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(上の写真左寄りの盛り上がった所が、加納城天守台跡と考えられている。)
加納城主奥平信昌の妻「亀姫」は、家康の長女。
家康19才のときの子で、家康と正室築山殿の第2子として生まれた。
築山殿は、今川方から嫁いできた人で、一説に、息子の嫁との確執から殺されたお方。
姑としてしっかり者で、恐らく、気の強いところがあったための不幸とも思える。
出自の今川方が滅びたことで、なんとか一族の誇りを持ち続けたいと思い、強気の言動になっていたのかも知れない。
こうした気性が娘にも受け継がれたのか、亀姫もなかなかの性格であったらしい。
加納では今でも、やんちゃな女の子やわがままな妻のことを、「カメヒメサマ」とか「新城様」とか呼ぶのだそうな。
新城は夫の奥平信昌が築いた城のあった所。
いずれも勝ち気で男勝りだった亀姫を指している。
『徳川実記』にも、亀姫について、「御本性雄々しくましました」と記されているのだそうだ。
生まれついての気性に加えて、家康の娘で将軍の姉という立場となれば、当然だったのかも知れない。
加納にいたときには、化粧田として二千石の個人財源も与えられていた。
この気の強さから、亀姫はエピソードが多い。
それも、あまり好ましくなく、彼女の訴えや進言で処刑されたり移封を余儀なくされたりした者が多くいる。
有名なところでは、宇都宮城釣り天井事件。
当時権勢を誇っていた本多正純を快く思っていなかった亀姫は、彼を失脚させるため事実無根の訴えをする。
それは、正純が将軍秀忠を暗殺するため「湯殿を釣り天井にしている」というもの。
この訴えは聞き入れられ、正純は配流となる。
代わりに亀姫の孫の忠昌が宇都宮藩へ入った。
また加納には十二相祠堂という墓碑がある。
亀姫の咎めで処刑された12人の侍女を祀ったものと言われている。
嫉妬だったのかどうかは定かではないが、激すると大変なお方だったのかも知れない。
また黒野藩は、亀姫の訴えにより廃藩となった。
これは、黒野藩主加藤貞泰が長良川右岸の堤防整備を行ったために、長良川左岸の加納城が浸水したと言って、亀姫が父の家康に訴え出たためである。
美濃はもともと水害の多い所だから、そればっかりのせいとも思えない。
しかし、亀姫は怒って、
「加藤のせいだっ!」
と、言ったかどうか…
ともかく訴えは聞き入れられ、貞泰は米子藩へ移封され、黒野城は廃城となった。
(加納公園は、周囲がぐるりと土塁となっている。地盤が崩れやすく、足元が危険なため登ることは出来ない)
近くの琴塚古墳の正面にある二つの大きな石の一つを、亀姫の命令で城の庭へ運ぼうとした。
しかし、岩戸川まで運ぶと動かなくなってしまった。
そこで、そこの川に掛けて橋にしたという。
このほか、国替えの引っ越しで城のものを一切合切持ち去ろうとして国境で呼び止められ、渋々返したという話なども残っている。
いずれも本当のことなのかどうかは分からない。
が、なにがしか、人の心をざわつかせるような要素をもった人だったのかも知れない。
しかし、その生涯を見ると、父家康を慕い、夫や子ども、孫など奥平の家と家族を大事にしていた様子も見えてくる。
母と兄を殺される経験をし、戦国のただならぬ時代を生きた亀姫。
ひと口に、「こんな人だった」と断じることはできない。
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