腹立ち紛れ(笑)

随想録。思ったことをいろいろと。なお、記事と関連の無いコメントなどは削除します。あしからず。

考古歴史

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

<浄土真宗中興の祖・蓮如(1415〜99)が築いた京都市山科区の山科本願寺跡で、蒸気で体を温める「サウナ風呂」の跡が見つかったと市埋蔵文化財研究所が6日、発表した。本堂に近い場所に位置しており、蓮如が使っていた可能性が高いという。>

 昔は風呂と言えば、蒸し風呂のことだったと聞いた事がある。現在の風呂は、「水(すい)風呂」と呼んだとか。
 現在のように、体全体を浸けるほどの量の湯を沸かすとなると、大量の燃料が必要になる。薪で沸かすとしたら、周りの山はすぐにはげ山になってしまうかもしれない。考えてみれば、現在の日本の風呂というのは、実に贅沢なものである。


以下、ニュース  一部、フォントを変えてある。

<山科本願寺跡>蓮如が使用か 「サウナ風呂」の跡発見
毎日新聞 9月6日(木)22時30分配信
 浄土真宗中興の祖・蓮如(1415〜99)が築いた京都市山科区の山科本願寺跡で、蒸気で体を温める「サウナ風呂」の跡が見つかったと市埋蔵文化財研究所が6日、発表した。本堂に近い場所に位置しており、蓮如が使っていた可能性が高いという。

 山科本願寺は1478年、蓮如が布教拠点として造営を始めた。堀や土塁を巡らせて壮大な規模を誇ったが、1532年、法華宗徒らに攻められ、焼失した。

 風呂の遺構が見つかったのは、寺の跡地の西端の一角。石風呂、かまど、たたき、井戸などの跡と見られる。石風呂は南北約6メートル、東西約3メートルで、地面から約1メートル掘り下げた構造だった。粘土や石で固めたドーム状の天井があったと見られる浴室と準備作業のための前室に分かれていた。

 まきを燃やして熱した地面に塩水をまき、蒸気を発生させるサウナ形式で、こうした石風呂は当時、西日本に広く分布していた。

 柏田有香・同研究所調査研究技師は「風呂は宗主一族や高位の僧が使ったと思われる。当時、塩水の蒸気を浴びるのは健康によいと考えられていた。蓮如は85歳まで生きて長寿だったが、健康にはかなり留意していたのでは」と話している。【榊原雅晴】

公園内で相次ぐ発見

<小田原市はこのほど、2010年度から史跡発掘調査を進めている小田原城址公園(同市城内)の「御用米曲輪」で江戸時代中期以降に造られた「瓦積塀」の一部が見つかったと発表した。…(中略)…広さ約1万8千平方メートルの御用米曲輪では、昨年度に戦国時代の障子堀跡が確認。今回も瓦積塀以外に、大規模な建造物(礎石建)跡が出ているなど、興味深い遺構の発見が相次いでいる。>

 公園内から次々と遺構が発見されているというのが面白い。公園というからには、誰でも入れる場所なのだろう。そんな所から発見が相次ぐということに不思議な気がする。
 公園になるということは、十分調査がされたからだと思っていたが、そうではないらしい。○○跡公園などと言われている公園には、発掘調査をすればさまざまな遺構が出てくるものが他にも沢山あるのだろうか。今まで気にも留めていなかった公園が、急に気になりだしそうな記事である。

以下、ニュース  一部、フォントを変えてある。

全国的に珍しい、小田原城跡で「瓦積塀」の一部を立ったままの状態で発見/小田原
カナロコ 8月9日(木)13時0分配信
 小田原市はこのほど、2010年度から史跡発掘調査を進めている小田原城址公園(同市城内)の「御用米曲輪」で江戸時代中期以降に造られた「瓦積塀」の一部が見つかったと発表した。 立ったままの状態で発見されるのは全国的にも珍しいという。同市は18日、市民見学会を開催して公開する予定。

 今回の調査地は、同公園内にある天守閣の北側、江戸幕府へ送る米を保管していた場所。当時の絵図に複数の米蔵が描かれており、管理が厳重な区域だったとされている。

 見つかった瓦積塀は2カ所。1カ所は長さ約2メートル、幅約0・9メートル、高さ約1・3メートル(最大)。内部に瓦が19段積み上げられた土塀になっている。実際の壁の長さは5メートル以上あったとみられる。

 もう1カ所は、同市根府川周辺で産出される平たい石(根府川石)の基礎部分と、積み上げられたと思われる瓦が確認された。

 約10メートル離れた両塀の前面には、約1・6メートル間隔で柱の跡、後面に石積みもある。瓦積塀は江戸期に起きた大地震で壊れた建物の瓦を再利用。強度が高いことから、屋根を設けて火薬庫などの建造物にした可能性があるという。

 小田原城の建造物は、明治時代に入り、ほぼすべて解体された。唯一残っていた二の丸平櫓も関東大震災で倒壊した。

 現在見られる瓦積塀としては、戦後造られた同市板橋の市郷土文化館別館「松永記念館」がある。

 市文化財課は「火薬庫とすれば、戦乱の時代が終わって利用は減った。斜面の土砂が崩れて埋もれても放置され、残ったのではないか」と推測している。

 広さ約1万8千平方メートルの御用米曲輪では、昨年度に戦国時代の障子堀跡が確認。今回も瓦積塀以外に、大規模な建造物(礎石建)跡が出ているなど、興味深い遺構の発見が相次いでいる。

磐余池(いわれいけ)

<日本書紀などに登場しながら所在地が分からなかった人工池「磐余池(いわれいけ)」の推定地、奈良県橿原市東池尻町の遺跡から池底跡が見つかり、市教委が29日発表した。>

 我が国には日本書紀を始め数多くの古文書がある。文字による記録があるということはまことに有り難いことだ。しかも我が国の場合、その記録が正しいことが遺跡の発見などによりしばしば確かめられている。
 今回の発見が「磐余池(いわれいけ)」の所在地論争に決着を付けることになるのかどうか分からないが、歴史の謎が少しずつ解けていくのは、楽しみである。


以下、ニュース  一部、フォントを変えてある。

日本書紀登場の幻の人工池「磐余池」 奈良の遺跡で池底跡見つかる
産経新聞 6月30日(土)2時51分配信
 日本書紀などに登場しながら所在地が分からなかった人工池「磐余池(いわれいけ)」の推定地、奈良県橿原市東池尻町の遺跡から池底跡が見つかり、市教委が29日発表した。池が鎌倉時代の13世紀初めごろ埋め立てられたことも判明。市教委は「国内最古の人工池の変遷を知る貴重な成果」としている。

 昨年の調査で堤跡の一部と大型建物跡が出土。日本書紀に聖徳太子の父、用明天皇(在位585〜587年)が磐余池のほとりで宮を営んだとの記述があり、建物跡はその関連施設の可能性が指摘されている。

 今回、池があったとされる堤の南側で池底跡とみられる堆積層を約80メートルに渡って確認。土の成分や出土した土器片などから、13世紀初めには埋められ水田になっていたことが判明した。

 磐余池は、万葉集に収められた大津皇子(おおつのみこ=663〜686年)の辞世の歌や、日本書紀に登場。清少納言も枕草子で代表的な池として紹介している。

 磐余池をめぐっては、同県桜井市にあったとする研究者もおり、論争の決着はついていない。木下正史・東京学芸大名誉教授(考古学)は「天香具山(あまのかぐやま)に近い特別な場所で当初は用水と観賞を兼ねた池として整備され、宮が移された後は農地に転用されたのではないか」と話している。

 現地は埋め戻されており、説明会はない。

 磐余池 日本書紀によると、5世紀前半に履中(りちゅう)天皇が造り、6世紀後半に用明天皇が近くで宮を営んだ。万葉集には謀反の罪で処刑された大津皇子の辞世の歌「ももづたふ 磐余の池に鳴く鴨(かも)を 今日のみ見てや 雲隠(くもがく)りなむ」が残されている。

信長の堀跡

<民間の発掘団体「古代文化調査会」(神戸市)は28日、戦国時代に織田信長が造営した「旧二条城」の堀跡が京都市上京区下立売通室町西入ルの発掘調査で見つかった、と発表した。城の内堀の西端にあたるとみられ「城内部の構造を知る手掛かり」としている。
 集合住宅の建設に伴い、5月から260平方メートルを調査していた。>


 民間の発掘団体があるとは知らなかった。どうやって運営されているのだろう。
 集合住宅の建設に伴い調査していたということだが、調査が終わったら、この堀跡はどうなるのだろうか。潰して集合住宅を建てるのだろうか。堀跡自体よりも、私には、興味がある問題だ。


以下、ニュース  一部、フォントを変えてある。

旧二条城、信長の堀跡見つかる 内堀の西端付近
京都新聞 6月28日(木)13時29分配信
 民間の発掘団体「古代文化調査会」(神戸市)は28日、戦国時代に織田信長が造営した「旧二条城」の堀跡が京都市上京区下立売通室町西入ルの発掘調査で見つかった、と発表した。城の内堀の西端にあたるとみられ「城内部の構造を知る手掛かり」としている。
 集合住宅の建設に伴い、5月から260平方メートルを調査していた。見つかったのは、南北方向に8メートル延びる堀跡で、深さは当時の地表面から2・2〜2・4メートルで、幅は4・5〜6・5メートルあった。
 旧二条城は、信長が1569(永禄12)年に室町幕府の15代将軍・足利義昭のために造り、不仲になった義昭を追放した後、76(天正4)年に破壊した。1970年代の地下鉄烏丸線工事に伴う発掘で、外堀と内堀の二重構造であることが判明し、それぞれ南北の境界も分かっている。
 今回見つかった位置は内堀の西端付近にあたり、内堀の範囲は東西200メートル、南北160メートルになるとみられる。古代文化調査会は「内堀の東西の幅が推定できる貴重な成果だ」としている。30日午前10時〜正午に現地説明会(雨天決行)を行う。

<平安京への遷都が行われた794年(延暦13年)に南海地震とみられる未知の巨大地震が起きていたことが、古文書の調査でわかった。>

 古文書は未発見のものではなくて、「日本紀略」だ。「地震」の語が無かったため今まで見過ごされていたということだ。しかし、地質調査では地震の痕跡は発見されていないという。だが、こういう記録があるのだから、もう少し詳しく調査すれば、何らかの痕跡が見つかるかもしれない。
 しかし、平安遷都の年に大地震があったというのは、驚きだ。大発見と言えるのではないか。


以下、ニュース  一部、フォントを変えてある。


平安遷都794年の南海地震か、古文書で確認
読売新聞 4月17日(火)23時45分配信
 平安京への遷都が行われた794年(延暦13年)に南海地震とみられる未知の巨大地震が起きていたことが、古文書の調査でわかった。

 岡山大の今津勝紀准教授(日本古代史)が17日、発表した。南海地震は100年程度の周期で起きているとされるが、この地震の前後約200年間の記録はこれまでに見つかっておらず、その「空白期間」を埋める地震だとしている。

 今津准教授によると、日本の正史の一つ「日本後紀」などの内容を抜粋した「日本紀略」(平安時代に編纂)に、延暦13年7月10日、「宮中並びに京畿官舎及び人家震う。或いは震死する者あり」との記述があった。その2年後には、四国の海沿いを巡る古代の街道「南海道」を廃止し、後に新たに道を設けたと記されていた。

 今津准教授は、街道の廃止は、巨大地震による大津波被害のためだったとし、その震源域が太平洋側と推定されることから、南海地震だったと判断した。


よしもとブログランキング

もっと見る

プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事