丑の戯言 栗田英二

体調不良につき、プロク゜投稿も途絶えがち

旅と乗り物

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 南西諸島に初の上陸
 
 年齢は一足飛びに50代へ。
 
 昭和63年、ぼくは会社勤めを辞め、自由の身になっていた。
 そうなったら抑えていた欲求が噴出してか、旅心が燃え始めた。
 
 まずは紀伊半島一周のドライブ旅行を敢行。
 次いで伊豆半島巡りをして、愛車パジェロで野宿も。
 さらに房総半島を巡った。
 
 それらとは別に三浦半島の浦賀へは頻繁に。
 別宅をそこに設けたからだ。
 
 そして考えついたのは、南西諸島のとこかへ渡ろうということ。
 
 結果、まず絞り込んだのが与論島だ。
 人気度は高くなさそうだし、島名にも惹かれたから。
 
 
 平成2年の夏、陽光が照りつける東京・有明埠頭へ行く。
 待っていたのはフェリー「ありあけ」で、那覇行きだ。
 
 大きな荷物を背負った若者たちが続々とタラップを昇り乗船中。
 ぼくのようにオッサンは、ほとんど見られない。
 
 出航して浦賀水道を東京湾口に向けて進んでいくとき、感動的な場面に出くわした。
 
 前方にも後方にも、いろんな船舶がひしめくように航行中なのだ。
 甲板から眺めていたら、思わず「♪軍艦マーチ」を口ずさんでいた。
 
 翌日の昼、また感動的な景色が迫ってきた。
 四国沖を航行中、彼方に室戸岬が現れたのだ。
 
 名だたる室戸の岬がこんなにも雄大で迫力があるとは知らなかった。
 次いで足摺岬も見えてきて、これも雄大。
 
 陸路では得られない圧巻を船旅では目の当たりにできるのだ。
 
 さらに、南西に向かうにつれて海水の透明度が増していくのも心躍る。
 海面にはイルカが躍動しつつ気分よさそうに泳いでいる。
 
 さて、夜がとっぷり暮れ、夜半近くなってきたとき、
 本船は鹿児島の志布志湾に入り、そこで一晩、停泊。
 
 ぼくはそれまで船内で孤独をかこっていたわけではない。
 
 甲板で缶ビールを飲んでいたら、見知らぬ中年男が口を利いてきた。 
 ビールを差し出したら、お返しに〈浜千鳥〉という焼酎をくれた。
 
 彼は沖縄人で、出稼ぎの東京から那覇に帰るところとか。
 
 次に知り合ったのも中年男で、鹿児島に帰るそうだ。
 
 沖縄人と鹿児島人は、憎しみ合っているらしいので、ぼくは気を遣った。
 
 女の子とも、かすかな接触があった。
 
 有明埠頭で見たときから気に入っていた高校生で、船上で接近を試みたのだ。
 仏女優フランソワーズ・アルヌールを詰めたようなところに心動かされて。
 
 で、船内食堂に入ったら、その子が仲間と一緒に居る。
 迷わず話しかけたら、素直に話に乗ってきた。
 
 高校二年生で、友達と一緒に南の島へ遊びにいくところとか。        (つづく)
 
 
 
 
 異国情緒と美女群に恵まれ

 

 これまた、仕事を目的に海外出張した際の寄り道だ。

 最初の目的地は、ギリシャのアテネだった。
 ならば、その周辺でちょいと島旅をというわけ。

 ギリシャに接するエーゲ海には、名高い島が多い。

 そのなかで、ギリシャに属するものの、
 かつてはトルコが支配していたロードス島を選んだ。

 西洋と東洋の文化が入り混じった異国情緒味わおうと。

イメージ 1


 昭和51年の春だった。

 まずはアテネ空港に到着し、ロードス島行きの小型機に乗り換えた。
 ほんの数時間で島に着き、予約したホテルへタクシーで向かう。

 道すがら大通りの両側には、夾竹桃が整然と立ち並び、赤い花を咲かせている。

 いかにも異国の島に来たとの実感が湧く。

 
 着いたのは、島では一級のホテルだった。

 海岸に接しており、客室からの眺望も文句なし。
 遠くボスポラス海峡が望めるようである。

 2泊3日の予定なので、周辺の探索も忙しい。

 翌朝はまず、ホテル付属のプールサイドへ出てみた。

 そこで目に入ったのがビューティーコンテストとでも言おうか。
 美女たちがプール際をしなしなと歩く姿が美しい。

 ヨーロッパ中から集まった美女からミス何々を選ぼうとしているのだ。

 だけど、ポカンと口を開けて見物ばかりしておれない。

 早々に下の浜辺に降りて海水浴もした。
 水温は高く、ピリッとしないのが少し気に入らなかったけれど。


 やがて夕暮れ近くなったので、早めの夕食を摂ることに。

 選んだのは、ホテル内の食堂でなく、海岸に係留された船上レストランだ。
 変わったシーフードを食べたかったからにほかならない。

 時間が早いせいか、客はぼく一人。

 頼んだのは、イカだの、なんだのの魚料理。

 地元産の赤ワインを飲みつつ独宴をしているうち、徐々に夕焼けに。
 船のかすかな揺れがワインの酔いを促す。


 ホテルの自室に戻ったときは、まだ薄明かりが残っていた。

 3階の部屋から庭園を見下ろすと、人々が動き回っている。
 目を凝らすと、一人の女性を数人のカメラマンが取り囲んでいるのだ。

 分かった、あの子はさっきのコンテストで選ばれたミス何々に違いない。

 金髪の美しいお嬢さんが水着のまま、カメラにポーズをとっているのだ。

 高見の見物をするぼくは、何か儲けものをしたようである。


 翌朝、この島をもう去らねばならない。

 タクシーで空港に向かう途中、有名な建築でも見ようとドライバーに頼む。
 その期待は、じきに叶えられた。

 円形の屋根がそびえるようなモスク風の教会だろうか、いかにもトルコだ。

 後にギリシャに属した島だが、東方貿易で栄え、さまざまな文化が融合したらしい。

 ほんのちょっと通過しただけだが、そんな歴史の重みや複雑さを感じた。


 さて、アテネ行きの小型機に乗ったら、またも美女たちに出会えた。
 乗客の多くが前日のミスコンテストの関係者だからだ。

 そして、機はスタートダッシュをかけ、ふわりと離陸。

 その瞬間、斜め後ろに座っていた女の子が絶叫した。
 機が水平飛行に移ったら、泣き声に変わり、それが延々と続く。

 なだめたり、介抱したりしている中年は、母親かマネージャーか。

 ぼくは気になって振り向かざるを得ない。
 見ると、昨夕、カメラの砲列を浴びていたミスではないか。

 不幸にも高度恐怖症で、飛行機が恐くてならなかったのだろう。


 仕事から離れての短い島旅で、ぼくは39歳の働き盛りだった。

愉悦の島旅2 ハワイ

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                                          (カウアイ島の浜辺)
 
憧れのハワイ、オアフ島とカウアイ島へ
 
 少年時代、岡晴夫の歌う「♪憧れのハワイ航路」が盛んに聴かれた。
 そんなことからハワイへの憧憬を増長させたものだ。
 
 どうせ行けっこないと思っていたが。
 
 ところが案外早く実現してしまった。
 
 昭和40年、まだ若手社員だったが、世界一周の出張を命じられたのだ。
 ちょうど夏に入る頃なので、まずはどこかで夏休みを兼ねようと考えた。
 
 そうだ、アメリカ大陸に入る前にハワイに寄ろうと企んだのだ。
 
 
 
 羽田空港から飛び、最初に降り立ったのは、オアフ島ホノルルだった。
 
 機外に出た途端、南国らしい強い陽光と熱風を浴びたときの嬉しさ。
 
 同地には後輩が待っていた。
 空港からまず、彼の住まいに直行。
 
 玄関を入るなり出されたのがパイナップルだった。
 その一切れにかぶりついた途端、日本で口にしたことがないほど甘い。
 
 そして、落ち着く間もなく海辺へ。
 
 そこはワイキキの浜辺で、途端にがっかり。
 海水浴客が群れており、海水も濁っているではないか。
 
 浜辺の背後に覆いかぶさるようなホテル群も、いまいましい。
 
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(オアフ島の海水浴場)
 
 翌日はそんな俗っぽい浜は避け、後輩のフォードを借りての遠出だ。
 
 そのとき、実は初めて左ハンドルでの運転を経験した。
 右側通行も初めてだし、信号も正しく理解できはしなかった。
 
 でも、空いた道をスイスイとよく走ってくれた。
 
 辿り着いたのは、オアフ島の裏側にあるハナウマベイ。
 
 海水浴客も少なく、浜の両側には魅力的な岩場がある。
 海水が美しく澄み切っているのも嬉しい。
 
 翌日もまた、ハナウマベイに。
 
 ゴーグルを携行し、海中を覗こうとの魂胆があったのだ。
 
 さっそく潜って眺めまわすと、熱帯魚のような色鮮やかな魚の群れ。
 大きなイソギンチャクが岩に貼り付いてもいた。
 
 
 ハワイ行きはオアフ島だけで終わらなかった。
 
 次はカウアイ島へ飛んだのだ。
 アロハシャツにサンダルで、ホノルル空港からひとっ飛びという近さ。
 
 宿泊先は無論、選びに選び抜き、予約しておいた。
 それが夢にまで見たようなコテージ群落。
 
 シュロやヤシの木など南洋風の林に囲まれている。
 
 さて、着くや歩いてすぐの浜辺に出て、ひたすら泳ぎまわる。
 
 浜辺にはチラホラと客がいる程度なのがいい。
 それもアメリカ人家族ばかりのように思える。
 
 まさに、ホテルのプライベートビーチだ。
 
 翌日も同じ浜辺で過ごしていたら、目に付いてならない女の子がいた。
 長い金髪を無造作に束ね、砂浜を跳ねまわる肢体は、のびやかだ。
 
 すれ違うと、軽く会釈してくれるところが可愛い。
 
 日がな浜辺で寝そべっているのに飽き、サーフィンボードを借りた。
 まったく未経験だが、ボードにへばりつき、少し沖へ出てみた。
 
 そこへ別のサーファーが突っ込んできた。
 あわや激突 ! となりそうな途端、ぼくは海中に飛び込んだ。
 
 次に海面に浮かび上がったら、件のサーファーが近寄ってきて青ざめている。
 「大丈夫か?」という表情に、「ドンマイ」とぼくは叫ぶ。
 
 ガキの頃、草野球で憶えた片言の英語が飛び出し、可笑しかったが。
 
 
 ともかく、あのハワイ旅行は夢のようだった。
 
 初めての外国の島で、しかも、猛烈に暑かったのが嬉しかった。
 
 この後の旅程は、ロサンゼルス、ニューヨーク、モントリオール(カナダ)を経て、
 ヨーロッパと東南アジアの各地を回り、述べ80日間。
 
 なんとも、おおらかな出張が許された時代だった。
 
                                         (上掲2枚の画像はグーグルより抽出)
 
 
 

愉悦の島旅1 八丈島

 今でも島が好きでならない。
 けれども、寄る年波で島へ渡る気力が薄れてきた。

 ならば、かつて経験した島旅を思い返してみよう。
 数え上げたら、国内外10を上回る島へ渡っていた。

 それらを振り返るのも一興かもしれない。
 年代順に、そんな旅の様子を連載しよう。

 なお〈島旅〉なんて言葉はないが、気分は汲んでもらおう。


?H1>高校生の無謀さで八丈島へ

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 憧れの離れ小島に初めて上陸したのは、高校最後の年だった。

 両親には内緒にしての家出同然の旅立ちで、
 単身、東京芝浦の桟橋へ行ったのは、夕暮れ時。

 八丈島行きの小さな客船が出航すると、海上は間なしに闇となる。
 船上から海は眺められず、そのうち船酔いが始まった。

 吐くものを吐き、呆然としていると、やかでうっすらと夜が明けてきた。

 こうして八丈島の岸壁に本船はようやく辿り着いた。

 ともかくも、上陸したら宿の手配をせねばならない。
 調べも予約もせずに飛び出したのだから。

 どうにか見付けだしたのは、島中央部にある下宿のような家。
 宿の人に大学生と偽ることができたのは、古い学生服を着ていたせいか。


 かくして島での暮らしが始まった。

 朝食後、すぐに外へ飛び出し、海を目がけて坂道を下りていく。
 春霞だったので、キラキラした太平洋を眺められないのは残念だが。

 そうこうして2日か3日して、丘の上に牧場があるのを知った。
 明治か森永が経営しているらしい。

 それを知り、意を決して飛び込んだ。
 「ここで働かせてくれませんか」と。

 貧乏旅行なので、島に長く滞在するには金稼ぎをせねばならなかったのだ。

 ただし、働かせてくれたのはいいが、肉体労働が厳しく、
 数日で音を上げてしまい、せっかくの職場を逃げ出してしまった。

 ひ弱な若者には、力仕事に無理があったのだ。

 そのうち路銀が尽きてしまい、安宿を後にして再び波止場へ。
 
 述べ1週間ほど島で暮らしたことになるが、
 八丈島の天候は、いつもどんよりとしていた。

 憧れの離れ島に来た実感も得られず、去らねばならなかったのだ。

 帰りの航海も往航と同じように美しい海を眺められず、
 朝方、竹芝桟橋に戻ってしまった。

 で、上陸したものの、懐はスッカラカン。

 帰宅するにも電車(当時の都電)には乗れず、
 とぼとぼと歩いて港区にある自宅に帰ったのだった。

                       (上の画像はグーグルから抽出)

関門海峡を眺めつつ

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 「関門の夏」と大書されたカタログが送られてきた。

 送り主は「関門海峡絶景の宿 国民宿舎 海峡ビューしものせき」だ。

 以前、そこに3回ほど投宿したが、ここ何年も行っていない。
 それがなぜ突然、カタログが送られてきたのか?

 ま、それはどうでもいい。

 ともかく、その表紙を眺めると、関門大橋の影絵をバックに
 美味しそうなヤリイカの刺身や宿の建物が写し出されている。

イメージ 2

                 (画像はグーグルより借用)


 そこで想いは、この宿に泊まったときに眺めた景観へ。

 下関と門司の間にあるこの海峡、夜ともなると絶景を呈する。

 海峡を往来する各種の船舶が放つ灯火がゆらめき、海面を照らしている。

 それに魅入っていると、なぜか感傷的になったものだ。

 それでまた、あの光景を眺めたくなり、繰り返しこの国民宿舎に足を向けた。


 
 たび重ねて行ったのには、別の理由や動機があった。

 下関駅から山陰本線に乗り、1時間そこそこで仙崎駅に着く。
 そこで降りて少し歩くと、長門市の仙崎港が開けている。

 天才詩人、金子みすずの生地としても知られる所だ。

 そして、この港こそ小学生だったぼくが一家と共に上陸したのだ。
 昭和21年の早春だった。

 つまり敗戦後、北京(中国)から引き揚げ、
 やっとのことで内地の土を踏んだのが仙崎だった。

 今でも仙崎港の岸壁には引揚者上陸の記念碑が立っており、
 その人数は、述べ30万人余りと記されている。

 そんなわけで、上記の国民宿舎を足場に思い出の地、仙崎をたびたび訪れたのだ。

 そればかりでなく、仙崎駅の手前に小串駅がある。

 この駅前には戦前から戦後しばらく、陸軍病院があり、
 ぼくら一家は、引き揚げ後、そこで暮らしていたのだ。

 重症だった弟の体力が回復するまで。

 その病院の前は、広い砂浜になっており、ぼくは浮かれて遊びまわったが。


 そんなこんなで、下関を足場に我が家の歴史を辿りたかった時期があった。

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