めぐるさかずき

藪の奥の朽ち果てた庵で、スルメを噛み噛み、過去の城めぐりを書き記す

岐阜県の史跡

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さてさて信長の居館についてである。
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岐阜城は斎藤氏時代には居城として使われていた。
しかし、斎藤氏を破り、信長が岐阜を治めるようになると、麓に天主と呼ばれる御殿が建てられた。
 
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恐らく、信長は岐阜城を居城とするには、やや難有りと判断したのではないだろうか。
何度も繰り返してきたように、岐阜城が建つ金華山頂上は狭いのである。
攻守両面で見ても、多くの兵を常駐させるには、あまりにも敷地面積がなさ過ぎた。
険しさは確かに敵にとっては辛いモノだろうが、自分たちにとっても使いにくくて仕方ない。
難攻不落というデマはどこから出たものか分からないが、この不便さがかえって仇となって、易攻可落になってしまったのではないだろうか。
こうした軍事的に不利な点については、斎藤氏を攻め落とした信長なら、容易に気づいていたはずだ。
 
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そして、さらに権威の象徴とを示す城として考えたとき、この不便きわまりない岐阜城では迎賓館として改築するには限界があると考えたのではないだろうか。
外交の重要性を理解していた信長は、豪華な居館を見せつけることが、最も、自分の権力を知らしめるのに有効と考えていたはずだ。
それは、父親の信秀の姿から学んだことではなかったか。
信長が生まれたとされる勝幡城の豪華さに、京から訪れた貴族が感嘆したという記録が残っている。
それはすなわち、京に向けて行われた織田氏の権勢のプロパガンダでもあったはずである。
幼いながらもそうしたことの効果を信長も理解していったに違いない。
そのため、彼はどうしても豪勢な居館を造りたかったのではないかと思う。
 
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信長居館跡の発掘は、まだ最近始まったばかりで、現在も継続されている。
長い間、岐阜城は金華山頂上にあるもので、麓に何かあるとはあまり思われていなかったようだ。
麓は、市民憩いの公園で、遊具が置かれ、梅林公園としても人気があった。
記憶は曖昧ではあるが、30年ほど前から進められている発掘で、まず什器などが見つかったと聞いた。
そして、やがて石垣や土塁、池の跡などが発見されたと、ローカルニュースで伝えられていた。
次第に発掘が進むにつれ、どうやら壮大な庭園を備えた豪邸が建てられていたのではないかという。
 
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現在では、堀に囲まれたテラス状の千畳敷と呼ばれるところに御殿があったことが分かっている。
このテラス状の地形は、どうも人工的に造られたのではないかとも見られている。
石垣や土塁、堀の様子から、ただの居館と違い城郭建築に近いものだったことも分かっている。
山頂の岐阜城を天守というのに対し、この麓の御殿は天主と呼ばれている。
当時としてはかなりハイカラな南蛮様式を取り入れた四層の華麗なものであったらしい。
ポルトガルの宣教師のルイス・フロイスが、その壮麗さについて言及しているほどである。
 
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小牧山城から始まった信長のいわゆる城作りは、この岐阜の居館を経て、絢爛豪華な安土城へとグレードアップしていった。
そう考えると、ダーウィンの進化論を見るごとく、信長の進化の跡を見る思いがするのである。
 
などというのは、ちと、大袈裟かな……
 
ところで、岐阜城と居館であるが、どちらが自宅だったかというと、お山の上の方である。
やっぱり、大事な妻子は安全地帯の山頂に置き、緊急事態発生でもまずは、自宅を守るつもりだったようだ。
言い換えると信長にとってはお山は自宅。
麓は職場であり事務所、あるいは迎賓館だったのである。
通勤路は、くどいほど述べてきた険しさに充ちていて、いずこから攻めても百曲、七曲がりといわれるウルトラ難度。
が、さすが信長である。
彼は、日に何度もこの登山道を往復したという。
恐るべし、健脚……
あの色白面長の顔で,まなじりを決し、口をへの字に結んで登る姿を想像すると、ただ者ではないという感じがする。
とはいえ、藤吉郎を始めとする部下達も、せっせと上り下りしたのだろうから、当時の人達の健脚には感嘆するばかりである。
 
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ロープウェーで登ってから門までの石段でさえ悲鳴を上げている年寄りには想像も付かないことである。
 
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堅固な城と言われながら、何度も落城している城がある。
金華山にそびえる岐阜城である。
長良川側から見たら、直立するような断崖絶壁。
陸側から見ても、下の写真のような険しさである。
 
ご存知、「美濃の蝮」斎藤道三の城にして、信長の城でもある。
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上の写真は岐阜に向かって走りながら見た岐阜城。
中央左よりの突き出たところが金華山で、小さく城が見える。
この山は、木曽川を挟んだ対岸の尾張からもよく見える。
というより、目立つ。
(左右に連なる山も、やたら、怪しい形ではあるが)
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このことからも分かるとおり、ちょっと見、(という言い方はふさわしくないかもしれないが)周囲から見上げると、天守がそびえる金華山は、高く、斜面が急峻な山である。
これでは、攻撃する気も萎えてしまうというもの・・・
 
それなのに、七回も落城しているといわれるのはなぜか・・・
 
理由は簡単。
登ってみればわかる。
七曲の急峻な坂を、なんだ坂、こんな坂・・・
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さすが、岐阜。
岩の名所。
金華山も、そちこちに上のような岩が落ちて(?)いる。
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なにはともあれ、
 
ヒィ ヒィ ハァ ハァ  
 
と、まではいかないが
ちょろちょろ足元を走り回るリスさんたちに励まされ
登ってみれば、
 
「せまっ!」
 
唖然とするほどの狭さなのである。
 
「こりゃぁ、駒一頭も置けないわ」
 
というのは大げさだとしても、それほどの面積しかないように感じる狭さである。
 
誰かと肩を触れたら落ちるんじゃないか、などと冗談めいて思うほどの面積。
 
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ただ、感動するのは見晴らし。
天守からの眺めが絶景なのは、防御の上でもあたりまえのことなのではあるが、ここの眺めは、特別だと思っている。
現在の岐阜城は三重の天守閣で、昭和三十一年に再建されたもの。
例にもれず、ここもうそんこ天守閣である。
とはいえ、登ってみる価値はある。
 
 
最上階に出ると、その眺望は比類なきほど雄大。
東は飛騨、木曽山地へつながる。
北は眼下に長良川、その奥は両白山地が北国の空に連なる。
西は岐阜の市街が長良川に包まれるようにひらけ、その向こうに伊吹、養老の山並みが横たわる。
山並みの間に見える切れ目のすぐ奥は、関ヶ原である。
そして、南側は濃尾平野が一望千里。
衛星写真を見ているようで、出入りするもの全ての動向が見て取れる。
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上の写真で、うっすらと見える山並みの間にある隙間を、関ヶ原に向かってツワモノどもは駆け抜けたのだろう。
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街並みの合間合間にぽっこりこんもりの緑のお山。
古墳跡である。
左の可愛いまんまるお山は鷺山といい、道三が家督を息子に譲った後に住んだところである。
現在、国際会議場や長良川球場などがあり、文化施設のメッカとなっている。
その近くに、道三の墓がある、らしい。
 
さて、こんな狭い山頂の城に道三も信長も住んでいた。
さらに、信長は、ふもとにも豪華な館を建てていた。
現在、そこの発掘が進められている。
広大な屋敷跡からは色々なものが出てきており、見事な庭園も造られていたこともわかってきた。
信長は、一日に何度も金華山を上り下りして、家臣団と話し合いをしていたという。
健脚であったことは間違いない。
 
 
発掘の進む「信長館跡」や、「岐阜城あれこれ」については、次回・・・
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          (上の写真左寄りの盛り上がった所が、加納城天守台跡と考えられている。)
 
加納城主奥平信昌の妻「亀姫」は、家康の長女。
家康19才のときの子で、家康と正室築山殿の第2子として生まれた。
築山殿は、今川方から嫁いできた人で、一説に、息子の嫁との確執から殺されたお方。
姑としてしっかり者で、恐らく、気の強いところがあったための不幸とも思える。
出自の今川方が滅びたことで、なんとか一族の誇りを持ち続けたいと思い、強気の言動になっていたのかも知れない。
こうした気性が娘にも受け継がれたのか、亀姫もなかなかの性格であったらしい。
 
加納では今でも、やんちゃな女の子やわがままな妻のことを、「カメヒメサマ」とか「新城様」とか呼ぶのだそうな。
新城は夫の奥平信昌が築いた城のあった所。
いずれも勝ち気で男勝りだった亀姫を指している。
『徳川実記』にも、亀姫について、「御本性雄々しくましました」と記されているのだそうだ。
生まれついての気性に加えて、家康の娘で将軍の姉という立場となれば、当然だったのかも知れない。
加納にいたときには、化粧田として二千石の個人財源も与えられていた。
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この気の強さから、亀姫はエピソードが多い。
それも、あまり好ましくなく、彼女の訴えや進言で処刑されたり移封を余儀なくされたりした者が多くいる。
 
有名なところでは、宇都宮城釣り天井事件。
当時権勢を誇っていた本多正純を快く思っていなかった亀姫は、彼を失脚させるため事実無根の訴えをする。
それは、正純が将軍秀忠を暗殺するため「湯殿を釣り天井にしている」というもの。
この訴えは聞き入れられ、正純は配流となる。
代わりに亀姫の孫の忠昌が宇都宮藩へ入った。
 
また加納には十二相祠堂という墓碑がある。
亀姫の咎めで処刑された12人の侍女を祀ったものと言われている。
嫉妬だったのかどうかは定かではないが、激すると大変なお方だったのかも知れない。
 
また黒野藩は、亀姫の訴えにより廃藩となった。
これは、黒野藩主加藤貞泰が長良川右岸の堤防整備を行ったために、長良川左岸の加納城が浸水したと言って、亀姫が父の家康に訴え出たためである。
美濃はもともと水害の多い所だから、そればっかりのせいとも思えない。
しかし、亀姫は怒って、
「加藤のせいだっ!」
と、言ったかどうか…
ともかく訴えは聞き入れられ、貞泰は米子藩へ移封され、黒野城は廃城となった。
 
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(加納公園は、周囲がぐるりと土塁となっている。地盤が崩れやすく、足元が危険なため登ることは出来ない)
 
近くの琴塚古墳の正面にある二つの大きな石の一つを、亀姫の命令で城の庭へ運ぼうとした。
しかし、岩戸川まで運ぶと動かなくなってしまった。
そこで、そこの川に掛けて橋にしたという。
 
このほか、国替えの引っ越しで城のものを一切合切持ち去ろうとして国境で呼び止められ、渋々返したという話なども残っている。
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いずれも本当のことなのかどうかは分からない。
が、なにがしか、人の心をざわつかせるような要素をもった人だったのかも知れない。
しかし、その生涯を見ると、父家康を慕い、夫や子ども、孫など奥平の家と家族を大事にしていた様子も見えてくる。
母と兄を殺される経験をし、戦国のただならぬ時代を生きた亀姫。
ひと口に、「こんな人だった」と断じることはできない。
美濃加納城址は、岐阜城の南西にある。
 
訪れてみて驚くのは、今にも崩れそうな野面積みの石垣。
延々と、続く様は、石垣フェチなら垂涎ものだろう。
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この加納城、江戸時代には次のような伝説があったという。
つまり、江戸期の加納城は、伝承として中世の加納城跡に作られたらしいと言われていた。
「昔、城があってさぁ。その上に今の城が造られたらしいよ、ほんとかなぁ」という感じだったようだ。
 
平成に入り、本丸南門付近を掘っていたら、中世加納城の地面や土塁が出てきた。
本丸のほぼ真下に、中世加納城がまるまる埋まっているらしいということが分かった。
ここにいたって、江戸時代に語られていた伝承が、本当だったと言うことが分かってきたのだという。
 
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中世加納城は、川手城の押さえとして築かれた城だった。
文安2年(1445年)、土岐氏守護代の斎藤利長が川手城西北に築き、代々居城とした。
戦国時代に入ると斎藤氏の勢力が弱まり、美濃の実権は斎藤氏家老の長井氏のものとなる。
天文2年(1533年)、土岐氏家臣の西村勘九郎が稲葉城主長井氏を殺害して長井新九郎を名乗る。
さらに天文7年(1538年)、この長井新九郎は、斎藤利良の死後、嗣子がないのを幸いにして、斎藤利政を名乗るようになる。
 
と、ここまで来れば、この斎藤利政が何者か分かってくるだろう。
そう、何を隠そう、(隠してはいないが…)、彼こそ「美濃の蝮」こと斎藤道三である。
この改名により加納城も利政のものとなる。
 
しかし、利政は稲葉山に居城を移し、加納城は廃城同様となった。
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その後、加納城は関ヶ原合戦以後、復活する。
慶長6年(1601年)、家康は岐阜城を廃し、荒廃していた加納城を改築して、娘婿の奥平信昌を入城させた。
西方への押さえとしての城である。
以後、大久保氏、松平氏、安藤氏と城主が変遷。
最終的には、宝暦6年(1756年)、永井氏が三万二千石で入城。
その子孫が継いでいった後、明治維新を迎える。
 
現在、城址は公園や学校、気象台などになっているが、土塁、石垣などの遺構が比較的よく残っている。
ということで、まずは、加納公園へ。
 
ここは、本丸跡になるのだが、自衛隊駐屯地の後、市民憩いの公園となっている。
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「登らないでください」と書いてはあるものの、手も足もかけて登りやすそうな石垣…。
石垣の材料としては珍しいチャートで築かれている。
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埋め立てられてしまってはいるが、土地の高低差から、堀跡も想像することが出来る。
周囲を流れる川も、人工的に川筋を変えたと思われ、堀としての働きをもっていたことがしのばれる。
現在は、城内も周囲も埋め立てられているため分かりにくいが、加納城は水に浮かぶ城であった。
上の写真からも分かるのだが、清水川を人為的に東へ開削して荒田川に合流させた可能性が出てきている。
長刀堀は、自然の谷のような地形の場所にあったことも分かってきている。
ひょっとすると、長刀堀はかつて清水川の本流だったのを、江戸時代初めに現在の場所に付け替えられたのではないかとの推測もされている。
 
また、本丸北門は、元自衛隊正門で、中山道に面していた。
下の写真は、水色の門が正門。
その左手の土塁を左の方へ行った所が天守台跡と伝わっている。
天守閣は築かれていなかったとは言うが、ここから北東に、金華山、つまり岐阜城が見える。
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下の写真は、公園北東の土塁から見た岐阜城。
 
あんな高い所から、せっせと資材を運び下ろし、加納城を築かせたのだ。
重機もない時代、ご苦労さんなことで、頭が下がる。
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現在、三の丸跡は小学校になっている。
勝手に出入りできないので、周囲から見るしかないのだが、土塁と石垣の跡など、その高低差などから偲ぶことが出来る。
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そして、二の丸跡は、気象台になっている。
入るわけにはいかないので、これも周囲から見ただけ。
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平成に入り、本丸跡発掘で、障子堀が確認された。
後北条氏の城の特徴とされるものが、何のために掘られたか。
加納城の『400年も眠っていた謎』となっているのだそうな。
 
また、加納城由来の興味深い話は、関ヶ原合戦後初代城主となった奥平信昌の妻、亀姫にまつわる「もろもろ」
それについては、次回…
川手城あるいは革手城である。
岐阜市内にある城址だが、メジャーとは言えない。
が、しかし、この城、なかなかに魅力的。
どこが…というと…
ワイドショーが好きで、スキャンダルとゴシップが好き、という人にぴったり。
と、まぁ、これは書いている本人のことではあるが…
 
面白いのは、ここの歴代城主にまつわるエピソード。
が、それはさておき、川手城とは…である。
 
川手城は荒田川と木曽川に挟まれた要害の地にあり、城の周囲には八幡社や七堂伽藍を持つ正法寺などの神社仏閣が建築されていた。
川手城攻めを思い立ったのは、実は、それらの一つとおぼしき、この石切神社発見が発端。
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通りすがりながら、どうにもこうにも怪しすぎる。
長い参道を、鳥居の外に向かっていくと、その先は鏡川に出た。
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物資運搬水路としての川幅も水量も十分。
例えば、城内船着き場としては最高ではないか。
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境内に残る土塁とおぼしき風情、神殿周りの石垣も、ただ者とは思えない。
しかも、石塀に掘られた土岐家の家紋。
むむむ…
さては、番所でもあったのか…
敷地の形状、道を挟んだ所にある公園の盛り土の様子もただならず。
周囲の道も細く、屈曲多く、ただの村道とも思えない。
疑えばきりのないことではあるが、どうみても城跡にしか思えず。
我々の目はごまかせぬぞ、とばかり、常時携帯のバイブルを検索。
その結果、どうも川手城の一部ではないかと推論。
 
現在の城址が、この近くの済美高校にあると分かって、移動したのである。
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川手城は土岐氏累代の居城で美濃守護の本拠地ではあったが、城郭と言うよりは豪奢な御殿風の建物だった
ようだ。
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土岐氏は清和源氏の流れをくむ名門で、源頼光の後裔の光信が美濃国土岐郷に住んで、土岐氏を称したとされる。
源頼光は、ご存じ、大江山酒呑童子退治の人である。
それだけで、もう、うわぁ、という気になる。
 
そして、足利幕府草創期、武勇に優れた頼遠が登場する。
「土岐が絶えるとき、足利も絶えるだろう」とまで言われるほどの功名をあげた。
にも関わらず、頼遠は『婆娑羅大名』さんだった。
調子に乗った頼遠さん、酔った勢いで光厳上皇に失礼なことを言ってしまう。
「院か、犬か.犬なら矢を射ろ」
……牛車を蹴倒したとも、矢を射たとも。
その結果、当然のことながら処刑されてしまう。
 
この人の奇行ぶりは激しく、色々あるが、出陣の際の派手な出で立ちが、ある鳥に似ていたため、その鳥をトキと呼ぶようになったとか。
そんな経緯があったとは…
凄い人だ…
 
その後、川手城に入ったのが、甥の頼康。
更に、一族の争いで土岐頼益が、土岐氏の宗家となる。
川手城は城下町共々栄え、「西の山口(大内氏)、東の川手」とまで言われるほどだったという。
当時、応仁の乱などで都を逃れてきた公家や殿上人を寄宿させた。
それを受け入れるだけの繁栄が、この川手にあったということである。
 
五代目政頼のとき、登場したのが西村勘九郎正利である。
この男、誰かというと、後に『蝮の道三』と呼ばれた斎藤道三である。
道三は、政頼の弟の頼芸に仕え、うまく頼芸をそそのかし、川手城を奇襲、手に入れてしまう。
 
その結果、うまいこと、主君頼芸を守護に付けるが、まもなく大桑城へ追い払う。
道三は、主君を追った後、自分も稲葉山城に拠点を移したため、川手城は廃城となってしまう。
 
川手城周囲を見ると、新荒田川を挟み、北西に加納城祉がある。
北の方を仰げば、岐阜城(稲葉山城)が見える。
いくつもの川という水運に恵まれ、中山道という陸路もある。
当然ながら軍事的にもかなり重要な意味をもつ所でもあったはず。
が、現在の川手は静かな街。
 
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そして、平成の川手城址。
 
全く昔の面影を留めず、若人らの青春の場となっている。
なにか微かな遺構でも見たいとは思ったが、ここは高校である。
しかも数年前までは、女子校だった。
怪しい人と思われてはならぬ。
無念の思いで撤退。
聞けば、キリスト教系らしい。
めぐるさかずきではあるが、道三の婿殿なら、お喜びかもしれぬ。
 
その足で、初期の目的地、加納城を目指す。
 
まさか、そこで、思わぬお方と出会うとも思わず……
 
 

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