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城ブログのはずが、グルメと寺巡りシリーズになっている。
逡巡しつつも、これが山口の誇る瑠璃光寺となれば、省略するわけにも行かない。
ここの五重塔は、社会科資料集などにも写真が掲載されているのでご存じの方も多いかも知れない。
先回から何度も書いているが、この寺もまた雨の中だった。
しかし、さすが国宝。
雨に煙る風情も素晴らしく、思わず立ち止まり、見入ってしまった。
大内氏全盛の頃に建てられたこともあり、大内文化を伝える重要なものでもある。
創建は室町の頃。
醍醐寺、法隆寺と並んで日本三名塔にも数えられているらしい。
全体は和様であるが、二層目だけにある匂欄の四隅の柱が尖っている部分だけは、唐風なのだとか。
大陸とも貿易をしていた大内氏ならではの、ハイカラ建築だったのだろう。
境内は香山公園と呼ばれており、ここにも毛利家の墓所がある。
きれいな庭園であることは間違いがない。
しかし、興味は余計な所にばかり惹かれる。
閻魔様だの巨大しゃもじなど…
しょうもないものばかりにカメラが向く。
閻魔様の下の環を回せば、念仏の回数がおまけしてもらえるらしい。
あの世でお世話になるかも知れないので、一応、コンタクトを取り、顔つなぎしておく。
あちらこちらにありがたいお言葉。
無宗教ながら、まずは手を合わせ、ナムナムナム…
さらに、ここの名物(?)ウグイス張りの石畳の上で手を打ったら、確かに反響して聞こえた。
しかし、もっと驚いたのは、そこに横たわる蛇の死骸。
無言のまま、見なかったことにして
「くわばらくわばら…」
と、唱えながら、石段を下りた。
下りた後で、「くわばら」でなく「南無阿弥陀仏」と唱えるべきであったことに気づいた。
時既に遅し…
それがたたってか、この後向かった大内氏の高峰城は豪雨。
荒天の悪路にもめげず、山道をひた走る。
行くほどに道は狭まり、両側から背高の草や枝が道を阻むかのように襲いかかる。
雨は次第に激しくなり進むことも危険になってきた。
尾根伝いに広がる城跡を目前に、やむなく勇気ある撤退をせざるを得なかったのである。
つくづく雨にたたられた城攻めの旅であった。
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山口県の史跡
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ガイドブックや観光案内というと「萩・津和野」とひとくくりにされることが多い。
が、萩は山口県、津和野は島根県である。
そして、島根に行ったのは津和野城と安野光雅美術館見たさだけで、旅の中心は山口制覇にあった。
大内氏居城に向かう前に立ち寄ったのが、常栄寺。
ここは、雪舟庭園で有名である。
室町期、大内政弘が別荘として建てたものだが、後庭園は、一説に、雪舟が設計したと言われている。
雪舟と言えば子どもの頃、柱に縛り付けられたまま涙をインク代わりにして、足の指でネズミの絵を描いたことで有名。
画聖としてのイメージしかなかったが、庭園設計の才もお有りだったようだ。
どちらにしろ当時絵を描くのは、一種の修行であり、布教のようなもの。
宗教としての教えや仏教世界を伝える手段としての絵であり、庭園だったとすればなんの不思議もないのである。
ただ、造営年代を考えると、雪舟は70才にならんとする頃。
当時にしては、想像を絶する長生きである。
長く生きた分だけ、様々な世界も見えていたのかも知れない。
さて、なんの因果か大雨は止まず。
広い駐車場から、土砂降りの中、おもむきのある門に向かう。
悪天候ながら、さすが、有名どころ…
乗用車、バス、タクシーなどがいて、人も多かった。
下は、本堂後方の濡れ縁から真正面に見た庭園。
石の配置に世界が表現されている。
少し引いた角度から。
少し登って回り込み、小高い所から見下ろした心字池。
この奥に筆塚やお堂、ほこらなどがあった。
こちらが正面の庭。
左に見えるのが山門。
お寺自体は古く、傷みが目立ったが、古刹という感じで落ち着いた雰囲気。
が、グッタリして、気持ちも沈みがち。
雨の庭園で最高のはずなのだが、豪雨の合間の移動ですっかり疲れていた。
同行の士共々、濡れ縁に座り込み、しばらく動けなかったぐらいだ。
疲れるのは当然である。
悪天候の中、津和野からビュンビュン車を転がし、やっと辿り着いたのだから。
その豪雨たるや、かの有名な〈山口発津和野行き〉の蒸気機関車が、激しい雨で全く見えなかった…
といえば、そのすごさが分かるだろうか。
なにしろ、泥色に煙る雨は、ワイパーを最高に設定してもほとんど見えない状態である。
それでも、ビニール合羽に自分とカメラを包んだ鉄ちゃんとおぼしき方々が、途中、三脚を立てているのも見えた。
まさに、雨にも負けず、風にも負けず。
とはいえ、嵐もどきの風もあり、危険な感じだった。
こうして、嵐を呼ぶ体質全開の旅は、まだまだ続いたのである。
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かねて再訪したいと考えていた萩に向かったのは、一昨年の夏。
数十年ぶりの萩は、ずいぶんと垢抜けた町になっていた。
ここは、維新の原動力となった人々を多く、輩出している。
そのため、たびたびドラマやドキュメントでクローズアップされることも多い。
それにつれて、観光化が急激に進んだのだろう。
この日は山口から萩へ向かって北上。
中国山地を縦断してトンネルを抜けると、雪国…ではなく、維新の志士たちが迎えてくれた。
松蔭記念館に、立ち並ぶ銅像。
彼らも、江戸へ向かうときにはこの道を通ったのだろう。
現在はトンネルだが、当時は峠。
トンネル上の山を見上げて、大変だったろうと思いやった。
とはいえ、大志を抱いての旅だっただろうから、
「なんだ坂、こんな坂!」の勢いであったろう。
萩へ入って訪れたのは、大照院。
この寺の位置を地図で見ると、中国山地を抜けて萩に続く道の途中にある。
つまり、この寺は出城のような役目を果たしていたことが分かる。
どこの城下町に行っても気づくのは、城の周囲に寺社が多いこと。
いずれもいざとなったら砦としての役を果たしていたのである。
とりわけ、ここは幕府から警戒されていた藩だ。
いつ幕府が難癖をつけてつぶしに来るか分からない。
用心してもしたりないほどの準備を、秘かに進めていたに違いない。
さて、ここは、歴代藩主毛利家の墓所である。
それぞれに石の鳥居。
神仏習合、死後、神にでもなって三ツ矢の教えをあの世で語り合いでもしているのか。
ということで、あの世の会話…
「三ツ矢の教えってなんだ?」と、毛利さんちの息子達。
「いやぁ、どうも、お父上が我々三人を集め、三本の矢を用いて兄弟の結束を諭したらしいです」と、息子A。
「ってか、確かその頃には、俺はもう死んでたと思うんだけどなぁ…」と息子B。
「しかもそれが、400年後辺りには、うまい飲み物の名前になったらしいっす」と、息子C。
「蹴鞠の集団の名前にもなったらしいですぞ」と、家来D。
などと、あの世で言っているのかもしれない。
いずれにしろ毛利家は三人の息子を上手に使って、小早川、吉川を掌中に治めたのだから、なかなかの知恵者であったわけだ。
従って、墓所もこんなにおもむきがあり、思わず手を合わせる。
が、実はここを見学しながら、心の中には、墨汁をぶちまけたような暗雲が垂れ込めていた。
この寺に入るため、入場券を買おうとしてお金を忘れてきたことに気づいたのである。
旅は始まったばかりというのに、がっくり。
同行の若い衆の前で、うなだれ、告白。
道中の費えの支援を願ったのであった。
さて、大照院を出る。
大体、萩に入ったときから目に入っていたのが指月山。
島である。
↑この山頂が詰の丸
↓山麓の本丸。
奥の石垣が天守台跡である。
↓ 宿の部屋から見た指月山。
当時はもっと海が中に入り込んでいた。
現在は埋め立てが進み、陸部分が広くなっているが、それでもやっぱり島のようである。
見ての通り、日本海に突き出た半島状の島で、城として三方の守りは難い。
唯一、行けるのは萩の町から。
しかし、手前には松本川と橋本川があり、それ自体が既に堀のような役目を果たしている。
島に渡る道は、大手門側と菊ヶ浜の二カ所だけ。
しかし、いずれも厳しい枡形虎口。
「これじゃぁ、近づけないわなぁ」
と、やたら感心してしまった。
城郭は山麓の平城と山頂の山城から構成されていた。
本丸は五層の天守閣をもっていたらしいが、城楼部分は残されていない。
遺構としては、礎石、石垣、土塁、堀などが残されている。
関ヶ原の戦いで大阪方に付いた毛利氏は中国一円の太守から防長二州に削封された。
築城の候補地は、防府の桑山、山口の高嶺、萩の指月の三つ。
毛利氏の富強を望まない幕府が認めたのは山陰の寒村、萩だった。
1608年完成の後、260年にわたり、ここが毛利氏の本拠地となった。
幕末を迎え、国事処理には位置的に不便と言うことで藩府は山口に移された。
萩の政治的な意味での役目は終わったのである。
しかし、この地に自分たちを封じ込めた幕府に対して怨念を燃やし続けた執念が、倒幕のエネルギーになった。
それを考えると、「萩の月は美しい」などとのんきな気分に浸ってはいられない気もするのであった。
旅の軍資金もなかったしねぇ……涙
ただし、寸借の旅は、旅程中だけのこと。
帰宅してから、ちゃんと耳を揃えて返したので、今はきれいな体…
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