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ふたたび、姫路。
先回載せきれなかった写真を、公開。
まずは、姫路城の縄張りを、何とか読み取ろうとしてみる。
山陽道をねじ曲げてまでの守り。
なかなかに堅固ではある。
しかし、幕末までには兵器も進化。
まさかの砲弾が、背後から来たのだった。
先の世を読めなかったということだろうか。
めぐるさかずきの悲しさである
手前の黒い物体は、オバQではない(古い?)
もちろん、モリゾーでもない(知っているだろうか)
見知らぬ人のトレンディな髪型なので、気にせず見て欲しい。
大天守、小天守と並び立つ様子がよく分かるのではないかと思ってのアングル。
(裏に小天守がふたつ隠れておりますが…)
東に傾く姫路の城 花のお江戸が恋しいか
と言われたが、今でも沈下しつつあるように見えるのは、気のせいか…
下は、西の丸方向を写したもの。
すでに工事が始まっている。
それにしても怪しい形の山が見える。
(砦用に削っちゃった人がいるんじゃないかなぁ)
まん中と下の写真は、方角を忘れてしまったが、時間と影から南か東の方向を見たものだったような気がする。
いずれにしても、山陽道を下ってくる豊臣方を意識しての堅固な防衛の城であるが故か周囲を一望できる。
山が多いように思うが、意外に当時は山の間から海路も見えていたのではないだろうか。
さて、新幹線のホームから。
昔は、といっても20年ほど前になるが、それほど場所を選ばずとも、ホームから城がよく見えた。
現在は、高層の街に向かっている姫路の駅前である。
城を見るのは、ほんのすき間。
まして新幹線から見ようと思ったら、一瞬なのである。
さてさて、帰路。
花より団子、城より駅弁。
関西の人は鰻より穴子を好む傾向があるように思う。
なにはともあれ、幕の内弁当の発祥が、姫路とは知らなんだ。
ちょいと、うれしくて写真撮影。
自分がデジカメを買うまでは、料理なんぞを写す人を、冷めた目で見ていたのだが…
我が身も、めぐるさかずきなのであった。
余談ながら、姫路駅構内の本屋さん「bookstudio」がかけてくれるブックカバーは最高。(と、個人的に思う)
シンプルなデザインもさることながら、色合いは大好きなレンブラントブラウン。(…に近い)
手触りも他のカバーと一味違う。
ブックカバーコレクターで、時々自作もする私が言うのだから間違いない。
このカバーを手にしたいばかりに、姫路に行くたびに本を購入している。
ちなみにこのカバーの中身は、道尾秀介『向日葵の咲かない夏』。
密かなファンなのであった。(伊坂さん、ごめん…)
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兵庫県の史跡
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さて、姫路城である。
初めて姫路を訪れたのは、もう20年前になる。 初めて訪れたのに、街に一目惚れ。この街に住みたい、と思ったのだった。 それから10年ほどのブランクの後、思い立っては姫路に行くようになった。
城を見にというよりも、街の雰囲気に浸りたくて、と言う方が正しいかも知れない。 駅を出たまま大手前通りを直進すれば、そこはお城。両側の街路樹も美しいが、周囲を散策すれば煉瓦造りの美術館などがある。お城のある街のたたずまいが、しっとりと染みこんでいる。 しかし訪れるたびに、ここもめぐるさかずきなのであった。
城そのものは相変わらずの美しさであるが、街並みは急激に高層ビルの群居に変わっている。 無念のひと言につきる。 だが、行くたび街は白鷺城仕様に変化している。
汚水のマンホールまでが、白鷺である。
城までの道筋にも歴代城主の家紋入りシャチなどが陣取っている。
ところで、城は姫山に築かれている。
姫路の街を空から俯瞰した写真を見れば気づくことなのだが、どう見ても姫山は古墳群のひとつである。 実際、城の石垣には姫山などの古墳の石棺を利用したとある。 祟りというわけでもあるまいが、古墳の後に城を建てたので天守に長壁神社をまつってあると地元の人に聞いたことがある。あれこれネットで読むと微妙に違った説明になっているが、地元の人の話の方が真実味があるように思うのである。 さて、城である。
姫路城に感動したのは、「約400年前の城」という建物が伝える内部の作りであった。 戦いのための城や天守は残っていても、そこで生活していた人々の部屋が見られる城というのは珍しい。 何より素晴らしいと思ったのは西の丸である。 暗い廊下に並ぶのは、城で働く女性(女中)達の部屋である。 大きな杉戸は黒枠に赤い朱塗りの板がはめてあり、艶がある。 中は、何人かで共同だったのか結構な広さである。 こうした部屋を見られる城はほとんどない。 姫路城を語るとき、その美しさと防御の堅さが取り上げられることが多い。
しかし、姫路城の価値は、実はこうした城内の人々の生活の場がきちんと保存されていることにあるのではないかと思うのである。 従って、お薦めの城はと聞かれれば、姫路城もあげることが多い。 ただ、そのとき強調するのは、城の美としてでなく、天守を仰ぎながらなかなか到達できない防御の意味と、西の丸なのである。
ところで、大修理という情報で出かけたのだが、最初は 「一体、どこが」 という思いだった。
しかし、城内を回って驚いた。 そちこちと亀裂が入り、地震が来たらひとたまりもないだろうという状態。
いや、地震が来なくても自然落下で崩れ落ちそうだ。 その痛々しさに、胸のふさがる思いがした。 お勧め箇所の西の丸を天守の辺りから見たら、すでにブルーシートに包まれていた。 スカイタワーにも負けない工事現場を見るような思いで、姫路城をあとにしたのだった。 余談ながら、姫路にはじろりんさんの歌う「青春の城下町・白鷺城に見守られ」という歌がある。
一度聞いたら忘れられないメロディと歌詞、そして歌声。
そんなわけで、実は密かなマイブームとして口ずさむ日々なのである。
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天守保存修理で、しばらく見られなくなるとの情報で、姫路城に向かうことにした。
ついでに、赤穂も見ておこうということで、計画を進めた。
といっても、思いつきなので、立案は2009年大晦日前夜のことである。
前日までの天気予報は吹雪。
車で日帰りできないところでもないが、新幹線を奮発してみた。 2010年元旦、出発駅は快晴。
「大したことないんじゃないの?」 との期待を裏切り、数分もたたずに出発駅隣の町から猛吹雪。 姫路まで辿り着けるのかとの不安がふくらみ始めた。 常に旅に同行する長耳のウサコも不安げに窓の外を眺めている。 (ウサコの後ろ姿については、プロフィール画像参照) 不安を紛らす意味も込め、2010年最初の食事をする。
顎が外れそうなほど巨大なジャンボどら焼き。 私をイメージして購入してきたという同僚からのプレゼントである。
徐行運転を続け、関ヶ原から米原を過ぎる辺りから雪が止み、日が差してきた。 さて、姫路のホームで赤穂行きの電車を待つ。
公共交通機関に慣れていないので、どれが赤穂まで行くのか、掲示板を見ても判断できない。 無能だなぁ… (と、ウサコが呟いたような気がした)
おまけに雪は降っていないものの、かなり冷え込む。
ともかくローカル線でカタカタと山の中を走っていく。
前回来たときに、車で走り抜けた山並や谷川、集落の景色が時々見えた。 やっと着いた赤穂の駅は、どこもシャッターが降りている。
元日なのである。 かろうじて開いていたそば屋で早目の昼食。
テーブルに各種の塩のビンが並んでいる。 赤穂と吉良との塩産業の対立が刃傷事件の遠因と言うが、それぞれ製造法も品質も異なる。 しかも流通ルートも重なっているわけではない。
これが理由の1つというのは、すでに否定されている。
凡人は、それぞれのビンを手に取り、ちょいと嘗めてみるだけ。 食事を済ませ、いざ出陣。
NHKの大河ドラマのテーマが何となく耳元で流れる、といえば年代が分かるか… 町全体が忠臣蔵一色の風情に染められている。
そぞろ歩きをしたい雰囲気なのだが、寒くて仕方ないので、さくさく歩を進める。 城中の一大事を知らせるため早馬で赤穂に辿り着いた萱野三平が一服したという井戸や、道々忠臣らの紹介をしたプレートなどがある。
ほとんど駅から直進のところに堀があり、赤穂城の三の丸隅櫓が見えた。
三の丸大手門をくぐり城内を見て回る。 天守はないが中は整地されていて、なんとなく縄張りをうかがい知ることができる。 建物の間取りも平面で復元されていて、興味深い。 軍学に基づき理論的に建築されたという優れものの美しい城である。 今は埋め立てが進んでしまっているが、当時は海城だった。 瀬戸内海に突き出た白い城の姿は、さぞ美しいものだったろう。
もし、城主の乱心がなければ、名城として現代まで語り継がれていたかも知れない。 そもそも赤穂の浅野内匠頭の血筋はカッとしやすかったようだ。
元禄赤穂事件より以前に内匠頭の母方の叔父、内藤忠勝が増上寺で刃傷事件を起こし、乱心として切腹させられている。 また浅野内匠頭自身についても、もともとカンが強く、躁鬱気味だったといい、なにか障害を持っていたのではないかとの説もある。 不幸な人であったのかも知れない。 しかし、やりきれないのは家臣達である。 芝居や講談などでは美化されて語り継がれている“忠臣蔵”であるが、本当のところはどんなものだったのだろう。 仇討ちを完遂したかも知れないが、なんのメリットももたらされるものではない。 彼らが純粋に主君の仇討ちのためだけに、集結したとは思えない。 仇討ちの後の何に期待していたのか。 だが、仇討ちに参加した者たちは、家老色の大石内蔵助はともかく、ほとんどが身分の低い者たちばかりだ。 となると、殿中の事件について、どこまで正しく把握できていたかは疑問である。 自分たちの主君の性格も知らなかっただろうし、事後も一方的に処分されたと思い込んだとしても仕方ない。 一方、日頃、主君の言動を見ていた重臣達は、
「あぁ、やっちまったぁ」 と思ったのではないのか。 重臣のほとんどが仇討ちに参加していない理由も、案外、そこにあるのではないのか。 そして、城主乱心の事後処理の大変さは並大抵のことではなかっただろうから、仇討ちなど考えたりする余裕はなかっただろう。 などなど、忠臣達に思いを馳せる。
城門を出て、大石屋敷の門や近藤源八屋敷の長屋門などを見ながら大石神社に向かう。
胡散臭いほど新しい鳥居に驚く。明治になってから建て直されたという。 参道の両側には赤穂浪士の石像が建ち並んでいた。 元日と言うことで、参拝客も多い。 境内には義士みくじがあった。 「あなたは、四十七士のうちの○○です」 と、書いてあるユニークなおみくじである。 大石神社を後にしてお堀を回り、花岳寺へ向かう。
鳴らずの鐘など、町の人々の義士への思いを感じながら、中も見ようと思ったが有料のためやめた。 けち… (とウサコが呟いたような気がした) 花岳寺を出て、再び赤穂の駅に向かう。
赤穂の町は、元禄赤穂事件を中心に据えて、一生懸命、観光に力を入れているように見える。
全体が歴史の町並みを目指して整備され始めているらしく、きれいで新しい。 個人的には、赤穂浪士に心寄せているわけではないが、 「赤穂の町、がんばれ!」 と、心の中で叫んでいた。 姫路に向かうべく、赤穂線に乗る。
手動のスライディング・ドアで珍しい。 簡単に開閉できるのだが、重くて開けにくいふりをしたりして遊ぶ。 中のシルバーシートのカバーの模様は、席を譲るべき人々の絵が入っていてかわいらしい。
これなら座りやすく、ゆずりやすい、と感心。 さて、余談ながら赤穂城について調べたことを1つ…
なんとここでは、浅野家以前にも凄いことが起きていたのである。 池田輝興が城主のとき、突然、妻を殺すという事件が起きた。 輝興は本家に預けられ、城は備中松山城主水谷勝隆が預かり、幕府からの目付として津田政重が出張っていた。 その後、常陸笠間から城主として移ってきたのが浅野長直であった。 不穏なことが城主に起きる城、赤穂城なのであった。 恐るべし…
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