めぐるさかずき

藪の奥の朽ち果てた庵で、スルメを噛み噛み、過去の城めぐりを書き記す

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一宿一飯の城から一転、過去へタイムスリップするべく信楽に向かった。
 
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信楽と言えばたぬきさん。
紫香楽と言えば、都である。
 
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同一の場所を示し、同一の発音をするのに、なんと字面で印象の違うことか……
 
 
もともと、「しがらき」の表記は、信楽だったようだ。
紫香楽という表記が出てくるのは「続日本紀」。
その後、この宮は、甲賀寺建立の意図もあって、「甲賀宮」と呼ばれていたらしい。
しかい、当時、実際に使われていなかったとしても「紫香楽」という表記は、美しい、と思う。
数年前に訪れた時、ミツバツツジの花が咲いていた。
うす紫の可憐な花が、紫香楽という名前となんとなくマッチして、感嘆したものだ。
 
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花談義はさておき、紫香楽宮…いや、信楽宮…について書こう。
ここは聖武天皇が離宮とするべく造営した場所である。
これに先立って天皇は恭仁京を信楽南西部にある木津川に造営している。
離宮としての信楽にはしばしば行幸しているが、その後、この地に盧舎那仏を造営しようと発願する。
どうやら恭仁京と信楽との関係を、洛陽と龍門石窟との関係に見立て、同じように盧舎那仏を造ろうと考えたようだ。
当時、いわゆる都とされる地は、平城京、難波宮、恭仁京、信楽宮とあった。
信楽宮はやがて、甲賀宮と呼ばれるようになっていく。
聖武天皇は、これらを順に遷都していった印象を受けるが、どうやら実情は少しちがっているようだ。
現在、都=宮というと、一カ所しか定めなかったように思われるが、古代の日本では唐に習って複都制が採用されていたという。
孝徳天皇や天智天皇がそれぞれ難波宮や近江大津宮に移ったときにも、飛鳥京は保存されていた。天武天皇も同様である。
そして、聖武天皇も難波と恭仁という二都の意識があったのではないかと考えられている。
 
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しかし、ここで注目すべきは、聖武天皇の人生である。
まるでエンタメ系ハードボイルド&ミステリィ小説のように、苦悩と恐怖、悲哀に満ちている。
まず、7才で父を失い、生母は精神的な病から、30才を過ぎるまで会うことができなかった。
頼るべき父方と母方の親族は、勢力争いと駆け引きに明け暮れていて、彼を利用することしか考えていない。
そして、それに伴う不可思議な死や騒動が身辺で連続して起きる。
しかも、災害や疫病といった見えない悪魔の手による不可抗力な不幸が頻発。
哀れな天皇に心の休まるひまはなく、心はずたずた、神経がぼろぼろになっていく、。
しかも、母親も精神的な病を得ていたと言うから、もともと天皇自身も神経が太いとは言えない。
すがる思いで仏の力を借り、この苦しみから逃れたいと思ったとしても無理がないではないか。
 
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うちひしがれた者が苦しみから逃れるために取る最初の手段は、逃げること。
魔物のはびこる場から、まずは離れ、新天地でゼロからやることが最良の手段。
ということで、都を移動。
遷都と言わず、離宮と呼んでいるところにもなんとなく、その気持ちが伝わって来るではないか。
こうしてみると、この都の移動、実は身内の陰謀から逃れつつ牽制し、一時的にしろ疫病から避難すると言う意味では成功だ。
しかし、実はこうした連続新都造営は財政を圧迫。
実は、信楽宮造営の間にも難波と恭仁京造営を継続していたのだから、大変だ。
まず、恭仁京造営を中断したものの、難波宮を都として工事を進めながら、信楽造営も継続。
こうした中、聖武天皇発願の甲賀寺建設と盧舎那仏造営で、信楽は大いに栄えていく。
信楽宮は次第に甲賀宮と呼ばれるようになっていく。
745年、正月にはこの地で祝宴が盛大に行われ、宮殿の門前に建てるのが習わしだった大きな槍と盾が建てられ、「新京」と呼ばれるようになった。
信楽は、まさに新しい都となったのだ。
だが、4月に入ると山火事が連発。
臣民の反発も多く、結局、平城京へ都は戻され、甲賀寺盧舎那仏造営計画も平城京へと移されてしまった。
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後には造営途中の工事の跡が残るばかり。
とはいえ、遺構の状態はかなりいい。
参道とおぼしき緩やかな坂を登り、石段を登っていくと、広大な寺院跡に出る。
大きな礎石は300を超え、建物の規模や配置がよく分かる。
周囲は森と言うにはややまばらな林。
雨上がりのせいか、足下の草地は、まるで湿地帯のようだ。
 
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だが、経堂、中門、講堂、金堂、鐘楼、僧坊等々、その礎石を見て回るだけでも敷地の広さに驚く。
入り口に、CGで再現した図があったが、美しさは推して知るべし。
上から三枚目の写真の右下に、その再現想像図がある。
当時は遠くからもよく見え、その色彩の美しさは、極楽を象徴するようなものだったろう。
 
(甲賀市教育委員会のサイト「古代の都 紫香楽宮」にある「ヴァーチャル散策甲賀寺」のCGは、よくできていて感動する。興味のある方は、御覧あれ。)
 
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ところで、我々が訪れたところは甲賀寺跡あるいは近江国国分寺跡と見られている。
実際に信楽宮があったところは、ここから北2キロメートルの宮町遺跡ではないかと言われている。
いずれにしろ甲賀寺は奈良東大寺に先駆けて盧舎那仏造営に取りかかったところである。
上から三枚目の写真に、甲賀寺と東大寺とを比較した図がある。
規模的には東大寺に及ばないものの、当時としては最高のものを建てようとしていたことがよく分かる。
そして、都といえば、こうした寺院を含めた大規模な区画を言う。
とすれば、信楽宮造営は、甲賀寺跡も宮町遺跡も含めた、信楽の街全体に渡る大都市計画だったことが分かる。
 
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今は長閑な里山のような遺跡地区。
1300年以上も前に思いを馳せてみても、賑やかな古代都市を想像することは難しい。
世が世ならの2045年に紫香楽宮遷都記念行事がここで行われていたのかも知れないのである。
「なんとりっぱな平城京」から1300年後の2010年、大々的に行われた平城京遷都記念行事のように…。
そして、「奈良の大仏」という代わりに「信楽の大仏」と呼び、古都として繁栄している奈良のように、この静かな山間の地が一大観光地になっていたのかも知れないのである。
 
思えば、こうした古代遺跡の方が、石垣や堀に囲まれた城跡より、ずっとずっと「めぐる さかずき」なのであった
 
 

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