丑の戯言 栗田英二

体調不良につき、プロク゜投稿も途絶えがち

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 いつものように携帯ラジオを耳栓で聴きながら散歩していたら、
 「三國連太郎さん逝去」のニュースが入ってきた。

 それでこの名優にまつわる思い出が湧き出してならなかった。
 とは言っても、親交があったとか、名演技が思い出されたなんてものではない。


 今から40年ほど前、杉並区の浜田山で暮らしていた頃のことだ。

 当時から散歩好きだったぼくは、近くの神田川沿いの道をよく歩いていた。

 そんな折、同じ道を黙々と歩いている男をよく見かけた。
 それが三國連太郎だということは、すぐに分かった。

 大柄で、個性的なこの男優の顔を憶えていたからだ。

 そして、その歩きぶりは、求道心にみなぎっているように思えた。

 そんな対面(?)は、一度や二度ではない。
 朝、散歩に出ると、だいたい同じ道でこの人に出会うのだった。

 その近くに住んでいたからだろう。

 今から思うと、歳は50歳を超えていた頃だろうか。

 体を鍛えるために「朝の散歩」に精進しているようにも思えた。


 そんな頃、三國連太郎の姿を地下鉄銀座線の新橋駅でも見かけた。

 プラットフォームでのことで、3人ほどの若い女性と一緒だった。
 彼女たちは、逆の方向の電車に乗るためか、別れの挨拶をしているところだ。

 それを垣間見て驚いたのは、この名優の姿勢の低さであった。
 優しそうに、温かそうに、彼女たちを見送る姿に感嘆したものだ。

 ほろ酔い加減でもあったが。


 このたびの訃報に接してそんなことが思い出されたけれど、
 では、この名優が演じた映画をどれほど観たかとなると、具体的に思い出せない。

 ただひとつ、印象的なのは、何かの映画のチャンバラ場面だ。

 振り下ろす刀、というより、その姿勢の凄まじさで、広い背中がすごく大きく見えた。

 力持ちだったからか、肉体的な鍛錬でそうなったのかは知らないが、
 多分、天性的に頑丈だったのだろう。

 そんなこともあり90歳まで天命を全うしたように思えてならない。

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 久しぶりに映画を鑑賞した。

 ただし、自宅で観たわけで、映画館へ行ったわけではない。


 その日、放映されたのはNHK/BSで、ハリウッド製の『OK牧場の決闘』だ。

 50年ほど前に製作された西部劇映画で、初見は自分がまだ若かった頃だった。
 それだけに初めて観た当時の驚きや感動が蘇ってきた。

 ご存知、主役はバート・ランカスターとカーク・ダグラスで、
 この2人の強烈な個性が溢れ出し、迫力満点。

 物語を記すと長くなるので省略するが、
 要するにOK牧場で善玉と悪玉が闘うところが目玉だ。

 無論、善人役の上記2人が勝ち、同時に男同士の友情が歌い上げられる。

 そこに至るまで物語の流れは複雑で、そこがまた観る者を惹き付けてやまない。

 というのも、保安官のランカスターも、元医師で酒に溺れるダグラスも、
 魅力あふれているからだ。

 ランカスターには恋人とおぼしき女役が存在し、演じるのはロンダ・フレミング。
 それが荒くれ男の中に咲く一輪の薔薇の花のように輝く。

 かつての西部劇には大概、そんな女が存在し、背景がささくれているだけに
 目を見張る美しさがあった。

 こうして息も継がせぬ物語展開を巧みに演出する監督がジョン・スタージェスで、
 この名前を聞くのも久しい。

 また、題名と同じ「♪OKコラル」の主題歌が何度も流され、
 歌っているのは、フランキー・レーンではないだろうか。


 以上、概略だけ記したが、近年、こんな西部劇映画はまだ健在だろうか?

 滅多に観られなくなったとすれば、ハリウッド映画にせよ、一般の映画にせよ、
 何やら寂しい気がする。

 単純明快な善玉と悪玉が登場し、観客を惹きつける作品が滅多に観られないとすれば、
 かえって世間がささくれ立っていくような気がした。

 ちょうど終戦記念日に『赤い鯨と白い蛇』という邦画を鑑賞した。

 この日に合わせて映写会が催されたもので、会場は藤沢市民会館内のホール。

 予備知識は、房総館山を舞台にした太平洋戦争にまつわるドラマという程度だけ。

 ただ、この題名に興味をそそられて出掛けたのだ。

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 物語は、老境にある婦人が戦時中に疎開していた館山を訪ねるところから始まる。

 孫娘と一緒で、かつて暮らしていた大きな古い家に辿り着く。

 以下、その家に住んでいる家族と、かつて住んでいた別の婦人も現れて、
 老若5人の女が同じ屋根の下で数日間、一緒になる。

 物語は老婦人を中心に展開されるが、その内容は省こう。

イメージ 2


 要は、房総半島の先端に位置する館山や洲崎周辺は、
 太平洋戦争の末期、海軍の諸施設が築かれたそうで、再認識させられた。

 特殊潜航艇の基地もあり、若い兵士たちが出撃して帰ってこれなかった。

 前記老婦人の想いは、そのひとりに関する思慕にある。

 題名の『赤い鯨』は、潜水艦などが海上で夕陽に照らされたときのイメージを表し、
 片や『白い蛇』は家を守り、平和を願う伝説的な動物ということだ。

 この映画が主張しているのは、平和への希求となるだろうか。

 監督は女流のせんばよしこ、主演は香川京子、浅田美代子、樹木希林など。
 製作は2005年。



 ところで、この映写会で手渡された資料を見て目を開かされた。

 ひとつは『本土決戦と藤沢の戦争遺跡』というもので、
 この一帯も戦争末期、連合国軍の上陸に備え、防衛施設が築かれたことを知る。

 とりわけ海岸地域に集中的に設営されたそうで、
 空爆と艦砲射撃に耐える洞窟式地下陣地が重点になった。

 とくに米軍は湘南海岸と九十九里浜から上陸し、
 首都東京の制圧に向かうと予想されていた。

 これに対抗するために設営されたわけで、これを〈決号作戦〉と称した。

 ところが、この作戦が実施され、防衛施設などが整備されたのは、
 昭和20年4月というから、敗戦=終戦の数ヵ月前ではないか。

 ともあれ、房総館山や湘南海岸一帯には、
 洞窟式地下陣地を含む数多くの戦争遺跡が残されているというわけだ。

 藤沢市内だけで約30もの特殊地下壕が残され、
 危険なのでそのまま埋め戻され、出入り口が確認される程度という。

 この資料の別紙には、江ノ島砲台跡や藤沢海軍航空隊跡が示されており、
 これら貴重な戦争遺跡は、政争の悲劇を風化させないためにも、
 保存の必要性が叫ばれている。

 これに合わせてか、『藤沢の戦争遺跡』展が市民会館で開催中だし、
 『館山戦争見学遺跡ツアー』が9月11日に催される。

 いずれも戦争の悲劇を風化させないため有効であろう。
 
 遂に"携帯電話(以下ケータイ)族"に変身しようと心に決め、
 近くの某社サービスセンターに飛び込んだ。

 この十年ほどケータイを拒み続けていたので、予備知識はほんとんどない。

 それで案内されるままに、ひとつの受付デスクに座ったら、
 応対してくれた人がギクッとするほどの麗人。

 機種の選択から始まり、いろいろと手ほどきをしてくれたが、
 その人の胸に付けられた名札を見ると、○添(○は秘す)とあり、
 途端にあらぬことが頭を駆けめぐった。

 添という字から、野添ひとみを思い出してしまったのだ。
 そして、その女優が初出演した『うず潮』と題する映画が蘇ってくるのだった。

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 昭和20年代の後半、青臭い学生だったころ、この松竹映画を観た。

 ストーリーなんて思い出せないが、主演佐田啓二の相手役が野添ひとみ。

 結果、この新人女優にすっかり参ってしまったんだなあ。
 甘めの黒い瞳、ピチピチした肢体、弾むような声に魅かれたのだ。

 ぼくはまだ二十歳前で、年頃がこの女優と近かったのも親近感を覚えた。

 そうなると、寝ても覚めても彼女のことが頭から離れず、
 悶々とした日々を送るのだった。

 やがて何かで彼女の住所を知るに至り、決行したのは「ファンレターを送ろう!」。

 どんな美辞麗句を書いたか忘れたが、ともかくもポストに投函。

 そして、何日後だったろうか、一枚の葉書が送られてきた。
 「野添ひとみ」との達筆な字も読める。

 心は躍った。
 ファンレターへのお礼状にすぎないが、まさに宝物である。

 悶々とする度合いはさらに高まった。

 そして、次なる行動に出た。
 住所を頼りにこのスターの自宅を訪ねようと。

 渋谷区恵比寿の何丁目何番地まで分かっているのだ。
 そこは当時、ぼくが住んでいた町からさほど遠くない。

 国電の恵比寿駅から遠くない所に、その自宅はあった。
 立派な邸宅には〈野添〉の表札も……。そうか、それが本名か。

 だけど、辿り着いたからといってブザーなんぞ押す勇気はない。
 純情そのものに立ちすくみ、やがて立ち去るのだった。

 それが後にも先にも映画スターへ送った唯一のファンレターで、
 だからこそ心の奥深くしまいこまれている。

 むろん、このスターと顔を合わせたこともなければ、話したこともない。
 出演映画すべてを観たわけでもなく、雑誌などでその魅力に接するだけ。

 そのうち、男優の川口浩と結婚したのを知り、がっかりしたものだが、
 だからといって、どうしようもない。

 しばらく後、このタフな男優が癌に冒され、
 妻である野添ひとみの介護の苦労が伝えられたりした。

 そのころの容貌は、テレビなどで観るかぎり、やつれきっていた。

 そして、平成7年にこの人も夫の後を追って他界した。

 没年58歳で、そのとき知ったのは、生まれが昭和12年で、
 ぼくと同い年だったことだ。


 ケータイを始めようと思って行動したら、
 あらぬ方角に心をときめかせたわけだが、件の○添さんはそんなことを知る由もなく、
 所期の手続きをしてくれるのだった。

 
イメージ 1



 堀江謙一青年(当時)が小さなヨットで太平洋を渡り、
 サンフランシスコに辿り着いたのは、昭和37年の8月。

 そして、凱旋帰国してから出版された『太平洋ひとりぼっち』が
 ベストセラーになるのと前後して、
 この人はいわば国民的英雄に祭り上げられた。

 これに着目したのが自身もヨットマンで、
 映画スターとしての地歩を固めつつあった石原裕次郎。

 堀江青年の快挙を映画化しようと、
 自らプロモーターと主演を兼ねて制作したのが同名の映画。

 封切りは昭和38年で、その直後にぼくは鑑賞した。

イメージ 2


 それがなんとこの正月、テレビ朝日で放映されたので、
 胸に迫る思いで眺めたり想いにふけったりした。

 堀江謙一とぼくは同年でもあることから、
 快挙を成し遂げたときから共感と親近感を覚えたもの。

 それがこんな歳になってあらためてこの映画を観ると、
 「なんて無謀な若者よ」とか「よくぞ耐えられたもの」などと感心しきり。

 この《マーメイド号》でヨット乗りを演じる裕次郎はまた若々しく、
 体格の大きさは違えども、堀江青年になりきっての演技に感服も。

 記録映画でも巨匠といわれる市川崑が監督しただけあって、
 原作にはない家庭的場面も巧みに挿入するとともに、
 無謀な若者の人間味も巧みに浮かび上がらせる。

 もちろん、洋上での奮闘も迫力満点。

 とにかく、神戸の西宮港を出航してから3か月余り、
 どこにも寄港せずに単身で生き延び、太平洋横断を成し遂げたのだから、
 劇的以外のなにものでもない。

 東京オリンピック前のあの当時、まだ貧しかった日本。
 そんな時代にも強い気概と夢を持ち続けた男がいたのだ。

 そんなところにも感慨を新たにした。


 以下、余談だが、一度たげ堀江青年に会ったことがある。

 あの快挙のあと、東京で彼を主賓とするパーティーが催され、ぼくも潜り込んだ。

 壇上で彼は航海中の苦闘や出来事をとつとつと、しかも延々と話した。
 ところが、あの本を出版した会社の人が「ちょっと、話はそこまで」と
 横槍を入れたのが忘れられない。

 一部でも多く本を売るためには、内容を詳しく話されては叶わないと思ったからだ。

 そのうち、堀江青年はパーティー会場内を手持無沙汰に歩き、
 ぼくのすぐ横にひとりで立ちつくしていた。

 そこでぼくは質問などして話しかける機会を得たのだが、
 なんだか硬くなってしまい、とうとう声を出せず。

 返すがえすも残念をしたと今でも思っている。

 あれから30数年後、ぼくはサンフランシスコへしばしば行った。

 そこで毎度行くのが港寄りにある海洋博物館のような建物。
 その入口の手前、桟橋の際に《マーメイド号》が鎮座しているのだ。

 市当局が大事に現物保存し、観覧に供しているのだろうか。

 あの小さなヨットが陸揚げされている姿は、なぜか寂しげにみえたものだ。

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