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水口城の窓から見えた古城山を目指す。
お椀を伏せたようなまん丸お山に見えるが全体像は、尾根の連なりがある。
この上に、水口城が建つ前に城があった。
現在は市民公園のようになっているらしい。
しかし、雨雲を背負っての城攻めで、登城ならず。
数日前からの荒天に加え、この日の断続的な豪雨で土砂崩れが発生していたようだ。
危険と言うことで立ち入り禁止のロープが張られていた。
別な方向から登れぬかと、野洲川に沿って回り込み、変電所とおぼしき付近から登ってみたが、ここも立ち入り禁止。
無念な思いのまま、安全第一と諦めた。
ここが古城と言われる由縁は、宿城として築かれた水口城に対しての呼称である。
先回、この水口の位置が、軍事的意味でも重要だったと書いたが、同じことを秀吉も考えたようだ。
天正13年(1585年)、羽柴時代の秀吉が中村一氏に築かせた城と言われる。
周辺の甲賀と蒲生の一部の支配のためであった。
その後、増田、長束と五奉行の一員が当てられた。
おそらく家康への牽制と東海道を抑えることをねらいとしていたのだろう。
秀吉の死後、関ヶ原の戦いで長束は西軍に属すが、池田長吉に攻め落とされてしまう。
それから34年後、家康が新たに水口に御茶屋御殿として水口城を築いた。
築城に当たっては、山城の水口岡山城の石垣を利用したと伝えられている。
この時点で古城水口岡山城は廃城となったわけである。
立ち入り禁止の札に阻まれ、山上までは行けなかったものの、斜面からは野洲川、街道の分岐点など一望できる。
上の写真は、東海道に立つ水口の宿を表す石塔であるが、城は、鈴鹿峠から蒲生一帯と、眼下を通る街道を一望できたという。
つまり、陸路水運すべてを把握できると言うことは、軍事・交通の要衝地に建つ甲賀の要の城だったわけである。
他の方々の資料を見ると、石垣、土塁のほか、虎口の様子や堀切などの遺構も見られるようだ。
日を改めてまた訪城したいものである。
とはいえ、この度もにんにんのジンクス全開…
登城を諦め、山から下りた途端、爆弾豪雨。
車の横手を流れる野洲川の水位は、ほとんど道路と同じ高さ。
信楽方面に行こうとするのに、突然、行く手のあちらこちらが通行止めになり進めず。
夜、ホテルに着いてから見たテレビのニュースで知ったのだが、我々が通り過ぎた直後、その一帯が冠水したらしい。
にんにん行くところ、災害有り。
嵐を呼ぶにんにんのジンクスは、水口の後に向かった信楽でも全開だったのである。
それについては、また次回……
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