脱出に導いたのがソ連の砕氷船オビ号だ。 この船名は中年以上の人なら誰しも覚えているだろう。 出自からして縁が深いソ連の船に助けられたとは、奇縁だ。 結局、南極へは計6回、足かけ7年の任務を果たし、 昭和37年からは海保庁の巡視船となった。 それから後、主に北洋での巡視や救助の役割を担い活動するが、 船舶の一般的な寿命=船齢をはかるかに超す40年に達していた。 そのため、昭和54年、すべての海上任務を解かれ、 東京お台場に建設された「船の科学館」の岸壁に永久保存されるに至る。 概略そんな経歴だが、 400ページ近い同書を読破するのにどれほど時間を要したことか。 というのも、そんじょそこらの長編小説やルポと違い、 1行たりともゆるがせにできなかったからだ。 著者が精魂込めて書き続けてきたのが、手に取るように分かる。 そのためには膨大な精力を傾け、調査や取材を重ねてきたことだろう。 引用された文献や私的日誌などの量は、計り知れないし、 対面取材した人や場所も数限りない。 そうやって収集した事項を、巨大なジグソーパズルを張り合わせるようにして 宗谷の物語を紡ぎだしたのだろう。 読み終えてみると、まさに記録文学の頂点に立つ力作であり、 傑作でもあると感じた。 その底流には昭和という時代が浮き彫りにされている。 戦前から戦後にかけての歴史の側面を宗谷は体現してきたのだ。 それだけに読み進むうちにこの一隻の、さほど大きくもない鋼船に、 愛おしい感情まで湧いてくるのだった。 自分の半生と重なり合う部分が少なくないからでもあろう。
読み終えたいまも興奮が冷めやらないのは、そのためだ。 |
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