めぐるさかずき

藪の奥の朽ち果てた庵で、スルメを噛み噛み、過去の城めぐりを書き記す

静岡県の史跡

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いよいよ出世城である。
浜松城攻めは、これが2度目。
先回は、夕暮れ、雨上がり。
今回は、日没寸前。
なかなか時間の配分が難しい。
三方原から逃げ帰る家康は、時間配分なんぞ、考えるヒマなどなかっただろうが…
 
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さて、浜松市内に入っての印象。
道のアップダウンといい、見上げんばかりの石垣に挟まれた道はさながら大堀切りの底を抜けるがごとく…。
三方が原台地の東南端に位置し、天竜川の河岸段丘と入り交じった多くの谷を堀として利用していたそうな。
それゆえ、町全体が要塞都市の様を呈しているのだろう。
 
もともと浜松城は、現在の城跡から国道を挟んだ東側の丘にあった曳馬城(引く間城)が拠点だったという。
そこは、現在、東照宮になっている。
 
二の丸付近に車を止めたのだが、目の前にキラキラホテルで、やや興ざめ。
出世城云々、豪華お食事セットetcの垂れ幕があり、やれやれと溜め息。
何年か前に行ったときは、雨上がりの上寂れた感じがあり、周囲の様子からすべて、古城のイメージだった。
現在は、周囲も整備され、市民憩いの公園になっている。
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浜松城の歴代城主の多くが後に幕府の要職に就いたたことから、出世城とも呼ばれた。
そのため天保の改革で有名な水野忠邦のように、自ら浜松城に志願して入る者もいた。
ちなみに水野はもともと唐津六万石。
石高は浜松と変わらないが、実質20万石とも言われた豊かな藩だった。
当然ながら、家臣は反対していた。
しかし、唐津は長崎警備の役目を負っており、幕閣の職には就けない。
そこで当時、老中を務めていた親戚の水野忠成(とっても賄賂好き、賄賂漬けの人)に働きかけ、浜松移封を果たしたのであった。
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まぁ、そんなこんなで、いざ浜松城だ。
もともと天守などなかったらしいが、なんということでしょう(ビフォォアフター風)
登ってみれば、古色蒼然、ほんとっぽい天守閣が鎮座。
 
怪しさも ここまでやれば 観光地 (5・7・5)
 
ただし、石垣は当時のままの野面積み。
崩れそうで、怖い怖いと言いつつ進んでいったら
「危険、崩壊の怖れ有り」
とのロープ。
「登るな」
というのもあり、びっくり。
こんなのにチャレンジする人もあるようだ。
危険さを帯びているが故に、ほれぼれするほど極上の素晴らしい野面積みなのであった。
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登る気はともかく、この奥に進むと急斜面の崖に続く。
今はさんざんばらんの雑木林で荒れ放題。
もし、それが無ければ見通しはいいだろうと思われた。
二俣街道も真下である。
 
さて、ここでもうひとつ、とんでもない浜松城主のエピソード。
彼の名は井上正甫。
内藤家の下屋敷(新宿御苑の辺り)に招待されたときのこと。
屋敷内の畑で働いていた農婦に欲情。
酒の勢いも手伝って、あろうことか狼藉に及んでしまったのである。
そのときは、因果を含めてもみ消したつもりであったが、当然ながら目撃者多数。
家政婦がいなくても、写メが無くても、人の口に戸は立てられないのである。
 
後日、江戸城登城の際、門前に控えたやっこ達に
「よぉ! 強淫大名!!!」
と囃し立てられてしまった。
当然ながら、この話は上へも通じ、
「なんのことじゃ、なんのことじゃ」
の大騒ぎ。
とうとう寒い寒い奥州へ転封されてしまったのであった。
(いいじゃないか、奥州は寒いが、うまいもんが多いぞ)
 
しかし、この人の息子正春は偉かった。
浜松藩主に復帰した折り、伝えた機織り技術が元となり、現在の自動車、バイク、ピアノなどの機械産業の礎となったのである。
そのため、浜松では正春の評価は今でも高いのだ…そうな…
 
反面教師の親って、大事なのである。
 

掛川城 その2

本日、掛川城写真特集。
 
三日月堀。他に十露盤(そろばん)堀というのもあったらしい。
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二の丸から天守を見上げる。実は日本初の木造復元天守。あっぱれ!!
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以前は太鼓櫓が掛川城址のシンボルだった。
下の写真中央より左手にある石垣上、黒屋根にわずかな白壁、黒い下見板張りの建物。
それが太鼓櫓である。
もとは三の丸にあったものを移築したという。
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下は、二の丸御殿の庭先にある土塁。
なんだか素朴で良い。
御殿は映画の撮影にもよく使われるという。
残念ながら建物内は撮影禁止だったが、中を見たい方は東山紀之主演『小川の辺』をごらんあれ。
その他、結構、時代劇に利用されるとのこと。
その価値、貴重さがしのばれるではないか。
しかし、撮影用のライトって強烈じゃないのかなぁ…
文化財保護の観点から考えると、心配だなぁ…
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懸河旧址。この下に城内、城下の縄張り俯瞰図。
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この傍示から考えても、逆川と呼ばれるほど、激しい急流だったと思われる。
防衛の堀として十分、役に立っていたのだろう。
 
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城を出て、橋を渡り、駐車場に向かうところにある店に、ふらりと立ち寄ったら大興奮。
本格的時代劇グッズの宝庫。
それもそのはず、時代劇撮影の折りには、もろもろ貸し出しするんだとか。
ちなみに監修は、かの有名な小和田哲男氏。
戦国ファンなら知ってるよね?
そう言えば、静岡大学の先生でしたねぇ。
お江ブームで、華やかな浅井三姉妹グッズが多くあったが、そんなのはなんのその。
きらりと光る山吹一枚。
一両小判をゲット。撮影に使うやる気満々の小道具である。
とはいえ、わずか300円。 (やすっ…)
「お手を触れないで下さい」
と注意書きだらけをものともせず、べたべた触りまくり、いじりまくるこわっぱ有り。
店の御仁は、にこにこ愛想笑い。
いいのかっ?
写真など撮って、
「店のHPに載せて良いですか?」
 なんて言ってたな…
そのうちチェックしておこう、と思いつつ はやン百年である。
ということで、真田の赤備えで締めておこう。
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あっぱれ、 掛川城

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先回、銀杏の産地周辺の城跡についてと書いておきながらではあるが、本日は、遠州。
森の石松の話ではない。
と、書いて、ふと思った。
森の石松と書いて、分かる人がいるのだろうか。
分かる、分からないで、世代が分かるかも知れない。

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で、掛川城。
そう、大河ドラマ「功名が辻」でフィーバーした山内一豊の城である。
こうしたドラマをきっかけにしたところは、大概、観光目当てでろくなものではない。
というのが背中にへそのある意固地な老人のポリシーなのだが、行ってみて感心した。
まずは、史実に忠実に再建されているということ。
昨今、怪しい模擬天守ばかりの中で、正確を期して努力した掛川市に、まずは敬意を表したい。
もともとは今川氏の家臣朝比奈氏の城である。
その後、家康の家臣石川氏が入った。
しかし家康が関東に移封の後は、秀吉の命で東海道を押さえるべく、山内一豊が入る。
(つまり上川隆也と仲間由紀恵夫婦が来たのである…なんちゃってね)
一豊は長浜、安土、伏見などの築城に参加して得た知識や各地の実践で得た経験から城郭を含めた領国の大改修を行った。
1つには、関東の家康に対する秀吉の東海道における防衛的配慮を十分に含んでいたのである。
一方で、古城としての掛川城から見ると一豊の築いた新城は、交通、経済も考慮した近世城郭への一大転換でもあった。
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それはさておき、城巡りである。
大したことはあるまいと思って行ったが、とにもかくにも広大な敷地。
逆川が天然の外堀として城の大手門辺りを流れている。
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坂が続き、細い石段を回り込むように登ってやっと天守。
老人には辛い丘登り。息も絶え絶えであった。
大手門の番所から見上げれば、天守なんぞ、すぐそこ。
軽い軽いと思うのは素人の浅はかさ。
そう思わせて、簡単に寄せ付けないのが防御の策。
さすが一豊の城であった。
なにはともあれ、ひぃひぃいいつつ、天守に登れば、当然ながら掛川宿を一望。
通りすがりの何者をも見逃さないぞと言う意気込みがありありであった。
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しかも驚いたのは、城主の住まいである御殿が残っていること。
上の写真は、天守から見た御殿である。
実際には、1855年、安政の大地震で本丸御殿が崩壊したので二の丸に御殿を造り直したのだとか。
天守が残ることより御殿が残ると言うことの方が稀で貴重なのだそうな。
ふ〜む、ふむとただただ感心しつつ、天守からながめ、降りて御殿を回る。
しかし…
老人が一番驚いたのは、こんなことではない。
天守に登るべく建物に入ったら、なんと、忍者さんがいたのである。
日中、日の光の中では極度に目立つ黒装束で、気配も消さず、竹製の長いすに座ってニコニコ。
なにやら受付のおばちゃんとにこやかに会話。
我々にも愛想を振りまき、
「足元、気をつけて」
なんぞと言い、どうみても自分ちのように寛いでいた。
(忍者が、あんなことでいいのかっ!)
とは思ったが、背中の忍者刀も見えたので、黙っていた。
どうせ竹光ではあろうが、争いを好まない質なので、こちらもお愛想を振りまきながら天守に向かった。
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話を戻すと、城全体だけでなく、この城下町町全体が堀で囲まれた総構えのような作りだ。
門から出た辺りに代々の城主が建てたという傍示があり、その下に城全体が分かる絵図があった。
鳥瞰してみれば、掛川城は、地形をうまく利用して築かれ、街道を押さえるという重要な役目を十分に果たしていたのである。
ちなみに、この掛川城。
百名城の1つ高知城の天守(こちらは江戸時代のものが現存)と同じである。
それもそのはず…
関ヶ原の合戦後、一豊が土佐へ移封された際、掛川城の天守と全く同じように作ったとも、掛川城の天守を解体して持って行ったとも言われているのである。
いずれにしても あっぱれ掛川市民。
見事な天守再建である。
 
閑話休題
高知城に行ったときのこと。
今では日本でもほとんど見られない石垣積みのプロ集団穴太衆が仕事中だった。
滅多に見られない石垣積みの現場を見たのである 

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