腹立ち紛れ(笑)

随想録。思ったことをいろいろと。なお、記事と関連の無いコメントなどは削除します。あしからず。

考古歴史

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岩倉具視の暗号表発見

<明治新政府の中枢で活躍した岩倉具視(ともみ)(1825〜83)が西南戦争で使用した円盤状の暗号表や、徳川15代将軍・慶喜が新政府軍に江戸攻撃中止を求めた直筆の哀訴状など重要文化財級の史料が、京都市内で見つかった。>

 暗号表などというものは、私にはスパイ映画や小説に登場するものであり、非現実的なものに思える。現実だとしても、近代兵器が大量に使われ始めてから後のことという感じがある。江戸から明治になったばかりの頃に既に暗号を使った通信が政府の中枢で使われていたということには、驚きを感じる。
 岩倉具視はお公家さんだったから、有職故実に通じており、膨大な量の知識を持っていたのだろうと想像をたくましくしてしまう。その暗号表を使って行われた秘密通信文も発見されたという。一体どんな内容なのかと興味が湧くのは、私だけではないだろう。
 暗号表は円盤状になっているらしい。実物はどんなものなのだろうか。暗号の仕組みや内容を学校の授業で扱うことは無いだろう。そんなことを知ろうと思えば、多分、趣味の世界ということになるのだろう。しかし、こういうことに興味が湧く人はかなり多いと思う。あまり詳しく扱う必要は無いが、実際の資料を学校の授業で紹介すれば、歴史の授業もとても楽しいものになると思うのだが。
 発見された資料は重要文化財級ということだが、是非とも文化財に指定してもらいたい。大体、古い事物に文字が書いてあればその内容がどんなものであっても、それは貴重な資料であることに間違いはないと私は思う。文字が書かれた古い事物はそれがどんなものであっても壊すことなく保存することが重要だということが常識として定着すれば嬉しい。また、中学校の授業などでそのことを強調して教えてもらいたい。


以下、ニュース  一部、フォントを変えてある。

重文級、岩倉具視の暗号表発見…西南戦争で使用
読売新聞 2月3日(月)18時27分配信
 明治新政府の中枢で活躍した岩倉具視(ともみ)(1825〜83)が西南戦争で使用した円盤状の暗号表や、徳川15代将軍・慶喜が新政府軍に江戸攻撃中止を求めた直筆の哀訴状など重要文化財級の史料が、京都市内で見つかった。

 江戸時代後期の本草(ほんぞう)学者・山本亡羊(ぼうよう)(1778〜1859)の主宰した塾「山本読書室」跡(京都市下京区)の土蔵を松田清・京都外国語大教授(日本洋学史)が調査し、数万点の史料を確認、目録にまとめた。

 同塾は本草学(博物学)の一大拠点として1811〜1903年に開設。全国から集まった門人が医学や儒学などを学んだ。

 読書室跡の土蔵は2階建て約100平方メートルで、松田教授が2011年から土蔵内部を調査し、書籍・古文書類約6000件、書画類約1000件のほか、博物標本などを確認した。このうち、岩倉関連の史料は数百点あり、亡羊の孫・復一が岩倉の秘書を務め、伝記「岩倉公実記」の編集に携わったことから、保管されていたとみられる。

 暗号表は、「イ」「ロ」「ハ」などのカタカナを書いた大小2枚(直径12センチと10センチ)の紙製の円盤を重ねたもので、小さい円盤の文字を大きい円盤の文字に変換する仕組み。暗号が見破られないよう文字変換のパターンは5通りある。

 この暗号表を使って岩倉が大久保利通らと交わしたとみられる秘密通信文61通も残されていた。
1877年の西南戦争の際に宮崎県で情報収集した新政府が、反乱士族について「(士族の一部は)ハンシン(反乱の気持ち)アレドモ動カズ」と発信した電報もある。

<千葉県市川市の雷下(かみなりした)遺跡で、縄文時代早期(約7500年前)に作られた丸木舟の船底部分(全長約7・2メートル、幅約0・5メートル)が出土したと県教委が31日、発表した。>

 これは、発見されたものでは日本最古だ。当時の人はこの丸木舟で大海原へ漕ぎ出したのだろうか。丸木舟はとても転覆しやすいだろう。丸木舟で海原へ出た当時の人は勇敢だったに違いない。或いは、一艘だけではなく、複数の丸木舟を組み合わせて使っていたのかもしれない。もしそうなら、転覆する可能性を低くすることが出来る。丸木舟の使い方について何らかの証拠が出てこないものだろうか。
 貝塚は、文字通り貝殻が多く見つかるのだろうが、それだけではなく他のものもさまざま見つかると聞く。魚の骨なども見つかるのだろうか。魚の種類が分かれば、どの辺りまで舟を漕ぎ出していたかも、分かるかもしれない。海岸近くだけだったのか、それとも、かなり沖まで漕ぎ出していたのだろうか。…
 眩しい太陽、澄んだ空気。排気ガスなど無かった当時の海は、美しいものだったに違いない。春の太陽に照らされてキラキラと輝く海原へ漕ぎ出す舟を、家族は期待をこめて見送った。魚を沢山獲ってきて。木の実、美味しい草を使って、きょうは煮物にしよう。家に入ると、一番上の女の子は家の真ん中に置かれた縄文式土器を見た。


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東京湾で漁?「日本最古」の丸木舟、発見
読売新聞 1月31日(金)15時23分配信
 千葉県市川市の雷下(かみなりした)遺跡で、縄文時代早期(約7500年前)に作られた丸木舟の船底部分(全長約7・2メートル、幅約0・5メートル)が出土したと県教委が31日、発表した。

 発掘した県教育振興財団文化財センターによると、縄文早期の丸木舟の発見は国内で初めてで、日本最古とみられる。

 丸木舟は昨年11月に土中に埋まった状態で見つかったという。米国の会社で放射性炭素年代測定を行った結果、年代が判明。素材はムクノキで、石器でくりぬいて作ったとみられる。

 日本最古級の丸木舟はこれまで、鳥浜貝塚(福井県)や入江内湖遺跡(滋賀県)でほぼ完全な形のものが出土しているが、いずれも縄文時代前期(約5500年前)のものという。

 雷下遺跡は縄文時代早期の貝塚で、当時は海岸部にあたる場所。同センターの白井久美子調査課長は「東京湾にこぎ出し、漁をしていたとみられる」と話している。

秀次に切腹強要に疑義

<豊臣秀吉は実子の秀頼が生まれると、おいの関白秀次が邪魔になって切腹させた−。こんな通説に国学院大の矢部健太郎准教授(日本近世史)が疑義を呈し「秀吉は秀次を高野山へ追放しただけだったが、意図に反し秀次が自ら腹を切った」とする新説を学術誌「国学院雑誌」に発表した。秀次の死をめぐっては、その背景を明確に記した史料が同時代になく、研究者も興味深い説だと評価している。>

 歴史的事実というのは、大雑把なところは分かるが、実際の細かいところは分からない。それは、現在の現実の事件を考えてみるとよく分かる。これだけ交通通信手段が発達し、情報にあふれている現在でさえ、何か事件が起こった際に、その実態を知るのはかなり難しいことだ。同じ事件でも報道各社で伝える内容が違っている。どれが本当だか、よく分からない。見ると聞くでは大違い、の俗諺は何時まで経っても真実なのだろう。ましてや、遠い過去の事件における当事者の考えとなると、もはや想像するしかない、というのが真実だ。
 だから、歴史はロマンの源だ。次々に新しい歴史小説が生み出される理由がそこにある。果たして秀吉は秀次を切腹させようと思っていたのか。本人が生きていないのだから聞くことが出来ない。仮に今生きていたとして、聞くことが出来たとしても、本心を話すとは限らないのだ。結局本心など誰にも分からない。では、実際に切腹の命令を出したのか。実はこれも、よく分からないのだそうだ。明確な証拠が無いのだ。
 ただ、証拠のひとつとされる、「御湯殿上日記(おゆどののうえのにっき)」文禄4年7月16日条の「関白殿 昨十五日の四つ時に御腹切らせられ候よし申す」とある文は、矢部准教授が指摘しているとおり、普通に読めば、「御腹をお切りになりました」という意味だろう。「切らされた」と受け身に読むのは、無理があるように私は思う。
 果たして、秀吉は切腹の命令を出したのか。本心はどうだったのか。周りにいた者たちの思惑はどうだったのか。秀次の思いは…。興味の種は尽きることが無い。


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豊臣秀吉「秀次に切腹強要」に疑義 国学院大准教授が新説
産経新聞 11月18日(月)7時55分配信
 豊臣秀吉は実子の秀頼が生まれると、おいの関白秀次が邪魔になって切腹させた−。こんな通説に国学院大の矢部健太郎准教授(日本近世史)が疑義を呈し「秀吉は秀次を高野山へ追放しただけだったが、意図に反し秀次が自ら腹を切った」とする新説を学術誌「国学院雑誌」に発表した。秀次の死をめぐっては、その背景を明確に記した史料が同時代になく、研究者も興味深い説だと評価している。(渡部裕明)

 秀吉の姉の子である秀次は天正19(1591)年、実子のいない秀吉の養子となり、関白を引き継いだ。しかし秀頼誕生から2年足らずの文禄4(1595)年7月に失脚。高野山へ追放され、同月15日、金剛峯寺の前身である青巌寺で切腹した。

 切腹に至る詳しい事情を物語る同時代の史料はないが、儒学者、小瀬甫庵(おぜほあん)が江戸時代初期に記した太閤記は「切腹命令」という文書を掲載。文書には石田三成ら五奉行が署名し、7月13日の日付がある。

 矢部准教授はこの日付について、「京都から約130キロ離れた高野山までは坂も厳しく、歩いて3日はかかる。13日付の命令書を持って多くの兵を連れて赴き、15日に切腹させるのは難しい」と疑念を示す。

 そこでさまざまな史料にあたり、秀吉が同月12日に高野山の僧、木食応其(もくじきおうご)へ宛てた書状に着目。「秀次が高野山に住むにあたっては見張り番を付け、料理人や世話係などを用意してほしい」と記されており、「数日後には切腹させる人に、料理人が必要だろうか。秀吉は秀次を長期間、高野山に住まわせようと考えていたと思う」と推測する。

 また秀次切腹の情報を最初に朝廷へ伝えた「御湯殿上日記(おゆどののうえのにっき)」文禄4年7月16日条には「関白殿 昨十五日の四つ時に御腹切らせられ候よし申す」とある。矢部准教授はこの「切らせられ」という記述は秀吉が「切らせた」のではなく、敬語の「お切りになった」と読むべきだと指摘。「秀次は高野山での幽閉に耐えられず、身の潔白を証明するために自らの決断で切腹した」とみている。

<国の天然記念物に指定されている山口県美祢市の鍾乳洞「景清洞(かげきよどう)」に、江戸時代の雨乞いとみられる記録が残されているのを、同市の元高校教諭蔵本隆博さん(64)が見つけた。>

 雨乞いというものが一体いつ頃まで行われたものなのか考えたことが無かった。今回の発見から江戸時代までは行われていたことが分かる。
 また、雨乞いにはどういうことが実際に行われたのか。これも私はまったく知らない。ただ、野外で火を焚いて天に向かって祈る、或いは、火は焚かないがやはり天に向かって祈る、というイメージがある。しかし、今回見つかった記録からは、鍾乳洞の中で雨乞いが行われたことが分かる。私のイメージとは随分と違っている。真っ暗な鍾乳洞の中で一体どういう儀式が行われたのだろうか。
 この記録の発見者の蔵本さんは、小さい頃からこの鍾乳洞には何度も来たことがあり、洞内のこの文字も見て知っていた。しかし長らくいたずら書きだと思っていたのだそうだ。昔から見ていたいたずら書きのような文字が、貴重な江戸時代の雨乞いの記録だと気づいた時の気持ちはどんなだったろうか。


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落書きと思っていたら、江戸時代の雨乞い記録
読売新聞 9月24日(火)10時51分配信
 国の天然記念物に指定されている山口県美祢市の鍾乳洞「景清洞(かげきよどう)」に、江戸時代の雨乞いとみられる記録が残されているのを、同市の元高校教諭蔵本隆博さん(64)が見つけた。

 研究成果を県内の地方史研究誌で発表した蔵本さんは「水が湧き出る洞内が雨乞いの地となった可能性を示す貴重な資料」と話している。

 県立高の校長も務めた蔵本さんは、国語の教諭時代から、ライフワークとして県内外の祭事や遺跡などを研究してきた。美祢市秋芳町秋吉出身で、幼い頃から景清洞を何度も訪れ洞内の文字に気づいていたが、「落書きと思っていた」という。

 何かの資料ではないかと思い始めたのは約3年前。秋吉台について学ぶ美祢高の生徒と一緒に、頻繁に洞内に入り、「雨請」「雨乞」などの文字のほかに、江戸時代の年号が記されていることから、当時の人が雨乞いの記録として残したものではないかと推測した。

 蔵本さんは、炭のようなもので書かれたこれらの文字を「壁書(へきしょ)」と命名。「延享四年 卯七月五日 赤村上郷 八十八人 雨請ニ通」などと書かれた計28か所の壁書の解読を進めた。

 うち16か所で、▽「雨請」「雨乞」の文字▽「美祢郡赤村」など美祢郡の地名▽ほとんどが夏季に10〜88人の集団で入洞した記述――などが読み取れ、年号は干ばつの記録と一致した。

 こうした結果から、蔵本さんは16か所は雨乞いに関する記録と判断。今年6月に「山口県地方史研究」(山口県地方史学会発行、第109号)に論文を発表した。

 景清洞は、1962年に観光施設として開発されるまで、大量の土砂があり、途中から腹ばいで進むほど狭く、足元が見えないほど暗かった。蔵本さんは「雨乞いは水が湧き出る場所で行われたため、景清洞が雨乞いの地となった可能性がある。たいまつを頼りに狭くて暗い鍾乳洞に入るほど水不足が深刻だったのだろう」と推測する。

 壁書は、水で流れるなどして、字の判読が難しくなっているものもある。蔵本さんは「壁書は歴史の証人。観光の目玉にもなるので、しっかりと保存してほしい」と訴えている。(清島愛)

<韓国では、「日本の統治がなければ韓国は今以上に発展していた」との考えが定説となっている。だが、実際には韓国統監府と朝鮮総督府時代の40年間に近代国家に必要なあらゆる社会インフラが整備された。>

 もし日本の統治がなければ韓国は未開のまま、或いは、未開状態からやっと踏み出したばかりだっただろうというのが妥当な推定だ。我々日本人は真実を知る必要がある。
 日韓併合前の朝鮮の様子をイギリス人旅行家が記している。日本人ではなく、朝鮮人でもない、イギリス人の旅行家が記していることに、記述の公平性における価値がある。


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イギリス人旅行家が記した日本併合前の朝鮮の産業、司法
NEWS ポストセブン 9月14日(土)7時6分配信
 韓国では、「日本の統治がなければ韓国は今以上に発展していた」との考えが定説となっている。だが、実際には韓国統監府と朝鮮総督府時代の40年間に近代国家に必要なあらゆる社会インフラが整備された。
 
 本誌SAPIOが特集を組む「韓国は先進国になれない」、その理由のひとつが歴史の忘却である。日本が統治する以前の状況はどうであったか。単行本『日本人が知っておくべき「慰安婦」の真実』で歴史を検証しているジャーナリストの水間政憲氏が明らかにする。ここでは産業、司法制度について紹介する。

 * * *
【産業】
 貨幣経済が未発達で商品の流通が円滑にいかないため、工業や商業はほとんど発達しなかった。工業は農家が副業で行なう手工業程度だった。

 イギリス人旅行家のイザベラ・バードが1894年に釜山に上陸して見た近代的産業は、すべて日本人の手によるものだった。

〈銀行業務は東京の第一銀行が引き受け、郵便と電信業務も日本人の手で行われている。居留地が清潔なのも日本的であれば、朝鮮人には未知の産業、たとえば機械による精米、捕鯨、酒造、フカひれやナマコや魚肥の加工といった産業の導入も日本が行った〉(『朝鮮紀行 英国婦人の見た李朝末期』イザベラ・バード著、講談社学術文庫。以下同)

【近代司法制度】
 三審制の近代司法制度が整備されたのは、朝鮮総督府時代になってからだ。1911年発行の『日本之朝鮮』(有楽社刊)には2枚の写真が掲載されている。ひとつは李氏朝鮮時代の裁判の様子を撮影した写真で「舊(旧)裁判」とキャプションが振ってある。もうひとつは司法制度が整った後の様子を撮影した写真で「新法廷」と書かれている。様変わりしたことがわかる。

 イザベラも李朝時代の司法の未開度について記している。

〈朝鮮人には独特の処罰方法があって、役所の雑卒が容赦のない笞打ちを行い、罪人を死ぬほど打ちすえる。罪人が苦痛に叫ぶ声は近くのイギリス伝道館の中にまで聞こえてくる〉

※SAPIO2013年10月号


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