腹立ち紛れ(笑)

随想録。思ったことをいろいろと。なお、記事と関連の無いコメントなどは削除します。あしからず。

考古歴史

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快慶最古の作品か

<奈良県三郷(さんごう)町の持聖院(じしょういん)に伝わる鎌倉時代前期の「一針薬師(ひとはりやくし)笠石仏」(町指定文化財)に、同時代を代表する仏師・快慶を示すとみられる銘文が刻まれていることがわかった。
 東大寺南大門の金剛力士像で知られる快慶が石仏の作図にかかわったというこれまでの説を裏付けた形で、研究者は「快慶の最初期の作品ではないか」と指摘している。>


 三郷町が文化財に指定していたのは正しかった。この石仏は、有名な仏師・快慶の作の可能性があり、もしそうなら、最初期の作品ということになるらしい。
 この石仏は、町指定の文化財になっていたが、文化財に指定されていない、名も知らぬ多くの石仏が全国にあるに違いない。町外れで、或いは、山歩きで見つけた、忘れ去られたような石仏も、ひょっとしたら、有名な仏師の作かも知れない。たとえ有名な仏師の作でなくても、忘れ去られていても、石仏は石仏だ。大切にしたいものである。


以下、ニュース  一部、フォントを変えてある。

石仏に「快慶」示す銘文、最初期の作品か…奈良
読売新聞 9月2日(月)14時41分配信
 奈良県三郷(さんごう)町の持聖院(じしょういん)に伝わる鎌倉時代前期の「一針薬師(ひとはりやくし)笠石仏」(町指定文化財)に、同時代を代表する仏師・快慶を示すとみられる銘文が刻まれていることがわかった。

 東大寺南大門の金剛力士像で知られる快慶が石仏の作図にかかわったというこれまでの説を裏付けた形で、研究者は「快慶の最初期の作品ではないか」と指摘している。

 石仏は花こう岩の表面に彫られ、高さ、幅各約2メートル、厚さ25〜30センチ。薬師如来を中心に、日光、月光両菩薩(ぼさつ)や十二神将の像を線で刻んでいる。

 当初は同院の裏山に安置されていたが、周囲に木が茂って倒壊する恐れが出てきたため、同院が今年5月に移動し、同院や町教委などでつくる調査委員会が拓本を取って銘文などを調査。造立にかかわった人物として、「アン(梵字(ぼんじ))大工匠人(しょうじん)」の名があることがわかった。快慶は、手がけた初期の作品で「巧匠アン阿弥陀仏」という法号を用いており、快慶を指す可能性が高いという。

 石仏にはほかに、同院の前身の寺院を創建した鎌倉時代の高僧・貞慶(じょうけい)が造立を発願したことや、「如月(きさらぎ)廿日(2月20日)」に誰かの一周忌にあわせて造られたことなどが記されていた。同じ時代の公家で、貞慶と親しかった九条兼実の長男・良通が1188年2月20日に22歳で亡くなっていることから、1189年に造られた可能性があるという。

 調査した同県大和郡山市教委の山川均主任(中世考古学)は「快慶の作で現存最古とされる、米ボストン美術館所蔵の弥勒(みろく)菩薩像は、1189年9月15日の作とされている。一針薬師はそれよりも半年古いと考えられ、快慶の原点ともいえる作品だ」と話している。

謎呼ぶ短剣

<滋賀県高島市の上御殿(かみごてん)遺跡で、弥生中期から古墳前期(紀元前350年〜紀元300年)とみられる、国内初の双環柄頭(そうかんつかがしら)短剣の鋳型が見つかった。県文化財保護協会が8日発表した。
 柄の先に二つの輪が付き、剣身が直線状のデザインは朝鮮半島でも出土例がない一方、春秋戦国時代(紀元前8〜同3世紀)の中国北方騎馬民族が使った「オルドス式短剣」と類似している。伝達ルートなど当時の青銅器文化に一石を投じる発見だ。>


 この鋳型の柄の部分には、銅鐸によく使われる文様があるので、国内で作られた可能性が高いらしい。その原型となった短剣が、もしも中国北方にあったとするならば、一体どういう道を通って我国に入ってきたのだろうか。朝鮮半島に同型の短剣の出土例が無いことから、半島を通らない道で入ってきた可能性が考えられる。果たして、事実は、どうだったのだろうか。


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謎呼ぶ短剣、柄の先に二つの輪 滋賀・上御殿遺跡で鋳型
朝日新聞デジタル 8月9日(金)5時37分配信
 【郡司達也】滋賀県高島市の上御殿(かみごてん)遺跡で、弥生中期から古墳前期(紀元前350年〜紀元300年)とみられる、国内初の双環柄頭(そうかんつかがしら)短剣の鋳型が見つかった。県文化財保護協会が8日発表した。

 柄の先に二つの輪が付き、剣身が直線状のデザインは朝鮮半島でも出土例がない一方、春秋戦国時代(紀元前8〜同3世紀)の中国北方騎馬民族が使った「オルドス式短剣」と類似している。伝達ルートなど当時の青銅器文化に一石を投じる発見だ。

 鋳型はシルト岩製で、2枚が重なった形で出土。いずれも長さ約30センチ、幅約9センチで厚さは4センチ前後。柄と剣身を一度に鋳造するタイプだが実際に鋳造した痕跡はなく、短剣自体も出土していない。

 短剣は柄の先に直径2・3センチの二つの輪を持ち、剣身は直線。鍔(つば)がなく、柄に国内の銅鐸(どうたく)に多い幾何学模様の「複合鋸歯(きょし)文」や「綾杉(あやすぎ)文」があった。

 青銅器の短剣は国内では北部九州や瀬戸内地方を中心に出土例があるが、剣身にくびれがあり、柄の部分と別々に鋳造している。


 小田木治太郎(おだぎはるたろう)・天理大准教授(考古学)は「中国北方の短剣をベースに国内で作られた可能性が考えやすいが、伝達ルートは不明。背景を語る資料がないか、東アジア規模で注目する必要がある」と話す。

 現地説明会は11日午前10時半と午後1時半の2回。JR安曇川(あどがわ)駅から徒歩15分。小雨決行。問い合わせは協会(077・548・9780)へ。

     ◇

 〈オルドス式短剣〉 春秋戦国時代の中国北方(現在の河北省北部、北京北部、内モンゴル中南部)で使われていた青銅製の短剣。柄頭には向かい合う2羽の鳥をモチーフにした二つの輪がある。剣身が直線的で、全体を一体として鋳造するのが特徴。
朝日新聞社

<江戸時代中期(1760年代)に作製された、竹島を最初に記したとみられる日本地図2点が確認されたことが1日、分かった。調査した島根県が特定した。2点は、竹島が記された最も古いとされる日本地図「改正日本輿地路程(よちろてい)全図」(1779年初版)の約10年前に作られ、同全図のもとになったとみられる。文献資料などをもとに「遅くとも17世紀半ばには竹島の領有権を確立した」とする日本政府の主張を補強する材料となりそうだ。>

 竹島が日本の領土であるのは、動かしがたい事実だ。江戸時代中期には、既にそれがはっきりと認識されていた。今回確認された資料もそれを裏書している。
 韓国は日本の仏像を盗んでおきながら、それを返還する必要が無いと公言する国だ。今回確認された資料が盗まれる可能性も否定できない。しっかり保管してもらいたい。


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「竹島」領有示す最古地図 島根で2点確認 江戸中期に作製
産経新聞 8月1日(木)14時32分配信
 ■日本政府の主張補強

 江戸時代中期(1760年代)に作製された、竹島を最初に記したとみられる日本地図2点が確認されたことが1日、分かった。調査した島根県が特定した。2点は、竹島が記された最も古いとされる日本地図「改正日本輿地路程(よちろてい)全図」(1779年初版)の約10年前に作られ、同全図のもとになったとみられる。文献資料などをもとに「遅くとも17世紀半ばには竹島の領有権を確立した」とする日本政府の主張を補強する材料となりそうだ。

 新たに確認された2点は、1760年代に作られた「日本図」と、明和5(1768)年の「改製日本扶桑分里図(ふそうぶんりず)」。水戸藩の地理学者、長久保赤水(せきすい)(1717〜1801年)が手掛けた。

 改正日本輿地路程全図も長久保の作製で、江戸時代に日本が竹島の領有権を確立していたことを示す証拠の一つとされる。2点は同全図の下図と原図とみられ、長久保が早くから竹島の存在をはっきり認識していたことを裏付ける貴重な資料となる。

 長久保の子孫で、茨城県高萩市の元教員、長久保甫(はしむ)さん(73)が高萩市教委に寄託したものを、島根県の竹島問題研究会が調査、作製年代を特定した。

 2点とも隠岐諸島の北西に、「松島」と表記されている現在の竹島、「竹島」と表記されている鬱陵島の島名が記されている。

 また、改製日本扶桑分里図には、地図上に縦と横の線が引かれていた。隠岐諸島から見た竹島と鬱陵島の位置が北北西から、より正確な北西方向に書き直された跡も残る。

 鬱陵島の横には「見高麗猶雲州望隠州」の表記も。「ここ(鬱陵島)から朝鮮(高麗)が見えるのは、ちょうど出雲国(雲州)から隠岐国(隠州)を望み見るようなものだ」との内容で、鬱陵島を朝鮮領と認識していないことが推認できる。

 県によると、韓国では竹島を正確に記した同年代の地図は一枚も確認されていない
という。

 県は「長久保が竹島を日本領という認識で日本地図を作製していたことがはっきり確認できた。江戸時代から竹島を含む日本の正確な地図があった」と、日本の主張の正当性を改めて強調している。

 2枚の地図は、松江市の県竹島資料室で複製版を展示する予定。

 竹島問題に詳しい拓殖大国際学部の下條正男教授(日本史)の話「竹島の日本領を示す改正日本輿地路程全図の作製過程を知ることができる資料だ。日本政府の主張を裏付けることにつながり、今回の発見は大変評価できる」

長山古墳の存在確認

 <「幻の古墳」存在確認>という見出しから、場所が特定できなかった古墳が発見されたのだと思ったが、違っていた。場所は分かっていたが、開発で消滅してしまったと思われていたものだ。
 長山古墳は、江戸時代には既に墳丘部分が削り取られ、昭和初期には前方部分も開発で消滅したのだそうだ。それで、幻の古墳とされていたのだ。しかし、今回の発掘で前方部分は削られていなかったことが判明した。土の下に埋められていたのだ。
 この発掘調査は、市営住宅の建て替えに伴い行われた。市営住宅は、かつての古墳の上に建てられていたのだろうか。住民は、古代の夢を見ることもあったのだろうか。


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<長山古墳>「幻の古墳」存在確認 百舌鳥古墳群最古級、4世紀後半の埴輪−−堺
毎日新聞 7月31日(水)9時1分配信
 堺市は30日、同市堺区の住宅地で、長山古墳の葺(ふ)き石や埴輪(はにわ)片が初めて見つかったと発表した。長山古墳は文献に記載されていたが、開発で墳丘が削り取られ「幻の古墳」とされていた。築造が4世紀後半とみられ、百舌鳥(もず)古墳群最古級だったことも判明。同時期の乳岡(ちのおか)古墳とともに、古墳群の中で最も大阪湾寄りに位置しており、市は海岸近くから巨大古墳群が形成され始めたことを示すとみている。

 市営住宅の建て替えに伴い、市が今年5月から約2200平方メートルを発掘調査していた。

 市文化財課によると、見つかった葺き石は墳丘のすそに積み上げたとみられる石列。長さ16メートル、幅1・4メートル、高さ0・5メートルで直線上に並んでいた。前方後円墳の前方部の一部とみられ、長山古墳は100メートル級の前方後円墳だったと判明した。

 付近からは、腕輪を模した車輪石(直径約20センチ)の破片が1点出土。盾や、身分が高い人の傘の形をした埴輪片も多数出土し、形状や特徴などから4世紀後半とみられるという。

 長山古墳は当時の海岸線から数百メートルの位置にあった。現存する乳岡古墳はその約700メートル南に位置する。百舌鳥古墳群の最古級2基が海沿いに造営されていたことに、堺市の担当者は「海からの眺めを意識し、権力を誇示する目的だったのでは」と推測している。

 現地説明会は8月3日午後1〜4時。申し込み不要。少雨決行。問い合わせは堺市文化財課分室(072・273・6101)。

 百舌鳥古墳群は4〜6世紀に造営され、大山(だいせん)古墳(仁徳陵)など巨大古墳が集まり、44基が現存する。【高瀬浩平、服部陽】

猪鹿垣

<江戸中期に小豆島(香川県)に築かれ、野生動物の食害から農地を守った猪鹿(しし)垣を調査、研究する「小豆島の猪鹿垣を考える会」(港誠吾会長、123人)の今年度総会が開かれ、平成23年4月に発見された土庄町大部地区の古地図が披露された。>

 今、全国各地で鹿の食害が問題になっている。野生の鹿が増えているのだ。野生動物が増えるということは、自然が豊かになったということで、素晴らしいことではある。しかし、それもバランスが問題で、今、鹿が他の動物に比べて多く増えているらしい。農作物だけではなく、野山の多くの草木を食べ尽くすので、大変頭の痛い問題になっているのだ。鹿が増えた原因は何なのか。天敵の狼がいなくなったからだとも言われている。
 では、江戸時代には、野生動物の食害は無かったのだろうか。今までそんなことはあまり考えたことが無かったが、この記事で江戸時代にも食害はあったということが分かった。それもかなり深刻であったようだ。
 江戸時代には、野生動物の食害から農地を守るために、猪鹿垣なるものを作ったらしい。文字から見るに、食害の主役は今と同じで、猪や鹿であったようだ。この猪鹿垣というのは、土や石で作ったもののようで、驚くなかれ、その総延長120キロもあるというから、当時の食害の深刻さが推察される。それにしても、120キロとは、にわかには信じがたいほどの長さである。


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「猪鹿垣」示す古地図披露 小豆島の「考える会」 香川
産経新聞 5月25日(土)7時55分配信
 ■今年度も5地区で実測調査

 江戸中期に小豆島(香川県)に築かれ、野生動物の食害から農地を守った猪鹿(しし)垣を調査、研究する「小豆島の猪鹿垣を考える会」(港誠吾会長、123人)の今年度総会が開かれ、平成23年4月に発見された土庄町大部地区の古地図が披露された。

 見つかったのは明治初期、名東(みょうどう)県(1871〜76年)に帰属していたときの大部村の「地引絵図」(地籍図)。畳6枚ほどの大きさがあり、農地の面積や所有者とともに、山地と農地の境界に灰色の線で猪鹿垣が示されている。

 会員らは昨年度、この古地図に基づいて同地区の猪鹿垣を調査しており、地図に示されている猪鹿垣が現在も随所に残っていることに関心が集まっていた。

 会員らは、土庄町と小豆島町の5カ所、延べ約7キロも実測調査していて、結果を地図上に示した実測図も披露された。

 同会では今年12月から来年2月にかけて小豆島町の池田、徳本など5地区での実測調査を計画。「総延長120キロと言われる小豆島の猪鹿垣の全容の調査と教育や観光への活用に取り組む」としている。


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