うたごえ運動について

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                           うたごえの指導者関鑑子

 1948年。
 うたごえ運動は、関鑑子という、すごい声楽家が指導した、中央合唱団の創立からはじまった運動だそうですよ。

 時は、1948年の春。
 1948年は第二次世界大戦が終わって3年目で、まだ日本中が焼け跡だらけで、国中が空腹を抱えていた時代ですよね。
 でも、戦争は二度としないという、新しい憲法(現在の憲法)が国会で決まって、平和と民主主義の日本をつくろうというビッグバンが始まった時代でもあったんですね。

 それまでの日本では、アメリカやイギリス・フランスなどの歌はもちろん、ラブソングなども含めて、戦争に非協力な歌を歌うことは禁止されていたんだそうです。
 ですから、みんなで歌を歌うときは「軍歌」「軍国歌謡」しか歌えなかったんですね。

 それが、どんな歌も自由に歌える時代がはじっまったんです。
 そんな時、全世界の民衆の歌、すべての国の優れた音楽、日本に伝わる民衆の歌。とくに平和と民主主義を求める闘いの歌を取り上げて歌いはじめたのが、中央合唱団なんだそうです。

 1948年1月。世界労連代表ルイサイヤン一行訪日一周年記念集会が、東京・築地公会堂(その後京橋公会堂)で、日本の主だった労働組合の主宰で開かれ、ここで中央合唱団(当時中央コーラス隊)が、関鑑子の指揮でうたい、2月の青年共産同盟創立記念集会(共立講堂)に「中央合唱団」の名前で出演したのがうたごえのはじまりとなったのですね。

 この二つの集会で、中央合唱団が歌った歌は「インターナショナル」(仏)「同志よ固く結べ」(ロ)「マルセイエーズ」(現仏国歌)「アバンポポロ」(イ)「ローテ・ウェディング」(独)「芝浦」(原太郎曲)「木曾節」(日民謡)オペレッタ「パンは誰のもの」(関忠亮曲)などなんです。

 これらの歌は、次々とはじまった労働組合運動や民主的な諸運動の中でもとめられ、それぞれの組織が先を競って覚えるための「歌う会」を開き、職場や地域・学園にひろがっていったんだそうです。

 また、労働組合や民主的団体の集会には、中央合唱団がよばれて、これらのレパートリーを演奏することが頻繁になっただけでなく、東京芸術座(当時新協劇団)や人形劇団プークなどの専門劇団もこれらの歌を舞台演奏し、各地に文化工作隊と呼ばれる演奏集団が次々と生まれ活躍し、これらの歌をとりあげた演奏活動と普及活動が伝播していったようです。
中央合唱団=http://www.hicat.ne.jp/home/hkmukai/chuochor.html
 東京芸術座=http://www.tokyogeijutsuza.co.jp/


 こういう、劇団や文化工作隊は、当時労働運動の焦点となっていた東宝撮影所の争議の支援に集まり、争議の支援にきた全国の労働者や民主団体の人々の激励演奏会を、度々開いたといわれています。
 ここで、世界と日本の民衆の闘いの歌が歌われ、そこに集まった人々によって職場や地域・学校にひろげられていったのですね。

 こんな風にして、うたごえ運動ははじまったといわれています。

 ☆関鑑子
 うたごえ運動の創始者の関鑑子という人のことは、音楽センターから出版された、関鑑子著の「歌ごえに魅せられて」にのっていますので、詳細をお知りになりたい方は読んでみられるといいと思います。

 それによると、日本のトップレベルに属するドラマチックのソプラノ歌手だったようです。
 築地小劇場の小野宮吉・千田是也などと東大の「マルクス主義芸術研究会」に参加したのをきっかけに、プロレタリア文化運動の指導的メンバーなり、プロレタリア音楽同盟をたちあげて、守田正義らと活躍したと記されています。
 そして、築地小劇場の書記長だった、小野宮吉と結婚し、長女光子(現ソプラノ声楽家)をもうけました。
 が、これらの運動は、軍国主義的政府によって無残に弾圧され、戦後を迎えることになったといっています。

 戦後は、民主主義文化連盟の設立や、現代音楽家協会の設立をすすめ、NHK毎日音楽コンクールの審査委員などもしながら、官側の音楽政策にたいして民側の音楽運動のリーダーとして活躍をはじめたようです。
 このように、音楽界に大きな影響力をもつ力をもった関鑑子が中央合唱団の指導をし、うたごえ運動を立ち上げたのですね。


☆中央合唱団のレパートリー
 世界労連代表来日一周年集会や青年共産同盟創立一周年記念集会で、中央合唱団が歌った曲目は、
「インターナショナル」をはじめとする内外の革命歌やプロテスト・ソングと日本民謡・オリジナルのオペレッタのようです。

 「インターナショナル」はフランスのパリ・コミューンの闘いの中でつくられ、全世界にひろがった歌で、後にソ連国歌にもなり、戦前の労働運動で歌われてきた歌です。

 「同志よ固く結べ」はロシア革命の中で生まれた歌で、戦前日本では、共産主義青年同盟歌にもなったそうです。

 「マルセイエーズ」はフランス国歌ですが、フランス大革命の中でつくられ歌われてきた革命歌でもあります。この歌を戦前は、「労働者のマルセイエーズ」という新しい歌詞をつけて歌っていましたが、中央合唱団設立の提唱者、土方与平が新しく訳しなおして歌ったものだそうです。
 土方与平は、演出家土方与志の次男で中央合唱団設立の提唱者で、後に劇団「青年劇場」の制作者として活躍しているようです。
 青年劇場HP=http://www.seinengekijo.co.jp/frame.html
 ですから、この歌詞で歌われた「マルセイエーズ」は、世界労連訪日記念集会が初演なのでしょう。

 「アバンチポポロ」はイタリアの革命歌で、プロレタリア音楽同盟からの遺産のようです。

 「芝浦」は戦前のプロレタリア音楽運動のなかで、作曲家・原太郎がつくった歌です。原太郎は関鑑子とともに、戦後の革新的音楽運動で指導的役割を果たした人で、後に民族歌舞団「わらび座」をつくって活躍しました。
わらび座HP=http://www.warabi.jp/

 「木曾節」は新協劇団(現東京芸術座)がとりあげた「夜明け前」(島崎藤村)の中で歌う歌として、木曾にいって採譜してきた作品で、それまでのお座敷歌としての「木曾節」と違って、樵たちの声をそのままつたえる仕事歌なんだそうです。
 東京芸術座HP=http://www.tokyogeijutsuza.co.jp/pg/top.html

オペレッタ「パンは誰のもの」は、劇団東演の八田元夫の台本に関忠亮が作曲したオペレッタで、新協劇団などで取り上げられていた作品だそうです。
 関忠亮は関鑑子の弟で、バス歌手として藤原歌劇団で活躍する傍ら、作曲家として、新協劇団・人形劇団プーク・前進座などの劇伴奏曲を書いて活動していたらしいのです。そして、姉の関鑑子を助けて中央合唱団の声楽指導にもあたりました。
 うたごえ運動の初期を切り開いた、魅力的な歌は関忠亮がつくりだしたものがズラリと並んでいますね
芸術現代社から出版された歌曲集「美しき祖国のために」(関忠亮作品集)には、作品の仔細がのっていますよ。
 うたごえ喫茶「灯」のHPにも載ってますので紹介します。
 http://utagoekissa.web.infoseek.co.jp/roukaku2006.html


☆関忠亮
 関鑑子の弟。
 戦前はプロレタリア美術家同盟・プロレタリア音楽家同盟で活躍。
 映画「森の妖精」、新劇「盛ん節」「民権かぞえうた」など、人形劇「どん太たる屋」のなどの曲。
 新築地小劇場の声楽講師。
 1943年毎日コンクール声楽部門で入賞。
 1945年藤原歌劇団公演に参加。数多くのオペラに出演。傍ら、バス・ソリストとしてさまざまな集会で演奏。
 同年メーデー歌「晴れた五月の」を作曲。
 新協劇団・前進座・プークなどの音楽を担当。
 1952年二期会結成メンバーとなる。
 オペラ運動・うたごえ・労音・新劇運動で活躍。
 
 
 
 ☆うたごえ前史
 中央合唱団が生まれる前にはどんなことがあったのでしょうね?
 一つは、関鑑子の旺盛な活動があったようです。
 
 楽壇的には、NHK毎日音楽コンクール声楽部門の審査委員をつとめ、日本現代音楽協会設立推進の役割をはたしながら、その一方で、民主主義文化連盟の創立に参加して、労働組合や民主的団体に革命歌や労働歌をうたう会の指導をして東奔西走したようです。

 また、続々と生まれた、労働組合や職場の合唱団やブラスバンド、ハーモニカバンドなどの自立楽団協議会をつくり、その指導にあたっていたといわれています。

 そして1947年、全国的な労働組合組織やNHKと提携して、新しい時代の風を受けて再開したメーデーの歌をつくる運動を起こし、その審査委員にもなっています。
 新しいメーデー歌には、「世界をつなげ花の輪に」(箕作秋吉曲)などが選ばれ、NHKからこの歌の番組が放送され関鑑子の指導で全国に伝えられたそうです。
 新しいメーデー歌の指導には、関鑑子などがひっぱりだことなり、1947年、皇居前広場で開かれた、60万人の集まったメーデーで、メーデー歌の指揮をとった関は、一人の専門音楽家より、百人のコーラス隊の必要性を痛感したのだそうです。

 二つには、戦後津波のようにおこった民主化の運動の中で、必要に迫られて沢山の文化組織が生まれまたんですね。
 中でも先進的な青年の組織であった、青年共産同盟は、文化工作隊を職場や地域につくることをよびかけました。このよびかけに答えて合唱・演劇・医療などの文化工作隊が各地に生まれ活動しはじめましたといわれています。
 この時、青年共産同盟中央文化部部長だった、土方与平は、青年共産同盟の中央に合唱団をつくることら必要を痛感して、中央合唱団設立をよびかけをだしたんだそうです。
 このよびかけに答えて30人ほどの同盟員が集まり、中央コーラス隊の名前で活動をはじめることになったようです。

 土方与平は、この指揮者に関鑑子を依頼したのですね。
 土方与平の父親、土方与志は築地小劇場時代から関鑑子とは交友があり、戦後文化連盟でもともに活躍した関係だったからです。

 青年共産同盟は、中央合唱団のほかに、中央音楽院と中央演劇学校をつくり、中央音楽院は中央合唱団に合流し、中央演劇学校は現在の舞台芸術学院へと発展していったようです。また、中央演劇学校出身者でつくられてきた劇団が、青年劇場なんだそうです。
舞台芸術学院=http://www.bugei.ac.jp/

 こうして、民主的音楽運動の流れと、青年運動の流れが合流して、中央合唱団になっていったんですね。
 






 





 


 

 
 
 
 

 
 

 

 

 


 

 
 
 

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関 鑑子(せき あきこ、1899年9月8日 - 1973年5月2日)。声楽家、音楽教育者、音楽評論家。

第二次世界大戦後、日本共産党員として同党の文化政策に基づく実践活動を行い、国内外において、日本のうたごえ運動の創始者と見なされるようになった。

■ 経歴

父 関厳二郎(美術評論家。雅号 "関如来")、母 トヨの長女として、東京都本郷区龍岡町(当時)に生まれる。

1921年、東京音楽学校本科声楽科卒業。ソプラノ歌手となるが、大正末期からプロレタリア芸術運動に参加。

1926年、新劇俳優の小野宮吉と結婚。以後、本名は小野鑑子。

1929年4月26日、プロレタリア音楽家同盟(PM)創立に参加。音楽家同盟は、全日本無産者芸術団体協議会に加盟。

1934年3月、プロレタリア音楽家同盟、解散声明を発表。

2016/11/17(木) 午後 11:20 [ iej*ma*970 ] 返信する

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1948年2月10日、日本共産党の方針に従い、日本青年共産同盟中央合唱団を創立。

1951年、音楽センターの主宰者となり、この頃から「うたごえ運動」の実践活動を本格的に展開。運動は、職場・学園・居住地域における合唱サークル組織を通じた、労働者階級の政治・平和運動として発展した。1954年(昭和29年)には、参加者3万人規模での「日本のうたごえ祭典」を実現するにいたった。

1955年12月9日、スターリン平和賞受賞が決定。

2016/11/17(木) 午後 11:21 [ iej*ma*970 ] 返信する

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1956年5月31日、スターリン平和賞授与式(モスクワ、クレムリン、閣僚会議館[現 ロシア連邦大統領官邸]にて)。D.V. スコベリツィン[Дмитрий Владимирович Скобельцын]同賞選考委員会議長より記念メダルを贈呈。関は答辞として、「この光栄ある受賞は私個人でなく、平和を愛する日本人全体に与えられたものです。日本人は平和な、明るい歌を好む国民であります。10年前に始めたうたごえ運動は、日本中のあらゆる職場、農村、学校、家庭に広がっています」と述べ、合唱曲「東京−モスクワ」(小林はじめ作詞、藤本洋作曲)の日本語歌詞を朗読した。授与式に同席した日本の著名人は、村松梢風、石川達三、淡徳三郎、杉村春子、岡田嘉子、芥川也寸志、木下恵介、松岡洋子、片山やす(片山潜の娘)、小野光子(関鑑子の娘・声楽家)など。

2016/11/17(木) 午後 11:22 [ iej*ma*970 ] 返信する

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1973年5月1日、第44回中央メーデー(代々木公園)で、参加者約50万人の全員合唱「世界をつなげ花の輪に」(箕作秋吉作曲)を指揮。その直後に壇上で倒れ、虎の門病院に入院。翌2日14時20分、くも膜下出血のため死去。

1973年5月4日、東京都新宿区の音楽センターにて告別式。参列者は、日本共産党中央委員会から蔵原惟人(常任幹部会委員)、春日正一、紺野与次郎(幹部会委員)、須藤五郎(中央委員)、山下文男(文化部長)ほか多数。著名人では、山根銀二、清瀬保二、外山雄三、中沢桂、井上頼豊、千田是也、村山知義、宇野重吉、南原繁、井口基成、久板栄二郎、松田解子、松本正雄、風早八十二など。中央合唱団の渡辺一利団長は弔辞の中で、この日から同団を「関鑑子記念・中央合唱団」と改称すると発表した。

2016/11/17(木) 午後 11:23 [ iej*ma*970 ] 返信する

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1973年5月23日、神田共立講堂にて「音楽葬」。葬儀委員長は太田薫。参列者は、紺野与次郎、須藤五郎、河原崎國太郎、村山知義、櫛田ふき、オレグ・アレクサンドル・トロヤノフスキー(駐日ソ連大使)などを含めて約1500名。新星日本交響楽団、アルトゥール・エイゼン、「関鑑子記念・中央合唱団」のほか、複数の楽器奏者や声楽家が演奏。参列者による追悼演奏として、故人が最後に指揮した曲である「世界をつなげ花の輪に」の全員合唱が行われた。

2016/11/17(木) 午後 11:23 [ iej*ma*970 ] 返信する

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■ 日本のうたごえ実行委員長としての海外渡航歴

1955年2月〜9月、ドイツ民主共和国、ソビエト連邦、中華人民共和国、オーストリア、ポーランド(ワルシャワ「世界青年学生祭典」に出席)
1956年5月〜9月、ソビエト連邦(スターリン平和賞授与式に出席)
1962年7月〜8月、ソビエト連邦(モスクワ「全面軍縮と平和のための世界大会」に出席)
1964年5月〜6月、ソビエト連邦(日本のうたごえ合唱団ソ連ツアー公演、連邦各地で23回開催)
1962年4月〜5月、ソビエト連邦(第2回 チャイコフスキー国際コンクール来賓)
1966年6月〜7月、ソビエト連邦(第3回 チャイコフスキー国際コンクール、当年度に新設された声楽部門の審査員)
1970年6月〜7月、ソビエト連邦(第4回 チャイコフスキー国際コンクール、声楽部門審査員)

2016/11/17(木) 午後 11:24 [ iej*ma*970 ] 返信する

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■ エピソード

宮本百合子は1921年10月7日、東京都内の演奏会で関鑑子の独唱を聴き、翌日の日記に、「まだまだ。それをはっきりあの人に云い、もっともっと努力、ほんとうに自分のものを見出すだけの努力をさせないのは気の毒だと思う。まるでペツォールドの小さいひな型だ」と記している。ハンカ・シェルデルップ・ペツォルト(Hanka Schjelderup Petzold)はノルウェーの声楽家で、関が師事した東京音楽学校の教員。

2016/11/17(木) 午後 11:25 [ iej*ma*970 ] 返信する

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1926年末、関は音楽会のアンコール曲として、「赤旗の歌」を警察の事前許可なしに演奏したため、警視庁での取り調べを受けた。その際に、同庁の「外事掛長」が発した言葉を、関は次のように記している。

「あなたのような一流の音楽家には美しい歌や曲が沢山あるはずだ。なにも書生に担がれてつまらぬ物を歌わんでもええじゃろうに。俺も二三度、あなたの歌われるのを聴いて感心しとったもんだが、どうも人というものは解らないものだ。あなたがそんな人とは思わなかった。今後改めれば良し、もし改めなければ、自分はあなたが音楽家として再びステージに立っていけんようにする。自分らとしては、そういうことも出来るのだし。とにかく今のところ、自分はあなたを共産主義者として見ているから、そう思いなさい」

2016/11/17(木) 午後 11:25 [ iej*ma*970 ] 返信する

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1956年1月11日、関鑑子は東京・銀座のレストランで美空ひばりと対談し、「日本的な情緒の豊かな美空ひばりさんの歌がとても好きになった」との旨を語った。

作曲家 芥川也寸志は、モスクワでショスタコーヴィチに出会った際に、「運転手になりたいのか」と訊かれて驚いた。芥川はかつて、自分が関鑑子に「ショスタコビッチの運転手をやってもいいから彼のところで勉強したい」と打ち明けた。それをショスタコーヴィチ本人が、関から聞いてすでに知っていたのだと、芥川に話してくれたという。

2016/11/17(木) 午後 11:26 [ iej*ma*970 ] 返信する

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■ 著述

『苦い涙の試練を越えて』(講談社、月刊「婦人倶楽部」1924年1月号所載)
『地声を朗らかに感じよくするには』(同上、1926年5月号所載)
『実際にあった会話』(「文芸戦線」1927年1月号所載)
『懐かしき母校の想い出−恩師を偲びて』(「婦人倶楽部」1927年4月号所載)
『結婚当時意外に感じたこと・嬉しかったこと』(同上、同号所載)
『検閲−音楽−プロレタリア』(マルクス書房、月刊「プロレタリア芸術」1927年9月号所載)

2016/11/17(木) 午後 11:26 [ iej*ma*970 ] 返信する

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『闘争歌のうたい方』(秋田雨雀、江口渙 監修「綜合プロレタリア芸術講座 第2巻」[内外社、1931年]所収)
『音楽家生活』(新知社、月刊「婦人文芸」1934年12月号所載)
『女性の考え方』(労働文化社、月刊「労働文化」1947年1月号所載)
『私の夢・古い新人』(「人民戦線」1947年6月号所載)
『歌の「味」』(音楽の友社、月刊「音楽芸術」1947年10月号所載)
『研究生終了演奏会(声楽)評」』(同上、1947年11月号所載)
『歌唱指導』(「婦人文化講座 第3巻」[ナウカ社、1948年]所収)
『働く人々の音楽報告』(毎日新聞社、月刊「労働評論」1948年8月号所載)

2016/11/17(木) 午後 11:26 [ iej*ma*970 ] 返信する

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『恋愛以前』(伊藤書店、「人民評論」1949年1月号所載)
『コンクールの声楽』(「音楽芸術」1949年2月号所載)
『哀れな娘』(民主青年合同委員会出版部、「われらの仲間」1949年4月号所載)
『進むうたごえ』(中国留日同学総会編、半月刊「中国留日学生報」1949年5月15日号所載)
『思い出』(「労働評論」1949年6月号所載)
『自立楽団協議会について』(日本民主主義文化連盟 編「文化年鑑」1949年所収)
『私のコンクール考』(同上、1950年5月号所載)
『「おゝカリーナの花が咲く」 』(世界映画社、月刊「ソヴェト映画」1951年2月号所載)
『プロコフィエフの声楽作品とその思想』(月刊「音楽芸術」1953年5月号所載)

2016/11/17(木) 午後 11:27 [ iej*ma*970 ] 返信する

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『国民音楽について』(日本共産党中央委員会理論政治誌「前衛」1953年6月号所載)
『「音楽運動」発刊のことば』(音楽センター、月刊「音楽運動」1953年6月号所載)
『内灘の闘いと音楽運動』(同上、1953年7月号所載)
『世界青年祭各地のうたごえを「日本のうたごえ」に』(同上、1953年10月号所載)
『うたごえ運動はさらに発展する』(同上、1954年2月号所載)
『平和のうたごえをメーデーへ』(同上、1954年4月号所載)
『高まるうたごえとさしせまる任務』(同上、1954年5月号所載)
『八月十五日』(同上、1954年7月号所載)
『婦人代表としての光栄と責任』(新女性社、月刊「新女性」1954年9月号所載)
『日本と中国の平和のうたごえをよびかわそう』(「音楽運動」1954年10月号所載)

2016/11/17(木) 午後 11:27 [ iej*ma*970 ] 返信する

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『日本のうたごえは国民の運動−合唱団の任務のために−』(同上、1954年11月号所載)
『世界の青春』(「新女性」1955年3月号所載)
『愛する街−歌い方と楽典』(同上、1955年4月号所載)
『ウィーン・アピールにこたえて−解説と体験記と署名用紙』(同上、1955年6月号所載)
『平和と友情の旅から−ベルリンからウィーンへ』(同上、同号所載)
『世界のうたごえは起っている』(知性社、月刊「知性」1955年9月号所載)
『ワルシャワのうたごえ』(同上、1955年10月号所載)
『世界のうたごえの旅』(「音楽運動」1955年11月号所載)
『私が思うこと−藤井さんにお答えする』(「知性」1956年1月号所載)
『国際列車』(「新女性」1956年3月号所載)
『私のみた中国の演劇』(新読書社、「新読書」1956年4月17日号所載)
『うたごえ運動の理論−音楽とは何か−』(音楽センター芸術局 編「知性」増刊号[河出書房、1956年]所載)

2016/11/17(木) 午後 11:28 [ iej*ma*970 ] 返信する

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『余談』(大山郁夫記念事業会 編「大山郁夫伝 別冊付録−大山先生の思い出」[中央公論社、1956年]所収)
『友だち』(講談社、月刊「群像」1957年3月号所載)
『期待と少しの不安』(学習の友社、月刊「学習の友」1959年1月号所載)
『明るい楽しい思い出−本所のセツルメント』(福島正夫、川島武宜 編「穂積・末弘両先生とセツルメント」[東京大学セツルメント法律相談部、1963年]所収)
『心の泉をくみとろう』(「学習の友」1964年2月号所載)
『明るい思い出、ソ連楽旅』(音楽の友社、月刊「音楽の友」1964年8月号所載)
『関鑑子自伝』(音楽評論社、月刊「音楽」1965年6月号より1966年2月号まで連載)
『歌ごえを平和の力に』(日本平和委員会 編「平和運動20年記念論文集」[大月書店、1969年]所収)
『中央合唱団の今日の任務』(「季刊日本のうたごえ」1971年4月創刊号所載)
『歌ごえに魅せられて』(音楽センター、1971年)

2016/11/17(木) 午後 11:28 [ iej*ma*970 ] 返信する

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■ 新聞・団体機関紙への寄稿

『歌をつくりましょう−やさしく誰にもできます』(「アカハタ」1946年9月23日付)
『諏訪根自子のクロイツェル・ソナタ』(「文化タイムス」1947年1月13日付)
『職場に合唱団をつくるために−勤労芸術の道しるべ』(「労働民報」1947年5月24日付)
『知恵も食べよう−働く若い人々へ−』(「労働民報」1947年9月3日付)
『新しい音楽創造のために−ふたたび「作曲のすすめ」−楽曲の分析』(「アカハタ」1947年5月29日付)
『私の青春時代』(日本青年共産同盟中央機関紙「青年の旗」1947年8月25日)
『先生−今日の感想』(「東京民報」1947年8月27日付)
『甘いもの好き』(「アカハタ」1947年10月21日付)
『東西音楽家の提携−大阪文化会議所感』(「文化タイムス」1947年12月1日付)
『たくましいコーラス』(「アカハタ」1948年3月23日付)

2016/11/17(木) 午後 11:29 [ iej*ma*970 ] 返信する

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『示威行進にスクラムを』(民主婦人連盟機関紙「民主婦人」1948年3月25日付)
『みんなうたう会を』(「全逓新聞」1948年11月6日付)
『損保従連・秋の文化祭−音楽コンクール評』(損害保険従業員組合連合会 東京支部機関紙「さけび」1948年12月24日付)
『成長のために』(「青年の旗」1949年1月2日付)
『音楽の大衆化』(善隣専門学校 編「善隣新聞」1949年2月20日付)
『常磐炭鉱の青年の音楽』(日本民主青年団編、週刊「民主青年」1949年6月26日付)
『みんなが生き生きとした歌をうたうためには』(婦人民主クラブ編、週刊「婦人民主新聞」1949年7月9日付)
『青年の熱き心もて』(「民主青年」1954年1月26日付)
『中央合唱団創立2周年を迎えて』(中央合唱団機関紙「うたごえ」1950年2月号)
『具体的な詩音楽』(「アカハタ」1950年2月5日付)

2016/11/17(木) 午後 11:29 [ iej*ma*970 ] 返信する

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『世界の人々が無罪釈放運動を−民衆歌手ポール・ロブソンに訴える』(「うたごえ」1950年6月3日付)
『平和署名を戦争を憎むすべての人たちに』(「うたごえ」1950年8月25日付)
『中央合唱団16期生の入団に際して』(「うたごえ」1953年10月12日付)
『ひとり思うこと』(「うたごえ」1954年1月7日付)
『船出』(「うたごえ」1954年1月24日付)
『国際婦人デーを迎えて』(「うたごえ」1954年2月25日付)
『外人演奏家の来日と日本人−民族音楽への気運・萌芽はもうそこに』(「立命館学園新聞」1954年10月11日付)
『進む平和! 高まる歌ごえ』(「婦人民主新聞」1954年10月30日付)
『世界にひびけ平和のうたごえ−うたごえの発展は国民の力−』(日本のうたごえ実行委員会中央機関紙 共同デスク「うたごえ新聞」1954年12月15日付)
『国際スターリン平和賞授賞式における挨拶』(日本のうたごえ実行委員会中央機関紙「うたごえ新聞」1956年8月20日付)

2016/11/17(木) 午後 11:30 [ iej*ma*970 ] 返信する

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『世紀の歌姫 三浦環夫人』(「婦人民主新聞」1954年8月26日付)
『唇に歌 心に誇り』(「北國新聞」1955年12月18日付)
『中国の音楽界−民族にも素晴らしい未来−』(「朝日新聞」1955年12月22日付)
『生活とうたごえ』(日本民主青年同盟中央機関紙「民主青年新聞」1956年4月15日付)

2016/11/17(木) 午後 11:30 [ iej*ma*970 ] 返信する

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【日本のうたごえ実行委員会 ホームページ】

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2016/11/17(木) 午後 11:31 [ iej*ma*970 ] 返信する

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