腹立ち紛れ(笑)

随想録。思ったことをいろいろと。なお、記事と関連の無いコメントなどは削除します。あしからず。

考古歴史

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黒河道の石仏から銘文

<高野山参詣道の一つ「黒河道(くろこみち)」にある石仏の地蔵菩薩(ぼさつ)像から室町時代の金剛峯寺座主が作ったことを示す銘文が見つかり、和歌山県教育委員会などが22日発表した。>

山歩きをしていると、山の中で古い石仏を見ることがある。近寄って観察することは無く、軽く頭を下げて通り過ぎてしまうことが普通だが、ああいう石仏も、見る人が見ると何らかの発見があるのかもしれない。やはり、発見というのは、知識や技術があってはじめて出来るものなのだ。


以下、ニュース  一部、フォントを変えてある。


金剛峯寺座主の作と判明 「黒河道」の石仏 高野山への道標
紀伊民報 11月23日(水)16時56分配信
 高野山参詣道の一つ「黒河道(くろこみち)」にある石仏の地蔵菩薩(ぼさつ)像から室町時代の金剛峯寺座主が作ったことを示す銘文が見つかり、和歌山県教育委員会などが22日発表した。

 境界を示す「峠」の文字もあったことから、高野山の入り口を示す道標として作られたらしい。県教委と合同で調査した高野山大図書館の木下浩良課長心得は「黒河道が中世には他の参詣道と同様に高野山への登山道として重要だったことが分かる」としている。

 銘文が刻まれていたのは地蔵菩薩像の光背部分(高さ70センチ以上、幅43センチ)。1512年を示す「永正九」の年号や当時の座主だった「重任(ちょうにん)」のほか、地蔵菩薩がある子継峠を示す「香舂(こつき)峠」の文字もあった。「峠」の文字は中世の石仏では全国でも珍しいという。

 県教委は県内にある参詣道などの世界遺産拡大登録を目指し、2010年度から5カ年計画で調査をしている。

弥生前期最大の水田跡

<奈良県立橿原考古学研究所は8日、同県御所市條の中西遺跡で、弥生時代前期(約2400年前)としては国内最大の水田跡(約2万平方メートル)を発見したと発表した。>

奈良という所は、地面を少し大がかりに掘れば、何らかの遺跡が出てくるのかもしれない、とこのブログに書いた事があったが、今回も、少し大がかりに掘ったら、国内最大の水田跡が出てきたわけだ。
発掘調査は京奈和道のインターチェンジ工事に伴い行われている。
水田跡は約850枚あって、いずれもあぜ道で細かく区切られ、1枚あたり東西4メートル、南北3メートルほどの小さなものが多いのだそうだ。当時は耕運機など無いのだから1枚あたりが小さくても問題は無かったのだろう。2400年前に行われていた稲作が、現在でも行われているのだと思うと、なんだか不思議な気がする。現代と同じような田んぼの風景が2400年前にもあったのだ。
ところで、この水田跡は、発掘された後どうなるのだろうか? あまりに広い遺跡をそのまま全て保存することは出来ないのでしょうね。やはり、インターチェンジになってしまうのでしょうねえ…。


以下、ニュース  一部、フォントを変えてある。


<奈良・中西遺跡>弥生前期最大の水田跡 高い計画性と技術
毎日新聞 11月9日(水)1時31分配信
 奈良県立橿原考古学研究所は8日、同県御所市條の中西遺跡で、弥生時代前期(約2400年前)としては国内最大の水田跡(約2万平方メートル)を発見したと発表した。 水田が河川の氾濫による土砂で埋まった後、大規模開発などが行われなかったため地中に残っていたとみられ、橿考研は「当時の水田開発の仕方が非常によく分かる発見」と評価している。

 発掘調査は京奈和道のインターチェンジ工事に伴い今年4月から約1万3500平方メートルで行われている。

 同遺跡は緩やかな傾斜地。水田跡は約850枚あって、いずれもあぜ道で細かく区切られ、1枚あたり東西4メートル、南北3メートルほどの小さなものが多かった。水田に水をためるためには、地面を水平にする土木工事が必要で、橿考研は「1枚あたりの面積が小さいのは、土木工事の労力を抑えるためでは」とみている。


 今回の調査では、水田跡が約9000平方メートル見つかり、過去の調査で確認された約7000平方メートルに加え、隣接地で継続中の発掘調査でも現時点で約4000平方メートルを検出。合わせると約2万平方メートルになるという。

 これまで弥生時代前期の大規模な水田跡としては、服部遺跡(滋賀県守山市)が約1万8700平方メートルで最も大きく、次いで池島・福万寺遺跡(大阪府八尾市・東大阪市)の1万8000平方メートルだった。調査した橿考研の本村充保・主任研究員は「水田を開発する高い計画性と、実行するための技術力・労働力が備わった集団が周辺にいたことが分かる」と話している。

 現地説明会は12日午前10時〜午後3時。JR玉手駅から南西約1.4キロ。駐車場あり。小雨決行。【高島博之】

元寇の軍船

<長崎県松浦市・鷹島沖の伊万里湾で、鎌倉時代の元寇(げんこう)(弘安の役、1281年)の際に沈んだとみられる元の軍船が発見された。>
<日本列島では縄文、弥生時代の丸木舟が出土した例はあるが、木材を組み合わせた中世以前の構造船が原形をとどめて出土したのは初めて。構造船としては最古の発見例となる。>


鎌倉時代の船が原形をとどめて出土したとは驚いた。
歴史書に書かれた事柄というものは、どこか現実味が感じられないところがある。
元寇ということも、歴史の時間に習いはしたが、どこかイメージとしてぼやっとしているのだ。
しかし、実際に軍船の船体が発見されたと聞くと、俄然現実味が強く感じられてくる。
かつてそこで確かに戦はあったのだと。


以下、ニュース  一部、フォントを変えてある。


神風で沈んだ元寇の軍船、長崎・松浦沖で発見
読売新聞 10月20日(木)18時48分配信
 長崎県松浦市・鷹島沖の伊万里湾で、鎌倉時代の元寇(げんこう)(弘安の役、1281年)の際に沈んだとみられる元の軍船が発見された。

 発掘を続けていた琉球大の池田栄史教授(考古学)が、20日明らかにした。鷹島周辺ではこれまで元軍の船材の一部やいかり石、砲弾などが出土しているが、原形をとどめた船体がまとまって見つかったのは初めて。

 船体は鷹島の南、水深20〜25メートルの海底を約1メートル掘り下げた層で昨年発見され、今年9月30日から本格的な調査を行っていた。船底の背骨にあたるキール(竜骨、幅50センチ、長さ15メートル)と、その両舷側から、幅15〜25センチ、厚さ10センチ、長さ1〜10メートルの船底・船腹の板材が多数見つかった。キールの両側には白灰色の塗料が塗られていた。

 中央にキールが通っている船底構造のほか、船材上に中国陶磁器の破片や中国特有のレンガである磚(せん)があったことから、元の軍船と判断された。キール先端にはさらに部材をつなぐ加工があり、全長は少なくとも20メートルに達するとみられる。

 鎌倉時代、中国・元のフビライは日本に服属を迫るため、2度にわたり朝鮮半島の高麗との連合軍で来襲した。文永の役(1274年)に続く弘安の役では、約4400隻からなる大船団で、14万人の将兵が攻めよせ、一部が博多などで戦闘を繰り広げた。その後、船団が鷹島周辺に集結した際に「神風」と呼ばれた暴風雨で、大半が壊滅したとされる。

 日本列島では縄文、弥生時代の丸木舟が出土した例はあるが、木材を組み合わせた中世以前の構造船が原形をとどめて出土したのは初めて。構造船としては最古の発見例となる。

纏向遺跡で新たな発見

<邪馬台国の最有力候補地とされる纒向(まきむく)遺跡(奈良県桜井市)で、「卑弥呼の居館」とも指摘された大型建物跡(3世紀前半)の約5メートル東側から別の大型建物跡の一部が見つかり、同市教委が27日、発表した。>

「卑弥呼の居館」と指摘された大型建物跡がそのとおりであったなら、邪馬台国は、そのまま大和政権へと続いていることになるだろう。
果たして、事実はどうだったのか・・・。


記事に<現場は埋め戻され>たとあるが、このような遺跡は発掘されても埋め戻されてしまうものなのだろうか?
私は、寡聞にして発掘された遺跡がその後どうなるのかよく知らないのである。


以下、ニュース  一部、フォントを変えてある。


纒向遺跡で新たな大型建物跡 初期大和政権の重要施設か
産経新聞 4月28日(木)0時42分配信
 邪馬台国の最有力候補地とされる纒向(まきむく)遺跡(奈良県桜井市)で、「卑弥呼の居館」とも指摘された大型建物跡(3世紀前半)の約5メートル東側から別の大型建物跡の一部が見つかり、同市教委が27日、発表した。建物跡は造営年代が3世紀後半以降と判明。今後、造営年代が遺跡が存続した4世紀前半までの間に特定されれば、初期大和政権の重要施設だった可能性が高まるという。

 見つかったのは南北に5つ並ぶ柱穴で、長さは9メートル。周辺調査から南端の柱穴は建物の南西隅と判明し、柱穴は建物の西面にあたる。

 柱穴の大きさは隣の大型建物跡とほぼ同じ大きさで、柱穴列もさらに北に延びる可能性が高く、大規模な建物だったとみられる。

 ただ、建物跡の大部分はすぐ東側を通るJR桜井線の線路下に埋まっており、建物の規模や造営年代の特定は難しいという。

 現場は埋め戻され、現地説明会はないが、27日に同市立埋蔵文化財センター(桜井市芝)で始まった速報展「50cm下の桜井」で、今回の調査で見つかった土器などの遺物や、昨年の調査で大量に出土したモモの種などが展示されている。

<大阪市中央区の大阪城公園南側で、17世紀初めの大規模な鍛冶工房跡が見つかり、大阪文化財研究所が14日、発表した。>

既に十分整備されている大阪城公園で大規模な工房跡が見つかるということに驚きを感じる。
当時、この鍛冶工房では赤々と燃える炉の中から取り出した、真っ赤に燃える鉄のかたまりをトンカントンカン、景気よく叩く槌の音が響いていたのだろう。
それが今や、静かな公園。
兵どもが夢の跡と言うべきか。


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大坂夏の陣に備えた武器工場か 大阪城近くに鍛冶工房跡見つかる
産経新聞 4月14日(木)15時2分配信
 大阪市中央区の大阪城公園南側で、17世紀初めの大規模な鍛冶工房跡が見つかり、大阪文化財研究所が14日、発表した。徳川家康と対峙(たいじ)した豊臣方が、大坂夏の陣(1615年)に備え、刀などの武器や、陣地を築く土木工事用の鍬(くわ)などを大量生産した“軍需工場”の可能性もあるといい、合戦直前の緊張状態がうかがえる資料になりそうだ。

 現在の大阪城南外堀から南約300メートルの地点を調査したところ、鍛冶の炉跡6基が見つかった。鉄の塊を溶かすための炉穴(直径50センチ前後)や、高温で熱するために空気を送り込む竹製の送風管も出土。工房跡は東西15メートル、南北5メートルの範囲と分かった。

 長さ1メートル、幅20センチの木枠も出土し、刀身を冷やすための水槽と推定。鍬の一部も見つかったことから、工房では刀や工具が作られたという。

 当時の大坂城内には、徳川方の攻撃に備えて多数の小規模な堀が築かれたことが分かっており、工房で生産された鍬などが掘削用に使われたとみている。

 一方、発掘現場一帯は、豊臣方の大名が屋敷を構えた三の丸に相当することから、三の丸造成工事用の工具を作った工房の可能性もあり、松尾信裕・大阪城天守閣館長は「三の丸整備に伴い、大名が屋敷を築く際のお抱え工房かもしれない」と話す。遺物は16、17両日、大阪市中央区の大阪歴史博物館で公開される。

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