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手元の古い資料では波切城と書いて、「はきりじょう」。
さらに城跡は、「波切神社のある一帯」とあった。
その伝で、探し求めていったのが、ここである。
正確には「なきりじんじゃ」一帯にある「なきりじょう」跡ということで、登る。
苔むした見事な石垣に屈曲を重ねて登る山道。
藪のトンネルを抜ければ、眺望は開け、この大洋は我がもの…
しかし、帰って来て調べ直したら、どうも少しずれていたらしい。
正しい城跡は、綺麗に整備された八幡さん公園とか。
確かに公園の方には、はっきりとした土塁や曲輪跡などが残っている。
そこが城の中心、あるいは本丸跡ということか。
だが、砦らしき面影から言えば、神社一帯の地形の方が、何となくぴんと来る。
整備されていない分、そう思うだけのことかも知れないが、土塁や古い石積みもある。
手元の資料はかなり古いのだが、城跡は、神社一帯とある。
それを考えると、数十年前まで地元では、波切神社が城跡と見なされていたと言うことである。
その後、発掘または調査が進んで、城跡が今の位置と確定されたのかもしれない。
ところで、波切城は九鬼氏の城である。
が、もともとは、この地の川面氏のものだった。
南北朝時代の末、尾鷲の九鬼浦から来た九鬼隆義が、大王崎の波切城にいた川面氏を逐い、城主となる。
九鬼氏は、藤原北家の流れをくむと称しているが、確かな証拠はない。
ただ、尾鷲には九鬼という地名があり、居城跡も残っているらしい。
さて波切城を取った九鬼氏は、大王崎を通過する船から通行税を徴収し、ときに海賊まがいのことをしたので、船乗り達から怖れられていたという。
まがいというが、やっぱり海賊だったんだろうと思う。
当時の感覚から言えば、海賊も生業の一つである。
そうやって、力を蓄えていったとしても、なんの不思議もない。
その後、六代目当主泰隆が田城城に移った際、この城は弟嘉隆のものになった。
その後のことは、先回、先々回に書いたので省略。
見事なのは、やはり眺望。
熊野灘と遠州灘の境界にあり、黒潮に乗って通行する船の動きがよく見える。
伊勢湾、三河湾の出入りは一望。
ネズミ一匹逃さないのである。
(まぁ、船からネズミが逃げ出すときは沈むときというけど…)
富士山だって見えちゃう。
しかも、海岸段丘の断崖は天然の要塞。
岬全体が砦の役目を十分に果たしている。
それより驚くのは、この町の至る所にある神社仏閣。
いずれも、普通の寺社とは思えぬ石垣と土塁。
登っていくまでの屈曲した石段は、ただものではない。
おそらく、町全体が砦としての役目を果たしていたのではないか。
恐るべし。
絵描きの町なんて穏やかな顔に隠された砦の町に、感心しきりの城攻めだった。
さらに、もうひとつ。
岬の公園で出会った三人の少年が、我々を見て、さわやかに
「こんにちわぁ」
と、大きな声で挨拶をしてきた。
なんという心地よさ。
明らかに地元の中学生と思われるジャージ姿の少年達。
トレーニングしながら、登ってきたらしかった。
その後、我々が神社から降りてくると、自転車で走り去るのが見えた。
イマドキという言葉は使いたくないが、あまりしたことのない体験でうれしかった。
砦の町は、フレンドリーで礼儀正しく、とってもいい感じの町でもあった。
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三重県の史跡
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田城城は、九鬼氏四代泰隆が築き、それまで居城としていた波切城から移って来たと言われている。
天文年間(1532〜54年)のことらしい。
看板に寄れば、すでにこの城のもととなるものがあったようだ。
城という字が二つもあって、名前が変ではないかと思うのだが、もとは田城左馬之助の城だったと聞けば、なるほどうなずける。
どのような手段で手に入れたのかは定かではないが、少なくとも海賊的水軍の豪族の出である。
穏当な方法ではなかっただろうと思うのは、考え過ぎか。
城は、鳥羽市の南方、加茂川と河内川が合流する辺りにある丘にある。
周囲は平らな地形が広がり、そこにぽこんとある細長い丘は双子山に見えなくもない。
もとは古墳だった所を利用したのではないかという印象を受ける。
そもそも岩倉という響き自体、古代の臭いがぷんぷん。
古代人の信仰の対象となるような巨岩、奇岩、もしくは石棺か石室の存在を想起させるではないか。
(う〜む…あやしいぞ…ワトソン君…って、いないか…)
岬の先端の波切城から見れば、ここは内地とはいえ、どれくらいの利点があったのか。
現在は田畑が広がっているが、当時、周囲は湿地帯で穀倉地帯でもあったという。
とすれば、穀物が手に入ること、街道の往来を見張るのに便利だったこと、なのかどうか…
現在、城跡は、九鬼岩倉神社となっている。
周囲の開発も進んだせいか、丘自体がかなり細長くなり、上部も狭くなっている。
そのため、遺構は土塁や人工的に削ったと思われる斜面、櫓台にでもしたのか少し小高くなっている神殿奥などで、どれも想像でしか判断できない。
下の写真は河内川。
右手のこんもりしているのが九鬼岩倉神社のある丘。
丘の下を流れる川を見ていると、もともと古墳の周囲に掘られていたものか、人為的に川筋を曲げられたようにも見える。
なんでも遺構として見たいばかりに、色眼鏡になっているかもしれない。
悪い癖だ。
さて、泰隆の後、五代目定隆を経た六代目浄隆は、志摩一国を制覇しようという野心を燃やして、近隣を侵略し始める。
当時、志摩では志摩七党という豪族達が勢力を張っていたが、相互に不可侵条約を結んでいた。
そのため、浄隆の振る舞いに残りの六豪族達は怒り、北畠国司家の援軍を得て田城城に押し寄せた。
浄隆は弓の名人で、城の周囲は湿地帯。
寄せ手は攻めあぐんだという。
ところが、戦いの最中に浄隆は急死。
遺児澄隆を助けるべく波切城から駆けつけたのが浄隆の弟の嘉隆だった。
しかし、救援むなしく、田城城は落城してしまう。
やがて、信長の水軍として活躍するようになった嘉隆は、志摩に攻め込み敵対する六党を平定、田城城に入る。
さらに甥の澄隆を暗殺して、九鬼家八代の党首の座に着くのである。
その後、1560年、志摩統一をした嘉隆は、鳥羽城を築いて移る。
そして、志摩国内の豪族の城をことごとく破壊し、そのおり田城城も廃城にしたらしい。
信長の徹底的に危険要素を潰しておくという方針を、嘉隆は学んでいたのだろうか。
しかし、この田城城は、嘉隆の野心の足がかりとなった記念すべき城でもあったのだ。
現在も続く九鬼岩倉神社は、嘉隆の子守隆が、大山祇神のお告げで、非業の死を遂げた澄隆を祀って建てたという。
父の犯した罪を子が償うべく、というより、澄隆の怨念を鎮める意味も込められていたのだろう。
当時、神社を建てると言うことは、殺めた相手の怒りを鎮め、祟りを怖れてというのが普通のことだったのである。
くわばらくわばら……
鳥羽城、田城城と来たが、次回は、さらに遡り、波切城について書こうと思う。
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鳥羽城からの眺めである。
本丸跡から東側は海で、遠くまで一望できる。
現在は、城山の下は鳥羽駅、観光船乗り場、水族館などがある。
南側斜面下にある旧鳥羽小学校校舎。
廃校になっているが、もとは児童数が多く、かなりの規模の校舎だったと思われる。
本丸西、つまり城の背後は切り立った斜面の下に水路。
町が広がっているが、その向こうは山並みである。
そして、これが本丸北側。
写真左手の山の向こうから、我々は攻め入ったことになる。
さて、九鬼嘉隆のその後である。
関ヶ原の合戦では、嘉隆は西軍、息子の守隆は東軍と両軍に分かれて戦った。
いずれが負けても、九鬼家を残そうとの深謀遠慮であった。
嘉隆は鳥羽城を奪い、東軍諸大名領地の海岸を略奪したため、家康は守隆に父親を討てと命じる。
親子は安乗崎の海上で海戦を繰り広げることとなる。
しかし、西軍が敗れたことで嘉隆は、抵抗を断念、鳥羽城を捨て答志島へ逃亡する。
一方、守隆は父親の助命を家康に嘆願する。
戦いで功績のあった守隆の嘆願で家康は嘉隆を許すのだが、その知らせが届いたときには、すでに嘉隆は切腹していた。
九鬼家の行く末を案じた家臣の豊田五郎衛門が独断で嘉隆に切腹をすすめたからという。
これを知った守隆は怒り、豊田を斬首したと伝えられている。
しかし、実は、父親に切腹を勧めるよう事前に守隆が豊田に命じてあったという説もある。
となると、豊田をその場で斬首したのは、この事実を闇に葬るための狂言だったのではないかとも思えるのである。
実際、その先を思うなら、後の説の方が深謀遠慮的確という気がするのだがどうだろう。
さて、九鬼家はこうして関ヶ原をうまくやり過ごし、無事、お家継続となった。
しかし、その後がいけなかった。
守隆は跡目として病弱の長男を廃嫡し、出家していた五男を還俗させて後継者としようとしたことから、反発した三男との間で家督争いが起きてしまう。
この争いは守隆の死後も続く。
結局、それがもとで五男久隆は摂津三田三万六千石に封じられ、三男隆季は丹波綾部二万石に移されてしまう。
こうして水軍の雄たる九鬼家は陸に上がったカッパ同然になってしまったのである。
命をかけて嘉隆が盛りたて、守ろうとした九鬼家はあっけなく歴史に埋もれてしまったのであった。
さて、鳥羽城主の方は、九鬼氏の後、内藤氏、一時天領、土井氏、松平氏、板倉氏、松平氏と変転。
1725年、稲垣氏が三万石で入城してからは落ち着き、明治維新まで続いた。
明治になって城は破却されてしまった。
家督争いなどせず、もし穏便に九鬼家が続いていたとしたら…
鉄甲船という華々しいエピソードを持つ一族だけに、その後のヒストリーを思うと哀しく憐れである。
心ならずも転封された久隆も隆季も鳥羽が恋しかったようだ。
隆季は遺言で葬儀を鳥羽にある常安寺で行い、久隆は転封先にある寺を改名させ、常安寺から和尚を招いている。
兄弟、仲良くしとけばよかったなぁ…
と、後悔したかどうかは定かではない。
しかし、幕府側とすれば、なんとなく危険な臭いのする九鬼家の牙を削ぐことができて、ほくそ笑んだのかも知れない。
現に、三田に転封された久隆は山間の小藩ながらも九鬼水軍の昔を忘れぬようにと、大池に舟を浮かべて舟艇操縦の訓練を怠らなかったという。
さすが、守隆が後継者としてわざわざ還俗させた久隆である。
とすると、守隆の判断は正しかったかも知れない。
要らぬ手出しをして家を潰したのは、隆季ということか……
次回は、鳥羽城以前の九鬼家の城について紹介する。
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かねてより興味を持ちながら人には言えず、心の奥深く秘めていたのは「水軍」。
四方を海に囲まれた日本では、海上交通を無視しては日本の歴史は語れない。
その海上交通を占有し、経済的にも軍事的にも大きな力を持っていたのが水軍である。
彼らは歴史の主人公にはならなかったが、陰に陽に関わったことで歴史は動いてきたのである。
ところで、水軍というと響きはいいが、実は、みなさん、前身はいずれも海賊さん達。
まだ水軍としての形を為すよりもずうっと昔、落ちている物は拾った人の物になった。
つまり、海難事故などで流れ着いた物や漂流物は見つけた人の物として認められていた。
今なら窃盗だが、当時はそれが当たり前のことで犯罪にはならない。
そうなると、考えることは誰でも同じ…
海難水難を起こせばいいのである。
「やっちまええぇ〜!」
ということで、集団で企んで襲い、人的海難事故による遺失物を拾得する者たちが出てきた。
これが、海賊さん達のハシリである。
しかし、これも今の感覚で考えてはいけない。
決して犯罪集団としての意識ではなく、職業集団の感覚だったのだろうと思う。
やがてこの烏合の衆のような徒党集団は豪族中心の組織集団へと発展していく。
ここに立派な「海賊」が出来上がる。
やがて、彼らは、略奪だけでなく交易も行うようになった。
また、それぞれの海に精通していることから、警固料などの名目で通行税をせしめたりして力を蓄えていった。
こうして組織だって活動するようになった集団は、もともと戦う集団でもあったわけだから軍事的色彩をおびているのは当然である。
秀吉の時代になって、こうした海賊活動が禁止されると、彼らが大名の水軍へ移行していったというのもうなずける。
とはいえ、秀吉以前にもすでに多くの水軍が歴史のあちこちで顔を出し活躍している。
藤原純友の乱や源平合戦でも水軍の活躍は魅力的。
が、個人的にきになっていたのは、九鬼水軍だ。
いつか九鬼さんの城を攻めねばと思いつつ、幾年月…
というわけで、思い立って行ってきた。
多少、マイナーなイメージもあり、正直、遺構はほとんどないだろうと考えていた。
が、鳥羽に着いたら、うれしい誤算。
なんと平成23年に発掘調査とかで、石垣、土塁、縄張り、曲輪など思った以上に遺構を見ることができたのである。
ラッコとジュゴンで有名な鳥羽水族館の真ん前にあるこの城山。
下を通るとすでに、階段状の石垣が目を惹く。
ここは、最近まで小学校と幼稚園があり、天守跡は運動場としても使われていたという。
しかし、麓から天守までは屈曲した急な坂を登り、いくつか曲輪跡も越えていく。
古い石垣は高く苔むしている。
こどもたちは、天守跡の運動場に来るために、急で危なげな石段を登らなければならない。
まるで、城主に「ご注進!」と駆けのぼる忠臣のような姿を想像して、「たいへんだっただろうな」と同情。
現在も、この天守跡には相撲の土俵や登り棒、カラフルなタイヤ、サッカーゴール、手洗い場など運動場の名残が錆びたまま残っている。
そして、それと一緒に井戸跡などが残っていて、不思議な時間空間を作っている。
鳥羽城は、九鬼嘉隆の城である。
もとは、橘氏が平安末期の保元年間(1156〜58年)にこの地を領し、舘を築いて鳥羽殿と称していた。
その後、子孫は北畠に属したが、九鬼嘉隆が信長の後押しで志摩の諸豪族を攻め立てると橘宗忠は娘を人質として降伏する。
嘉隆は、その娘を妻とした。
そして、水軍を率いる嘉隆は居城の田城が内陸で不便だったため、妻の実家である鳥羽城に夜襲をかけ、奪い取ってしまう。
1560年のことである。
嘉隆は、鳥羽城を大きく改修。
城は鳥羽湾を望む岬にあったが、その付け根部分を切断して島に変え、浮城にした。
本丸、二の丸、三の丸を設け、水門4,城門6,櫓13があったという。
大手門も水軍の城らしく陸の方でなく海に向かって作られていたという。
嘉隆は、この城を本拠にして、信長軍の水軍の大将として活躍した。
有名なのは1581年石山合戦で毛利軍に大勝利した鉄甲船である。
宣教師オルガンチノが「日本で最大の、そして華麗なもの」として記しているという。
信長の死後も、秀吉に従い、水軍の将として活躍。
朝鮮出兵の折には日本水軍の主力を務め、いわば日本軍の連合艦隊司令官の地位にあったのである。
華々しい活躍をした嘉隆であったが、秀吉の死後、人生は大きく悲劇へと傾いていく。
それについては、また次回…
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振り向けば歴史的建造物の跡(じゃないけど…)
で、下の写真参照。
前をながめれば未来都市のような景色。
諸々の問題を含む所ではあるが、敢えて、そこには触れない。
塩害、治水、利水と各々の立場を知らない者が簡単にコメントすることの出来ない課題だからである。
ただ、伊勢湾台風による甚大な被害の後、治水を要望した人々の切実な思いだけは忘れてはならないだろうという気もする。
何百年もの間、水害に悩まされてきた人々の苦しみは、経験したことのない者にはなかなか分からない。
安易なロマンティシズムで自然保護は語れないのである。
だが、やはり、生態系保護という観点から、次々と失われつつある生き物への危機感も募る。
両手を広げて、「やめてくれ!」と叫ばずにはいられない気持ちにもなる。
そして、この豊かな水量を誇る貴重な汽水域から生活の糧を得ている人々の切実な願いもある。
諸々鑑みてみれば、そこに住む人間と生物の、それぞれの利害に対して、どちらがどうだと、黒白はつけられない。
ということで、多少カメラを引いて河口堰の様子を見る。
そこから右へ、つまり河口堰から南へ視線を流すと、空中楼閣。
さては、ダースベーダーの地球監視基地か?
夜にはライトアップで回るらしい。
限りなく怪しい。
が、これは単なる長島にある観光施設。
ここには、あの信長を半狂乱に怒らせた一向一揆で有名な長島城がある。
そしてさらに、右へ目を移すと中洲はどんどん狭まって遂に合流。
揖斐川と長良川のドッキングである。
遠くに見える工業地帯は名古屋港あたり。
名古屋港にかかる三つの大橋(名港トリトン)から見る工場の夜景は最高である。
そして、相変わらず水量豊かな堀。
桑名城址はお堀を楽しむところでもある。
お堀の周りには、こんな古い石垣の跡と思われるところも。
そして、謎の大砲が辰巳櫓に残るところでもある。
何故あるのか由来が分からないという。
もしかして、これって…ぱっかん?
「ぱっかん」とは、お米を入れて真空にして しゅぼっと空砲音でつくる「米はぜ菓子」。
蜜で固めると「おこし」とかになるお菓子。
正式名称が分からない中途半端な年寄りなのである。
雷おこしは知っていたが、ぱっかんというものを初めて見て、食べたのは成人して後のこと。
現在の地に来るまで知らなかったのだ。
と言いつつ、ネット検索。
ポン菓子と言うらしい。
いくつになっても勉強である。
で、ネットの写真を見たが、これってポン菓子製造器じゃないね。
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