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日本のデンマークと呼ばれている。
現在も、『デンパーク』などという産業文化公園を作り、農業振興に努める町。
さて、どこのことかお分かりだろうか。
そう、愛知県安城市である。
東海道が通り、岡崎はすぐそばだというのに、知名度は、岡崎に比べるとぐんと下がる(気がする)。
しかし、中世において、ここは非常に重要な場所だった。
ということが、安祥城(安城城)の歴史から分かるのである。
安祥城は、徳川最古参の三河安祥七譜代発祥の地であるが、実は、もともとは松平氏の城ではない。
永享12年(1440年)、畠山氏の一族の和田親平の築城とされている。
天守を持たない平山城だったという。
文明3年(1472年)岩津城主松平信光が謀略を用いて、この城を乗っ取ってしまう。
その謀略とは、城の近くで踊りを催し、それにつられて城兵が出てきたすきに、城を急襲したのだとか。
その後、城主は親忠、長親、清康へと代々受け継がれた。
清康は、家康の祖父に当たる。
大永4年(1524年)、清康が岡崎城へ移ると、一族の安祥左馬助長家が城代として入った。
その後、長家は信長の父、信秀に破れ自刃。
城は織田方のものとなる。
さらに信秀は岡崎城を攻めるため、安祥城に兵を進める。
家康の父、広忠は小豆坂の戦いで織田勢に敗れ去ってしまう。
信秀は、岡崎まで深追いせず、そのまま安祥城に子の信広を守将としておき、兵を引き上げた。
さらに、信秀が死に、信長が家督を継ぐ。
つづいて、家康の父、広忠も死ぬ。
この辺りから、有名な家康が人質になった話となっていく。
しかも、その経緯には、この安祥城が絡んでいるのである。
父広忠亡き後、松平氏は今川氏の庇護を受けるため、人質として家康が駿府に送られた。
この途中で、家康は、織田方に奪われてしまう。
これに対して、今川氏は安祥城を攻め、信長の庶兄である信広を捕らえてしまう。
このとき、安祥城を救おうと駆けつけた信長は、すでに城が落ちたと聞いて引き上げてしまう。
ところが、今川方の武将大原雪齊から使者が来て、織田方の手にある家康と、今川方に捕らえられた信広の交換を申し出た。
これを信長が承知し、双方の人質は無事、それぞれの自陣へ引き取られていった。
安祥城は、この事件後、廃城になったという。
しかし、こうした歴史を見ても、安祥城を、今川、松平、織田の三氏が奪取するために攻防を繰り広げていたことが分かる。
いかに重要な位置にあったのか、推測できるではないか。
それはさておき、我々は、岡崎城を攻め落とした後、安祥城址へ向かった。
現在は、城址公園として整備されてはいるものの、土塁、曲輪、堀跡など、比較的、よく残っていると言える。
地図からも分かるように、本丸は大乗寺になっている。
周囲は、削り取ったかのような急斜面になっている。
境内は、綺麗に整地されているが、あちこちに、石の残骸が落ちている。
城跡フェチとしては、崩れた石垣の石の残骸かと、夢ふくらませて見ていた。
下へ降りてきて、城址公園を取り巻く土塁越しに、寺を見上げた所である。
土塁の向こうは芝生で気持ちのよい平地のように見えるが、実は、湿地帯。
もともと、周囲三方を湿地帯に囲まれた台地突端に建てた城である。
現在でも、草地に足を踏み入れるや、じゅくじゅく沈みそうになる。
本丸跡から降りて西へ進むと、再び小高い丘がある。
二の丸跡に建つ八幡神社である。
東側参道から入ったが、結構、高い。
その神社の鳥居から降りてくると、土塁が城址公園をぐるりと囲んでいる。
さらにその西側の広場は、三の丸跡で、散歩道と歴史資料館になっている。
この右手は、堀跡なのか湿地で、切り岸の名残も見られる。
とにかく、城址公園周囲は土塁が残っていて、歩きながら血が騒ぐ。
こんな土塁が、累々と続くのだから、わくわくドキドキであった。
この周囲はさらに、城を取り囲む堀のように用水が流れている。
近くには、安祥古城跡もあると言うことだったが、今回は、城址公園だけで撤退。
想像以上の遺構と歴史の深さに感じ入って、帰路に就いた。
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愛知県の史跡
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三河武士のやかた家康館前に居並ぶ面々…
あ、家康殿登場!
と、興奮するほどのものでもないが、彼らは、岡崎版今様おもてなし武将隊である。
家康殿が最年長という設定らしく、風格のあるお方が、その役を務めていらっしゃった。
(ちなみに、前列でポーズを決めている青マスクのお方は、赤の他人)
岡崎城の面白さは、あちこちあるのだが、からくり時計も必見である。
三河武士のやかた家康館の近くにあるこの人気の時計塔は、定刻になると時計盤3面がはねあがり、照明のついた舞台に能装束の家康殿が登場。
音楽に合わせて能を舞い、最後に有名な遺訓を語る趣向を凝らした時計塔だ。
30分おきに出てくるので、その気になれば見落とすことはない。
が、重要なのは、家康が舞いながら能面を付ける瞬間。
これまでも何度か見ているのに、あ、と気づくと面をかぶっている。
こりゃ、いかん、と今回は目をこらし、集中して、やっと目撃できた。
ということで、大した意味はないが、その経過の写真を載せてみたい。
時計塔の中の家康は、ぽんぽんぽんという鼓の音に合わせて軽快に舞っていた。
面はこのあと外され、舞いが済むと、三方の扉が降りて再び時計塔にもどる。
さて、改めて家康の生涯、とりわけ幼少期から思春期、青年期前半の人生を考えると、大変なものだったことが分かる。
6才で、今川方へ人質として送られるはずが、売り飛ばされて織田方へ。
が、父広忠は家臣に暗殺されてしまう。
今川氏は早速、岡崎城を占領。
家康は3年ぶりに岡崎城に戻る。
しかし、改めてまた、人質として、駿府の今川舘へ護送される。
主の居ない三河は事実上、今川の保護領となる。
それから12年間、家康は松平家臣団の期待を一身に背負いながら人質生活を送ることになる。
こうした流れを考えると、大事な人格形成期に家康はとんでもない体験をしたことになる。
今なら立派な児童虐待として糾弾されるところだ。
しかし一方で、人質生活は、それほど、ひどいものではなかったようにも思える。
確かに、それは忍従の生活とも思えるが、実際には、今川方は家康を義元の息子の氏真の側近にしようとの思惑があったようだ。
そのため、今川氏は家康に、きちんとした教育を施し、一族の娘を妻として与えた。
つまり、家康には一流の家庭教師が付き、軍事や政治について指導したのである。
まさに、それは帝王学を施したと言える。
その上、元服の際には義元は自分の字を与えて元信とし、烏帽子親にもなっている。
もはや人質ではなく、我が子同然の扱いである。
とすれば、家康は苦労し、我慢の人であったとばかりも言えない。
むしろ、この時期に学んだ帝王学が後の人心掌握術、経営術として生きたと考えられるのではないだろうか。
周到な幕府設立戦略も、こうした基礎があればこそであろう。
ところで家康は、案外、臆病で小心だったのではないかと思われるエピソードが多い。
実際、すぐに「死ぬ、死ぬ」とわめいて止められているエピソードがいくつか残っている。
幼い頃の経験からのトラウマからとも思えるが、意地の悪い見方をすれば、大事に育てられたことによるぼんぼん気質にも見える。
そして、天下取りは、案外、大きい冒険をして多くの敵を作るより、静かに静かにすすめることが肝要だったりする。
それを考えると、小心、言い換えれば慎重な性格が幸いして、生き延びたのではないだろうか、などと思うのである。
もう一つ、天下取りには長生きが大事である。
やっかいな敵がいなくなるのを待てばいい。
できれば戦わないでいなくなってくれるのを待てばいいのだから、長生きが大事ということになる。
信長、秀吉、家康の三人を見ると、家康が一番年下である。
信長とは8才、秀吉とは5才違い。(数え年ならマイナス一才か…)
6才で人質としてきた家康ちゃんを見る信長君は14才。
中学2年のひねたお兄ちゃん。
ちっちゃく見えただろうなぁ、なんて思う。
で、年の順に死んで行っちゃうわけだから、家康が残るのは必然。
しかも、先輩達は天下統一のための根回しを着々と進め、整備してくれていた。
あとは、とどめを刺すだけのこと。
時代の流れを読んだ者たちをうまくまとめて、最終的には天下を手に入れてしまった家康。
人質時代に学んだ帝王学が、十分に発揮されたということだろう。
そして、そこから得たにんにん的教訓。
「長生きって 大事」 ということである。
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岡崎城は、室町中期の享徳元年(1452年)、三河守護仁木氏目代の西郷稠頼(法名青海)が岡崎平野の竜頭山に築城を始めた。
城は、3年後の康正元年(1455年)に完成した。
この時、竜神が出現し、城の守護神たるべきことを約束したという。
これがもととなって、岡崎城が、別名、竜城、竜ヶ城などとも呼ばれたとしている。
個人的には、
(竜頭山に造ったからとも言えるし、竜が現れたから竜頭山と、その岡の名前を変えたのかも知れないし…)
と、想像している。
しかも付近には、古代の遺跡がごろごろ。
竜頭山そのものも、古墳だったのではないかと、思ってみたりもしている。
それはさておき……
この地は、矢作川の東岸に当たり、菅生川と沼地に囲まれた天然の要害の地でもあったが、北側を東西に掘り切り、後に青海堀と呼ばれる空堀を完成して城地とした。
ちょうどこのころ、北方の山間地に興った松平氏の攻勢が凄まじかった。
この勢いを恐れた稠頼の子頼嗣は松平信光の子光重を養子として自分を守ろうと試みた。
しかし、大永4年(1524年)、光重の養子信貞のとき、安祥城主松平清康によって信貞は城を追われてしまう。
以後、岡崎城は清康の孫の家康の時代まで松平氏の本拠となった。
天文11年(1542年)12月26日、家康はこの岡崎城で生まれた。
父広忠の死後、家康は駿府に人質となって送られ、岡崎城には今川氏の山田新左衛門が城主となって入った。
永禄3年(1560年)桶狭間で今川義元が横死すると、今川勢は岡崎城を空にして駿府に引き上げる。
そこで家康は、ようやく12年目にして父祖伝来の岡崎城に、城主として入城したのである。
19歳のときであった。
その後のことは、写真の説明板に詳しいので省略。
岡崎城は、江戸時代初期には東海道を城内に引き入れた上、水運にも恵まれていた。
下の写真は、城の南側を流れる乙川にある船着き場のモニュメントである。
対岸にも船着き場の標があり、広い川幅の両岸で多くの人と荷物が往来したことをしのばせる。
この手前の堤防というか土塁の中は、もう、堀である。
堀は、この乙川の豊かな水量を引きこんでいる。
さて、いよいよ天守である。
最上階の床には、古地図が描かれている。
手前が南、本丸、その奥に二の丸とあるのがわかるだろうか。
我々は、東側から攻め入り、南側の堀沿いに歩いて、本丸の下から登り、天守攻略であった。
ところで、肝心の眺めである。
城の北側。
大樹寺から城が見えるように、城からも寺が見える。
家光の時、寺と城とが互いに見えるように、両方を結ぶ直線上に高い建物を建ててはならないというお触れが出された。
それが守られていれば見えるはず。
寺からは見えたのだからと、天守から眺めれば、此は如何に…
都市化の進んだ町並みは高い建物も多く、カラフル。
むずかしい。
さて、見つけられるだろうか…
ヒントの写真を元に、見つけてみよう。
西から南の方角、赤い電車が横切って走るのが見えた。
乙川に掛かる鉄橋だったか…
天守には、全国の松平氏の城の写真が掛かっていた。
さすが18松平と呼ばれたものから、さらに、家康が繁殖増殖させた数々の松平&徳川一族とそれに関わる人々の城。
すごいなぁ…
感心しつつも、(このうちいくつ、攻め落としたっけ)と、数えてみるのも楽しい。
天守から出て、石垣を見ると、いくつかの紋様やくさびの跡を見つけた。
石の積み方も、打ち込み接ぎだが、なんとなく現代的で美しい気がする。
いつの時代かは判断できないのだが、さすが石の産地、ということにしておこう。
大手門をくぐり、外に出ると国道1号線が走っている。
整然と整った堀が流れていたが、これは現代版によるものか。
上の写真は城の北側に当たるが、下の写真は東側の駐車場に降りていく道である。
積み方の違いを比べると面白い。
橋にもこんなすかしの模様が入っていた。
都市化を進めながら、城下町としての意地も忘れていないということか。
ということで、盛り沢山の蘊蓄を書いてしまった。
しかし、岡崎城のほんとうの面白さは、「三河武士のやかた家康舘」という展示資料館である。
ここは、イベント的でもあり、体験も出来る。
大人も子供も、ちょぃと興奮状態になる面白さである。
なにしろ、兜もかぶれるし、吹き抜け天井を突くほどの長い槍は持てるし、刀も持てる。
日本のお馬さんに乗った高さも経験できる。
老いも若きも、我も我もと手を出すので、順番がなかなか回ってこないほどの人気ぶり。
兜はもちろん、槍と刀の重さに驚くだろう。
あんな重さでよく戦ったものだと思う。
ヘルメット程度の兜なのに、借金で首が回らないなんていう程度も越えている重量なのである。
しかも展示の仕方も系統だっていて、よく工夫されているので分かりやすく、勉強にもなった。
知的好奇心、歴史への偏狭な興味、いずれも満足させてくれる。
秀逸なのは、大久保彦左衛門を名乗る怪しげな白髪のやせこけた老人。
聞きもしないのに、突然、『三河物語』を、ドラマティックに語り始めちゃう。
♪ドラマティックに魅せろよ、井端〜♪なのである
(かなりローカルなネタではあるが、お許し願いたい)
まずは、必見の老人の語りではある。
恐らく、ここは、天守内の資料館より面白い。
ぜひ、訪れて欲しい。
興奮すること間違いなし………たぶん…
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徳川家康生誕の城として知られる岡崎城である。
昭和34年に復元された三層の天守は、高欄以外、実物に忠実に作られた。
なぜ高欄が付けられたかというと、天守閣からの見晴らしがよくなるようにということだったらしい。
現在、歴史ブームに乗って多くの観光客が訪れていることを考えると、ある意味、先見の明があったということか。
が、史実という面ではやはり、勇み足。
残念至極の感。
ところで、岡崎城を訪れる際、大手門から入る人も多いのではないか。
よくできてはいるが、これも復元。しかも、本来あった場所ではない。
が、それもOK。
城の入り口と思えばよい。
ただ、ここから入り、天守に向かい、城を見たつもりになってはいけない。
岡崎城址としての本当のすごさは、そんなものではないからである。
お薦めは、少し不便な気もするが東側の駐車場から南へ回る行き方。
上の写真の左手のこんもりした森の向こうが本丸である。
残念至極の極みは、右上のマンション。
建築に当たって発掘したら、石垣に使われた石など、貴重な物が出てきたのだとか。
マンションに限らず、広大な城だった岡崎城の遺構は、今や、四方から攻め込まれ、スーパーや大型ショッピングストアの床下や駐車場となっているという。
めぐるさかずきの悲しさである。
それはともかく、本丸を見上げながら左手へ回っていくと、趣のある堀がある。
ずいぶん削ったなぁ…との感を抱きつつも、堀も石垣も感動もの。
が、まだまだ続く堀と石垣。
本丸に続く石段は、周到に屈曲を繰り返し、容易に近づけない。
鉄筋コンクリートの復元天守に騙され、遺構はもはや失われていそうにも見えるが、実は、かなり残っている。
深緑色に淀む堀はもちろんだが、空堀、土塁、曲輪など、まだまだ見るべき遺構が多く、興奮する。
ここまでは、本丸南側の石垣だが、下は、北側に当たる。
さらに、下の写真は、大手門を出て、再び、駐車場に続くグランドへ降りる道。
鈴鹿サーキットもびっくりのS字カーブ。
逃げようにもどうにもならない袋のネズミ状態である。
また、城の回りは天然の要害というべきいくつかの川が流れている。
城の西に矢作川、伊賀川、南に菅生川(乙川)が流れている。
これらの川は、城の要害でもあり重要な水運でもあったようだ。
当時、この2つの川は、上り下りの川船で賑わったという。
その様子を記念するかのように、川岸に石のモニュメントが立っていた。
代々、譜代大名が入城して治めたこの城は、わずか五万石。
しかし、徳川政権では神君誕生の城として重要視されていた。
五万石でも 岡崎様は
お城下まで 船が着く
と、歌われた。
岡崎城がまだ、龍燈山城と呼ばれていた頃の古い歴史については、又、次回。
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大樹寺は、徳川家康生誕の地、岡崎にある。
松平家の菩提寺で、始祖とされる親氏から家康まで、歴代当主の墓が並んでいる。
松平家とひと口に言っても、十八松平というくらい、系統がたくさんあり、家康は安祥(安城)松平家の系統になる。また、もともとの本家だった岩津松平家の墓も、脇の方に建っている。
墓の大きさに、松平家における故人の貢献度が表れているようだ。
それを考えると、家康の墓(供養塔と言うべきかも知れない)が豪華というのは分かるだろう。
その次に比較的大きいのが、第四代親忠。
この親忠の時に安祥松平家が本家より力を伸ばし、宗家に立ったという。
その功績によるものかも知れない。
実は、この大樹寺には、もっとすごいものがある。
それは、江戸幕府の歴代将軍の位牌である。
素人にも興味深いのは、その位牌は、それぞれの将軍死亡時の身長と同じ長さに作られているということである。
江戸時代、男性の平均身長は155cmくらいだったので、現代人と比べればかなり小さい。
しかし、戦国の生き残りである初代家康や2代秀忠、分家から将軍となった6代家宣は、他の将軍と比べると、背が高い。
逆に、「生類憐れみの令」(という名前の法律は存在せず、複数のお触れの総称)で悪名高い5代綱吉は、なんと124cm。
小学校低学年並みである。
家臣に学問の講義を行ったり、大名家の御家騒動などで高圧的な態度に出たのは、低身長のコンプレックスが原因だったのでは…という説もある。
歴代将軍と書いたが、最後の慶喜は神道式で葬ったため、位牌はない。
やっぱり幕府を潰したことに責任を感じたせいか。
というより、廃仏毀釈を進めた明治政府の思惑に配慮して、改宗したのかも知れない。
また、将軍ではないが、10代家治の息子で、将来を期待されながら若くして死んだ家基の位牌も、身長通りに作られている。
家基は、老中田沼意次が暗殺したと疑われたのだが、真偽の程は明らかではない。
なにしろ、歴史を眺めていくと、ずいぶんと都合の良いときに人が死ぬという「不思議」が多い。
おそらく、一服盛ったのではないかと勘ぐりたくもなる。
人の命より、御家大事の時代である。
まんざら間違いでも無かろうと思っている。
大樹寺は、家康にとって人生の転機となった場所でもある。
桶狭間の合戦で義元が殺されると家康は身の危険を感じ、大高城からこの寺へ逃げ帰った。
先祖の墓の前で自害しようとしたとき、この寺の住職が止め、「厭離穢土欣求浄土」の教えを話して諭したという。
それ以来家康はこれを心の指針としたという。
また家康を追ってきた野武士の集団に、この寺の怪力僧が三門の貫木を振り回して応戦、家康を救ったという伝説がある。
この貫木は開運の貫木として、大切に安置されていた。
このほか、この寺には諸々の貴重な宝物や部屋などが残されている。
大樹寺の三門前には小学校があるのだが、校舎は立派な土塀で囲まれている。
城と同じ土塀で守りを固めている小学校というのも珍しく、思わず写真を撮ってしまった。
この写真の左側は、ちょうど学校の校門になっている。
その校門からは、下の写真のような眺めが見える。
つまり、大樹寺の三門から総門を通して、一直線上に岡崎城の天守閣が見えるように作られていると言うことである。
徳川氏と大樹寺の関係の深さをうかがわせるものである。
奥の門の向こうに小さく天守閣が見えるのだが、分かるだろうか。
校舎も、この視界を塞がないように配慮して建ててあったのは、あっぱれと言うべきか。
余談ながら、この大樹寺には何年も前から何度も訪れている。
三年ほど前に訪れた時には、真っ白でやや長毛の綺麗な猫がいた。
気位の高そうな品のある容姿でありながら人なつこく、心が癒されたのを覚えている。
今回も会うのを楽しみにしていたのだが、姿が見えない。
ご住職にうかがったら、二年ほど前に亡くなったのだとか。
残念だった。
今回は、なんだか悲しい訪問となってしまった。
ということで、次回は岡崎城攻めの記録。
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