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八幡堀は、琵琶湖畔を埋め立て、計画的に掘削して作られた運河である。
この運河は、防御のための堀としての役目はもちろんのこと、物資運輸のための水路としての役目も果たした。
当時、交通幹線だった琵琶湖を往来する荷船は、全て八幡に寄港するようになったのである。
こうして琵琶湖と八幡堀が結ばれると、物資だけでなく人も情報も八幡城下に集約されるようになった。
さらに、楽市楽座制を実施したことで、城下は活気づいていった。
時代が下って昭和時代になると都市化などで汚染がすすみ、ヘドロや害虫の発生など、水路は荒廃していった。
駐車場や公園などへの改修要望の陳情も出されるようになったという。
が、青年会議所が中心となり、『堀は埋めた瞬間から後悔が始まる』を合い言葉に復元運動に取り組むことになる。
紆余曲折の末、八幡堀は現在のような姿に回復。
趣のある風景は、観光だけでなく時代劇の撮影の場として多くのロケに使われるようになった。
我らが同行の士は、幼子の頃より時代劇のファン。
テレビの前に正座して黄門様を拝顔し、母を母上と呼び、己を拙者と呼ぶ若者である。
いつか八幡堀を船で回りたいと、テレビの前で心を高ぶらせていたのだそうな。
ということで、この若者の強い要望により、我々は八幡堀巡りをすることに…
時代劇の川端のシーンのほとんどがここで撮られている。
ながめやる船外のあちこちに、テレビや映画で見たような風景が広がる。
そのためか、屋形船に揺られていると、懐かしい気分になってくる。
堀の端には、茶屋が見える。
緋毛氈のかかった縁台など見ると、ちょぃと立ち寄り、茶団子でも食べてみようかという気になる。
船から眺める八幡山城跡もなかなかのもの。
ここから登るのは大変だが、上から一望だろうと思うと、攻め手としてはためらってしまいそうだ。
それでも船で一回りして来ると、八丁堀の青山様のような気分になり、肩をいからせ、ちょいと気取って船を下りたのであった。
それにしても、この八幡堀を埋め立てず、改修、回復に努めた青年達の心意気に拍手を送りたい。
歴史ブームの今、彼らのお陰で街は活気を取り戻した。
それよりも素晴らしいことは、日本の大切な歴史遺産が守られたことだ。
推移する時の流れで、やむを得ず破壊され失われていった歴史の記録もある。
だが、ほんとうは、そうしたものを残すかどうかは人間の意志でどうにかなるものではないだろうか。
八幡堀巡りしながら、この堀を保存しようと尽力した街の人々に、心の中で拍手したのだった。
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滋賀県の史跡
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登り詰めたところは本丸跡。
もともと、この八幡山には六角氏の家臣伊庭氏の砦があったという。
その後、秀次がここに来て、山上にあった日牟禮八幡社を麓に下ろし、城を築いたのである。
ここには現在、村雲御所瑞龍寺が建っている。
本丸跡入り口の虎口部分の石垣には、権威を誇示するかのような巨石が使われている。
門をくぐり、傾斜の急な石段を登っていく。
この部分はかなり狭く、幾重にも直角に屈曲が繰り返されている。 狭い井戸の底から螺旋の階段を登っていくようなものだ。 防御する側から見れば、敵は穴底から登ってくる蟻の行列。
四方から八方から簡単に、矢と鉄砲玉の嵐でイチコロである。
この瑞龍寺は秀次の母が、子や孫の弔いのために開基した寺で、昭和時代に京都から移転された。
秀次の母・智(とも)は、秀吉の姉でもある。 智は、子どものいない弟に長男の秀次を養子として差し出した。 それなのに、弟は息子を切腹させ、その妻子も処刑、さらに夫も流刑にする。 智は弟によって、夫も子も嫁も孫も、一網打尽に奪われたことになる。 肉親ながら秀吉を恨むこともできず、唇を噛んで耐えたであろうことを思うと、胸が痛む。 それは、当時の女性の人生として考えれば、珍しいことではなかったかも知れない。
が、母としての人生は、覚悟の上とは言え、過酷で、まさに生き地獄…
救いと言えば、智だけが娘を通じて、木下家の血を残すことができたということ。
現在の皇族も含まれているらしいから、《尾張の三英傑(織田家、豊臣家、徳川家)、未だ亡びず》ということだろう。
とはいえ、哀れすぎる秀次の母…
彼女の悲しみに思いを馳せながら御朱印を頂く。
それにしても、この本丸の敷地の狭さはなんじゃ、と驚く。
多数の軍を敷くには、ちょっと手狭だったのではないか。
天下の要害と謂われながら、何度も落城している岐阜城とまでは行かないまでも、狭い。
戦いの舞台になっていたら、案外、簡単に落城しちゃってただろうな…
とはいえ、さすがに本丸跡からの眺望は最高で、城下町が一望。 秀次が家臣の力を借りながら作り上げた城下町の面影が、今も、整然とした姿で残されている。
東西を内湖に囲まれたこの城下町は、運河の町でもある。
ここから見下ろしながら秀次も、近江を手中に治めた気持ちにもなっただろう。 つかの間の夢に終わってしまったけれど… ぐるり散策していると、まだ真新しいきんきらきんの金生稲荷が、虎口を登り詰めた脇にあった。
豊臣好みを感じて苦笑しつつ、本丸から撤退。
いつからあるものか分からないが、こんなところにない方がいいのではと、城攻め部隊一同意見の一致。
なんだかアヤシイ新興宗教の匂いがしたが、もしかするとほんとは由緒あるものかも知れない。
もしそうなら、お狐さん、ごめんなさい。
豊臣秀次、豊臣秀次、豊臣秀次…という赤い幟に従って石段を下り、門をくり、再び、けもの道へ。
下ってくると、二の丸跡はロープウェイの駅脇にあった。
こんな風になし崩しに駅なんて作っちゃって…
とは思ったが、これも町起こしなら仕方ないのかもしれない。
近代的建築物のステーションに興ざめしたものの、中の涼しさには感謝。
真夏の城攻めの後だけに、近代兵器のエアコンは救いの神である。
売店のおばちゃんもいい人で、思わず、飲みつけないコーラなど購入。
さらに発掘調査をまとめた発行間もないパンフレットも買う。
近江八幡は、この城だけがメインではない。
銅鐸がたくさん発見された野洲なども近く、先史からの未知の歴史がまだまだ眠っていそうな所だ。
近江は深いなあと、感心しきりで山を下りたのだった。
そしていよいよ八幡堀へ…
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いよいよ、八幡山城登城。
ここは、羽柴秀次の城である。
歴史には多くの過小評価されている人物がいるのだが、秀次も、その一人ではないだろうか。
戦いの記録を見ても、敗戦は長久手のときだけで、あとの戦には勝利している。
そもそも、子どものいない秀吉が、自分の跡継ぎにとまで考えた甥なのだから、少なくとも出来損ないだったとは思えない。
察するに、秀次は、秀吉とは全く違ったタイプの風流人、教養人だったようだ。
最初に養子に出された三好家で育つうちに身についたものである。
実際、文化・学問の保護や存続に理解を示し、後押しもしている。
皇室や公家達との交流のパイプにもなっていたわけだから、本物だったのだろう。
その質は、恐らく石田三成や明智光秀に近いものだったのではないだろうか。
そのまま行けば、秀次は秀吉の自慢の跡取り息子になるはずだった。
しかし、秀吉に子どもが産まれたことで運命は一変。
もし、秀頼さえ生まれていなければ、運命は真逆に流れていたに違いない。
突然、蟄居を命じられ、ほどなく切腹と言い渡されるまでの秀次の心境を考えると察するに余りある。
20代半ばという年齢を思ってみても、納得できない悔しさ、憎悪があっただろう。
共に処刑された側室や子どもの数などから、秀次は、あたかも色情狂だったかのようにも言われている。
しかし、当時の武将達なら、そう珍しい数でもない。
切腹の正当な理由付けをするために、意図的に悪評を流したものと思われる。
恐るべきは、秀次の跡継ぎの根絶やしを謀った秀吉の思いこみである。
百姓から天下人となるまでの彼のヒストリーは、尊敬に値する。
が、晩年の秀吉の言動は、どう考えても普通ではない。
日本の歴史に禍根を残した朝鮮出兵と言い、この秀次の事件といい、常軌を逸している。
結局、秀次の処分により秀吉は自ら、豊臣家の血を根絶やしにした。
もし、そうせずにいたら、もしかしたら、関ヶ原対戦の両軍メンバーも違っていたかも知れない。
実は、秀吉のようにせっかく政権を握りながら、後継者を守るために同じように自らの血を根絶やしし、部下の忠義に期待して亡びた家がある。
源氏である。
頼朝も自分の子ども達の権力を守るため、次々と血のつながった者たちを殺していった。
その結果、妻方の親族に滅ばされてしまうのである。
こうした史実を秀吉は知っていたかどうか知らないが、もし、秀次を殺さなかったら…
それでもやっぱり、権力の座を狙う秀次に秀頼は殺されていたのか。
それとも、傀儡政権ながら秀頼を立てて豊臣幕府ができていたのか…
歴史に「もし」は禁物とは言うが、色々な可能性を考えてみるのも一興である。
さて、八幡山城。
めまいがするほど石垣の崩れた山城。
道幅も狭く、けもの道状態。
とはいえ、曲輪や切り岸、虎口などの跡は残っており、礎石も露出しているところもある。
隅部分は算木積みのしっかりした石垣で、傾斜はあまりないもののその高さには威力を感じる。
しかし、他の斜面に当たる部分の多くは、石垣を組むと言うより石をペタペタ乗せていっただけのような状態になっている。
恐らく、土砂崩れによる崩落の名残だろう。 史跡保護のため、市も努力しているようではあるが、崩落面が多く、かろうじて残っているところも、いつ崩れてくるか分からない状態なのである。 攻め手の目から見れば、石垣のずれている部分に手足をかければすいすい登って行けそうだ。
が、1つでも石が崩れたら一気にガラガラと崩壊しそうで恐ろしい。 とはいえ、山城跡などというものは、こんなものだ。 びびっていては、城攻めはできない。 けもの道のような道をさらに進むと西の丸跡に出た。
上の写真の右にある長命寺にも砦があった。
また、左の小山は水茎岡山城跡。
下の写真で見ると、中央にある小山である。
開けた展望台になっているが、建物跡と思われる礎石が露出している。
ここからは琵琶湖方面が見渡せるのだが、開けた田も当時は湖。 周囲の小高いところは、とにかく砦や城として利用されていたのである。
西の丸から下り方面に、出丸方向の矢印もある。
暗がりで不気味ではあるが行ってみる。
草ボウボウなれど、こぢんまりとした出丸跡。
が、なんと、そちらこちらに「スズメバチ注意」の看板が立っているではないか。
その上、足元を見ると、ミミズの死骸に大きい蜂たちが群がっている… 確か、「蜂は黒いものに反応する」という蘊蓄が脳裏をよぎる。 で、ふと、我が身を省みると…頭に日よけの黒い帽子、 同行の若者は黒いシャツ… こりゃたまらんと、とっとと立ち上がり、北の丸跡へ向かう。 北の丸もやや広い展望スポットになっているが、礎石がある。
ここからは、ほとんど真正面に安土山と観音寺城のあった繖山(きぬがさやま)が見える。
互いに見える位置にあるということは、安土城時代から既に、この八幡山に城を築こうという思惑があったに違いない。
さて、登り詰めると本丸跡であるが、それについては 次回……
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温泉卓球にエネルギーを使い果たし、健やかな睡眠で翌日は目が覚めた。
窓から見える琵琶湖。
早くからカッター練習をしている。
通過した町がいずれも豪雨による冠水、土砂崩れの被害にあったというニュースを聞きながら、翌日、向かったのは近江八幡山城である。
琵琶湖に沿って続くさざなみ街道を北上。
数年前までは、まだ、全線開通していなかったような気がするが、道幅は広く快適だ。
そして、我々が走る車線に沿って、当然だがサイクリングロードが続いている。
すいすいペダルを漕いだら、さぞかし気分爽快に違いない……と、おもいきや…
サイクリング専用道路は、草ボウボウ。
枯れかかった夏草は丈高く、危なさそう。
何人か走る若者の姿もあったが、草に阻まれれば、ストップして車線に下りてくる。
この道の管理者が誰かは知らないが、ちょっと考えないといけないのではないか。
などと案じていると、こちらの運転も危ないことになる。
人の心配より、自分の心配、である。
幸い曇天ながら、前日のような豪雨の気配は、あまり見られない。
まずは、八幡山城麓の日牟禮八幡宮に到着。
萬燈祭が近いということで、この見事なまでの提灯…
夜になって灯が入れば、幽玄なまでの美しさだろうと想像する。
ここの歴史は古く、伝承に寄れば131年草創とか。
「さすがのにんにんも、生まれていないぞ……」
などと言いつつ境内を散策。
いくつかの神が合祀されてはいるのだが、境内奥の薄暗がりの中に 『津島社』 を見つけた。
津島社の祭神は牛頭天王。
総社は尾張国津島にある津島神社。
信長生誕地の隣町にあり、夏の津島天王祭りは尾張三大祭りにも挙げられる幽玄華麗な祭りである。
神社の紋は織田家と同じ木瓜。
信長も秀吉も手篤く保護し、津島天王祭りを楽しんだとも伝えられている。
よもや、ここで津島社を見るとは…
と感慨深く、一方で、やはり織田、豊臣と尾張出身の一族には因縁深い地なのだと改めて思ったのである。
考えてみれば織田家はもともと、越前にある織田神社の神官だったとも伝えられている。
尾張に行く前から、どこかで津島社と繋がっていたのかも知れない。
が、ここに津島社があるのは信長の仕業でないだろう。
豊臣家の体質の方が、ずっと土着の信仰を新天地に持っていきそうな気がするからだ。
さて、そんな自問自答をしながら境内をぶらついていると、リアルな虎の乗った織田木瓜の朱盃を見つけた。
由来は左義長祭り。
『信長記』によれば、信長は、安土城下で毎年正月に左義長祭りを盛大に行っていたとか。
その際、信長自身も異粧華美な姿で躍り出たと書かれているのだそうだ。
信長が亡びた後、豊臣秀次が八幡山城を築き、安土からこの地へ人々を移住させた。
そうした人々が八幡宮を氏神とし、ここでも同じようにこうした祭礼を奉納することになったのだという。
記録に寄れば信長は、お盆に城下で火をたくことを禁じ、安土城の天守のみを無数の提灯で飾らせたという。
つまり、信長は日本で最初に城のライトアップをした人、ということになろうか。
この境内の赤い提灯を見ると、なんとなく信長の求めた 『美』 がわかるような気がする。
それはさておき、この八幡宮駐車場から近江八幡山城を見上げると、こんな感じなのである。
標高約283メートルというが、それ以上に高そうな気がする。
真下から見上げると急峻で、ちょっとひるむ。
なにしろ高所恐怖症。
それなのに同行の若者達はご機嫌で、ロープウェイに乗ろうという。
(ひ〜〜〜〜〜)
悲鳴を心の中で上げ、平気なふりで搭乗。
南に広がる城下町は、整然として碁盤の目のようだ。
安土城下町を移住させ、秀次が丹精込めて築いた町である。
築城当時、平地が広がっていたのはこの町の広がる南部だけで、東西は湖だった。
下は、東寄りに撮した眺め。
内湖と呼ばれる湖が点在。
湖はつながっていて、水面は、もっと広がっていたのではないだろうか
むこう中央にやや小高く見えるのが、観音寺城。
その手前の細長く低い山があるが、そこが安土城のあったところである。
分かりにくいが、色が少し黒いので区別できる…はず…
湖が麓まで迫っているように見える。
当時は、ほんとうに湖に囲まれ、水の中に浮かんでいるように見えたという。
そして、下はやや西方向を撮したもの。
小さい山の向こうは緑の平地だが、低地利用の田のようにも見える。
その向こうはすでに琵琶湖だから、もともとはここも湖だったのかも知れない。
そう思って眺めてみると、八幡山城は、湖に浮かぶ水城の様相を呈していたのかも知れないと、想像がふくらむ。
水が豊かなら軍事的にも有利だが、運輸も便利。
近江商人発祥の地となった理由の一つに、それもあったのではないかと考える。
さて、いよいよロープウェイを下りて、城攻めである。
一目で厳しさの伝わるこの石垣…
急峻はともかく、崩れそうな石積み…
ほら……
思わずめまいがして、カメラのピントがぶれちゃうほど……
ということで、八幡山城については、次回。
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一宿一飯の城から一転、過去へタイムスリップするべく信楽に向かった。
信楽と言えばたぬきさん。
紫香楽と言えば、都である。
同一の場所を示し、同一の発音をするのに、なんと字面で印象の違うことか……
もともと、「しがらき」の表記は、信楽だったようだ。
紫香楽という表記が出てくるのは「続日本紀」。
その後、この宮は、甲賀寺建立の意図もあって、「甲賀宮」と呼ばれていたらしい。
しかい、当時、実際に使われていなかったとしても「紫香楽」という表記は、美しい、と思う。
数年前に訪れた時、ミツバツツジの花が咲いていた。
うす紫の可憐な花が、紫香楽という名前となんとなくマッチして、感嘆したものだ。
花談義はさておき、紫香楽宮…いや、信楽宮…について書こう。
ここは聖武天皇が離宮とするべく造営した場所である。 これに先立って天皇は恭仁京を信楽南西部にある木津川に造営している。
離宮としての信楽にはしばしば行幸しているが、その後、この地に盧舎那仏を造営しようと発願する。
どうやら恭仁京と信楽との関係を、洛陽と龍門石窟との関係に見立て、同じように盧舎那仏を造ろうと考えたようだ。
当時、いわゆる都とされる地は、平城京、難波宮、恭仁京、信楽宮とあった。
信楽宮はやがて、甲賀宮と呼ばれるようになっていく。
聖武天皇は、これらを順に遷都していった印象を受けるが、どうやら実情は少しちがっているようだ。
現在、都=宮というと、一カ所しか定めなかったように思われるが、古代の日本では唐に習って複都制が採用されていたという。
孝徳天皇や天智天皇がそれぞれ難波宮や近江大津宮に移ったときにも、飛鳥京は保存されていた。天武天皇も同様である。
そして、聖武天皇も難波と恭仁という二都の意識があったのではないかと考えられている。
しかし、ここで注目すべきは、聖武天皇の人生である。
まるでエンタメ系ハードボイルド&ミステリィ小説のように、苦悩と恐怖、悲哀に満ちている。
まず、7才で父を失い、生母は精神的な病から、30才を過ぎるまで会うことができなかった。
頼るべき父方と母方の親族は、勢力争いと駆け引きに明け暮れていて、彼を利用することしか考えていない。
そして、それに伴う不可思議な死や騒動が身辺で連続して起きる。
しかも、災害や疫病といった見えない悪魔の手による不可抗力な不幸が頻発。
哀れな天皇に心の休まるひまはなく、心はずたずた、神経がぼろぼろになっていく、。
しかも、母親も精神的な病を得ていたと言うから、もともと天皇自身も神経が太いとは言えない。
すがる思いで仏の力を借り、この苦しみから逃れたいと思ったとしても無理がないではないか。
うちひしがれた者が苦しみから逃れるために取る最初の手段は、逃げること。
魔物のはびこる場から、まずは離れ、新天地でゼロからやることが最良の手段。
ということで、都を移動。
遷都と言わず、離宮と呼んでいるところにもなんとなく、その気持ちが伝わって来るではないか。
こうしてみると、この都の移動、実は身内の陰謀から逃れつつ牽制し、一時的にしろ疫病から避難すると言う意味では成功だ。
しかし、実はこうした連続新都造営は財政を圧迫。
実は、信楽宮造営の間にも難波と恭仁京造営を継続していたのだから、大変だ。
まず、恭仁京造営を中断したものの、難波宮を都として工事を進めながら、信楽造営も継続。
こうした中、聖武天皇発願の甲賀寺建設と盧舎那仏造営で、信楽は大いに栄えていく。
信楽宮は次第に甲賀宮と呼ばれるようになっていく。
745年、正月にはこの地で祝宴が盛大に行われ、宮殿の門前に建てるのが習わしだった大きな槍と盾が建てられ、「新京」と呼ばれるようになった。
信楽は、まさに新しい都となったのだ。
だが、4月に入ると山火事が連発。
臣民の反発も多く、結局、平城京へ都は戻され、甲賀寺盧舎那仏造営計画も平城京へと移されてしまった。
後には造営途中の工事の跡が残るばかり。
とはいえ、遺構の状態はかなりいい。
参道とおぼしき緩やかな坂を登り、石段を登っていくと、広大な寺院跡に出る。
大きな礎石は300を超え、建物の規模や配置がよく分かる。
周囲は森と言うにはややまばらな林。
雨上がりのせいか、足下の草地は、まるで湿地帯のようだ。
だが、経堂、中門、講堂、金堂、鐘楼、僧坊等々、その礎石を見て回るだけでも敷地の広さに驚く。
入り口に、CGで再現した図があったが、美しさは推して知るべし。
上から三枚目の写真の右下に、その再現想像図がある。
当時は遠くからもよく見え、その色彩の美しさは、極楽を象徴するようなものだったろう。
(甲賀市教育委員会のサイト「古代の都 紫香楽宮」にある「ヴァーチャル散策甲賀寺」のCGは、よくできていて感動する。興味のある方は、御覧あれ。)
ところで、我々が訪れたところは甲賀寺跡あるいは近江国国分寺跡と見られている。
実際に信楽宮があったところは、ここから北2キロメートルの宮町遺跡ではないかと言われている。
いずれにしろ甲賀寺は奈良東大寺に先駆けて盧舎那仏造営に取りかかったところである。
上から三枚目の写真に、甲賀寺と東大寺とを比較した図がある。
規模的には東大寺に及ばないものの、当時としては最高のものを建てようとしていたことがよく分かる。
そして、都といえば、こうした寺院を含めた大規模な区画を言う。
とすれば、信楽宮造営は、甲賀寺跡も宮町遺跡も含めた、信楽の街全体に渡る大都市計画だったことが分かる。
今は長閑な里山のような遺跡地区。
1300年以上も前に思いを馳せてみても、賑やかな古代都市を想像することは難しい。
世が世ならの2045年に紫香楽宮遷都記念行事がここで行われていたのかも知れないのである。
「なんとりっぱな平城京」から1300年後の2010年、大々的に行われた平城京遷都記念行事のように…。
そして、「奈良の大仏」という代わりに「信楽の大仏」と呼び、古都として繁栄している奈良のように、この静かな山間の地が一大観光地になっていたのかも知れないのである。
思えば、こうした古代遺跡の方が、石垣や堀に囲まれた城跡より、ずっとずっと「めぐる さかずき」なのであった
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