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現在は町中に建つ富山高岡城であるが、当時は背後が湿地帯に守られ、北国街道を遮断するように建っていた。
位置から見ても、加賀本藩を守る意味もあったことは明らかである。
二代目前田利長は、逝去するまで足かけ6年、ここを養老領の隠居城とした。
城は、馬出をいくつかつなげたような縄張りが特徴的で、富山城との類似性も見られるという。
一説に高山右近による縄張りともいわれるが、現在は疑問視されている。
この縄張り図でいうと上の方は湿地帯。
攻めるに難い地の利である。
築城は1609年であるから、すでに徳川幕府の御世。
とはいえ、まだ豊臣方は健在。
世は太平というまでにはなっていない。
しかし、2年後の1611年、利長は病から歩行困難となった。
大阪の陣を控え、大阪方へ助力を要請する使者が訪れる。
利長は関東方と大阪方との板挟みになるが、結局、息子の利常が関東方として戦場に赴いた。
1612年、利長は養老領の内10万石を金沢へ返し、従臣も減らして、自ら6万石とした。
その後、病状は悪化の一途を辿り、湯薬を断ったまま1614年、利長は息を引き取った。
翌1615年、一国一城令により、高岡城は未完成のまま廃城となった。
現在、建物の遺構はなく、わずかに石垣の一部と井戸が見られるだけ。
公園になってはいるが、縄張りは非常に良く保存されている。
平城のため、周囲は広い湿地帯を利用しての人工の堀で、本丸付近はやや高くなっている。
建築遺構は現存していないが、公園内本丸跡には射水神社があった。
この神社は越中一宮を名乗っているのだが、他にも3神社が一宮を自称している。
AKB48並の競争率なのである。
境内に組み相撲の像。
帰ってからネットで検索してみたら三国相撲とかあるらしいが、詳細は分からない。
園内はしっとりと落ち着いたおもむきがあり、なかなか雰囲気がよかった。
桜の名所にもなっているというが、花はなくても近所にあったら毎日ぶらぶら歩いてみたい所だった。
城攻めは夏だったので、耳鳴りと思えるほどのセミ時雨。
越中のセミは、声高なのであった。
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富山県の史跡
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