めぐるさかずき

藪の奥の朽ち果てた庵で、スルメを噛み噛み、過去の城めぐりを書き記す

東京都の史跡

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吉良氏の世田谷城を訪ねた後、これはバランスを取らねばなるまいと、泉岳寺に向かった。
泉岳寺は言わずと知れた浅野内匠頭と赤穂浪士の墓所である。
どちらかというと吉良贔屓に近いのだが、赤穂浪士達はある意味、松の廊下の犠牲者達でもある。
ねぎらってやらねばなるまい。
ということで、みぞれ混じりの中、泉岳寺に向かったのである。
例のおもちゃのような東急世田谷線に乗り、三軒茶屋から田園都市線に乗り換え、渋谷から山手線で品川までと大冒険。
5メートルだって歩くのはいやだと駄々をこねながらも電車旅を楽しんで、品川下車。
歩いても歩いても、ちっとも泉岳寺に着かない。
タクシーに乗ったら、
「ちょっと歩くのは無理な距離ですよ」
と、運転手さん。
という割にはすぐに泉岳寺に着いてしまった。
損した気分…
 
それはさておき、泉岳寺である。
なかなかな山門をくぐり、墓所に向かう。
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しかし墓所に入るまでには、浅野内匠頭自刃の石や、吉良上野介首洗いの井戸などおどろおどろである。
墓所には萱野三平を加えた48士の墓がある。その中で大石親子の墓は並んで建ち、覆いがかけられている。
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ところで、こんな風に弔って貰うことは、ほんとうに彼らの本意だっただろうか。
私は、そうは思わない。
だいいち彼らは、仇討ちの後、まさか切腹させられるなどと予想していなかったのではないか。
なぜなら、幕府から切腹の命が来てから、彼らは切腹の作法を教えて貰っているのである。
仇討ち後、主人の後を追って死ぬ覚悟なら、例え下級武士とは言え、すでに切腹の作法を知っており、練習もしてあったはずである。
それを知らない者が多かったということは、仇討ち後も生きていくつもりだったと言うことになるのではないだろうか。
もうひとつのヒントは、堀部安兵衛達過激派の行動である。
なんとか押さえようとする大石らの意に反して、堀部らは遮二無二、仇討ちへ突っ走ろうとしている。
単に短気でけんかっ早い男と言うわけにはいかない。
恐らく、堀部をはじめとする過激派の者は、仇討ちで名を上げることで新しい仕官の道を期待していたのではないか。
戦国の時代ならいざ知らず、時代が変わったことを読めなかった者達の勇み足にも思えるのである。
その証拠に、幾分でも時代と状況を知る者達は、仇討ちに加わっていない。行動したのは下級武士であり、一発逆転、ここで人生挽回をねらったのではないかと思われる人々である。
恐らく大石自身は、ある程度先が見えていたのではないだろうか。
何度も意思確認をし、堀部の勇み足を止めようと苦心していたことが感じられる。
それでも止めきれず、わが子を連れての討ち入りとなってしまった。
その心境を思うと、ほんとうに気の毒で仕方がない。
しかし、結局、一発逆転を狙った者たちは切腹させられ、時代を読んで節度のある行動を取った者は不忠義者として悲惨な人生を送ることになった。
どちらに転んでも、ご乱心浅野殿の犠牲者達だったと言うことである。
 
などと思いつつ冷え切った体を泉岳寺入り口の茶屋で温める。
老人の戯言にうなずきつつ、同行のウサコも一服、二服…
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たいへん、おいしく頂いたのでありました。                        合掌

怒りの世田谷城…

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豪徳寺で井伊氏の墓を見た後、世田谷城址を目指す。
世田谷城は名門吉良家の城だったが、小田原の役で逃亡、廃城になった。
豪徳寺周辺にあるフェンスの向こうは土塁らしく、うっそうと木が茂ってはいるものの、こんもりとした盛り土が見える。
落葉が腐葉土化していて、なかなか趣もある。
豪徳寺周辺から城址に向かう道は、きれいな新興住宅地。
洒落た家が建ち並んでいる。
道も舗装整備されて、昔の面影は無い。
かろうじて、アップダウンの坂や住宅奥に垣間見える曲がりくねった路地に、当時の様子を想像するだけ。
辿り着いた世田谷城は、工事中だった。
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あちこちブルーシートで覆われ、青年とおぼしき人が2名、土木作業をしていた。
三段程の小高い岡に登る。周りは堀跡らしく、丘を取り巻くように掘り込まれている。
今風のコンクリートの石垣が丘を支えているが、やや興ざめする。
掻き上げ土塁なので崩れやすく、安全のためにブロックを積むのは仕方がないのかもしれない。
と、ここまで譲歩しつつも心中は怒りに燃えていた。
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工事の青年達に罪はないが、とても史跡を意識してやっているようには見えない。
土塁をブルドーザーで削り、堀でも無さそうなところを掘り崩したりしていた。
周囲の状況も、盛り土は崩され、堀もあちこち掘り起こしたり穴を掘ってあったりで、元の地形がなし崩しに破壊されるのではないかという様相。
一体、どうしたいのかと思い、完成予想図の看板を見た。
工事の手順や土台固めの知識がないのでなんとも言えないのだが、小ぎれいな公園にするための工事と言うことだけは伝わる。
ため息をつきつつ坂を下る。
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そこから少し離れたところに世田谷八幡宮がある。
入り口に厳島神社があり、石段を登ると小高い丘の上に神殿がある。
源義家が勧請して祀ったといわれ、後、吉良家が再興した。
郷社の扱いとはいえ、かなり立派な神社である。
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境内脇には大きな土俵とスタジアム風観覧席があり、毎年秋には奉納相撲が行われるらしい。
ちょっとイケイケな次世代宮司さんらしき青年が社務所で御朱印札を売っていた。
古木の森の丘と広い境内。
この神社も、城の一部だったらしい。
これを持ってしても、世田谷城は豪徳寺を本丸とする広大な城だったことが分かる。
もともと世田谷周辺は縄文時代の貝塚や古墳群が残っている。
有力な豪族や王朝もあったのではないかと推測もされている。
しかし、世田谷区あるいは東京都は史跡保存にあまり熱心ではないようだ。
次々と新興住宅に趣を変えている。無念の極みである。
史跡の街として調査を進め、保存しながら観光にでも力を入れる方が街のためではないかという気がしたのだった。
現在の様子をネットなどで見たが、比較的保存状態がよいと書いているのもあれば、ほとんど跡が残っていないとの考察もある。
あの工事の様子を思い出すにつけ、徹底破壊の《めぐるさかずき》に見えたのは、夢かうつつか、という心境である。
同行の歴トモは、口直しの意味を込めて後日、両国の吉良家屋敷跡に行った。
当時、しごきによる弟子の死亡事件で騒動の渦中にあった時津風部屋の写メを送ってくれたのだった。
(もしかして、ほんとは八幡宮の土俵つながりだった?)
 
ということで、世田谷攻めのおもしろさ発見は、次回…

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