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山形城攻めの日は、どしゃ降り。
「にんにん行く所、災いあり」のジンクス通りの旅。
ということで、周囲探索もままならない状態で、《おもひで写真》も少ない。
山形城は霞ヶ城あるいは霞城(かじょう)とも呼ばれている。
1600年、最上義光と直江兼続との戦いの折のことである。
山形領に進撃した直江兼続が富神山から指呼の間にあるはずの山形城を望んだが、霞が掛かって所在が知れなかった。
そのため、霞ヶ城と呼んだのだと伝えられている。
霞がかかって見えなかったのは直江さんの陣の方だったと思うのだが、「逆、また、真なり」である。
山形城が築かれたのは、南北朝時代。
1356年、出羽の南朝勢力を制圧すべく、出羽按察使として山形に入部した斯波兼頼の時と伝えられている。
一説には、古くからあった城を改修して本拠地としたも言われている。
それを考えると、もともとここは軍事的に重要な場所だったと言うことなのだろう。
以来、斯波氏は最上氏と称し、1622年まで山形城を居城とした。
お家騒動で名族最上氏が姿を消したあとは、鳥居氏が入り、再度、改修。
その後の基本となる縄張りを整えたと言われている。
鳥居氏の後は、保科、奥平、松平、秋元、堀田、水野と錚々たる譜代大名が城主となる。
そのめまぐるしさに、地元ではほとんどそれらの大名について語られず、山形城と言えば最上義光をあげ、次にはその祖である斯波兼頼の名をあげるのだそうな。
現在、山形城は霞城公園として整備されている。
我々の城攻めは2009年、3年前のことで、工事中。
まだ、トラ柵で囲われた所も多く、あちこちにブルーシートが掛かった状態だった。
しかし、高い石垣に土塁、深い濠など、二の丸の遺構は十分に残っている。
義光築城当時は、東西1.6キロ、南北1.5キロという全国有数の広大な規模だったという。
このとき行われた城下の町割りが、現在の山形市街の原形となっている。
山形城は扇状地に開かれた平城で、環郭式城郭である。
基本的には、土塁と水堀で固めた城ではあるが、虎口周りだけは石垣を築いている。
こうした造りの平城は、山形県内に多く見られるという。
さらに、最上氏の改修と鳥居氏の改修との間にも、プランの変更が見られ、近世城郭に求められるものの推移が見られるという。
詳細が分かれば興味も増すのだが、なにしろ嵐のごとき豪雨。
遺構を目にしながらも、カメラに納める余裕もない。
二の丸の堅牢な構えに感心だけして、撤退するしかなかったのである。
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山形県の史跡
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上山城とも、月岡城とも呼ばれている。
山形盆地の温泉町上山市にある城跡で、現在は月岡公園となっている。
町の中心部の高台にある上山城は、1528年、武永(衛)義忠の築城と伝えられる。
案内板では1535年とあり、色々な説があるようだが、大体、その頃だったと言うことだろう。
義忠は庄内の武藤氏の一族とも言われるが、最上氏の一族とも見られている。
この地を狙っていたのが最上義光である。
義光は、山形城以北に駒を進めつつ、南部の領国進出を強行していた。
この地がなぜ、そんなに欲しかったか。
地図で見ると、ここは出羽の国南部の米沢から一山越えた所にある。
もし、敵方が上山を突破してしまうと、そのまま平地続きで南北に延びる山形盆地内に攻め入ることができてしまう。
南の伊達と対峙する玄関口として、なんとしてでも押さえておきたい場所だった。
東西は高い山で守られているが故に、南北の守りには細心の注意をはらわなければならなかったのである。
ところで、当時の上山城主は、最上一族の上山満兼だった。
史料的には証明されてはいないが、伊達輝宗と手を結んでいたという説もある。
義光は、満兼の家臣里見越後・民部父子を懐柔し、満兼を暗殺させ、上山城を乗っ取った。
敵の家臣の裏切りを策すのは、当時、すでに義光の常套手段になっていたようだ。
ともかく、義光は、山形城南部の重要拠点を手に入れ、里見越後を城主に据えた。
最上氏改易後、上山城主は、松平(能見)氏、土岐氏、金森氏と続き、1697年からは松平(藤井)氏が代を重ねて明治維新を迎えた。
能見は三河、土岐・金森は美濃、飛騨辺りの出身。
どこへ行っても、愛知・岐阜は強いのである。
織田、豊臣、徳川の勢力広大なること恐るべし。
この模擬天守は、昭和に建てられたもの。
うそんこ天守閣ではあるが、上山市の人たちが城跡に寄せる思いの結実なのだろう。
本丸跡には月岡神社があった。
藤井松平氏の藩祖を祀って、明治10年に建てられたものだという。
境内に「土岐桜」なるものがあった。
まだ、細身の若木である。
さっそく携帯で撮り、ヨルダンにいる友人に送った。
友人は土岐氏の末裔。
こんな所に記念樹があるとメールしたら、驚いていた。
「そんなとこまで、うちの一族、行ってたんだね。何、やってたんだろう」
と訝しみながらも、帰国したら行くとの返事ではあった。
その頃には、もう少したくましく枝を張っているといいのだが…
植樹は平成12年。
代々城主の中でも、土岐氏の時に城郭・城下が整備されたと言う。
町の人たちの思いも、他の城主に対する思いと異なるものがあるのだろう。
名君として領民に慕われていたということもあって、平成の植樹につながったようだ。
ところで、上山市といってもピンと来ないかも知れないが、話題作「『おくり人』のロケ地となった所。
邦画にはとんと縁がないので、旅館の人に言われるまで知らなかった。
(言われても、分からなかったが…)
仲居さんは、我々一行の旅の目的がロケ地観光と思い込んでいたらしく、熱心に場所を教えてくれた。
念のため、その場所へ行ってみた。
確かにかわいらしく雰囲気のある家。
が、我々が感動したのは、そこから城がよく見えたことであった。
もうひとつ、上山市は田舎なれども文化の息吹燃える所。
歌人齋藤茂吉の出身地でもある。
ここも充実した記念館があり、お薦めの場所。
ちょいと短歌も詠う私でもあるので、非常に興味深かった。
が、何より感動なのは、齋藤茂吉氏は、我が祖父にそっくりなのである。
「おじぃちゃぁ〜〜ん」
と、心の声が叫ぶのを止めることができなかった……わけでもないが…
実は、この上山城の前に米沢城攻めを済ませている。
が、ジンクス通り、このときも豪雨。
写真がままならず、無念の城攻めに終わったのであった。
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