めぐるさかずき

藪の奥の朽ち果てた庵で、スルメを噛み噛み、過去の城めぐりを書き記す

奈良県の史跡

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

全1ページ

[1]

柳生の里(後編)

柳生の寺、芳徳寺がいかに砦らしかったか、周囲の様子を見せないと分からないかと思う。
この山道と傾斜を見たら、いかに険しい山城だったか分かるのではないか。
こうした山間の道を駆けのぼり飛び回れば、自然に身体能力が上がり、忍者もどきの動きが身についたのではないかと思われるのである。
イメージ 1
 
 
イメージ 2
 
一度は廃寺状態だった芳徳寺だが、再興してこんなに立派な柳生一族の墓所に整備した。
とはいえ、寺の裏手へ行く道も、結構厳しいのである。
道なのか獣道なのか…おっとっと、と言いつつ墓所へ向かった。
どう見ても人工的な地形である。
そこに葉が落ち、朽ちて積もったという感じで、敵を嵌めようとしてるようにしか見えない。
(拙者を嵌めてどうするつもりだと、独り言…)
イメージ 3
 
イメージ 4
上が上泉信綱の供養塔である。
 
イメージ 5
 そして、上がかの有名な柳生十兵衛さんのお墓。正式名称が三厳(みつよし)さんとは、ご存知だったろうか。
そういえば、彼の役を「八丁堀の七人」の青山様こと村上弘明が演じたこともあったなぁ、なんて思いを馳せた。
 
イメージ 6
 これが、美形として名を馳せた友矩さん。
家光の小姓ではあるが、そこはそれ…という関係だったのである。
 
ところで、この寺への脇道を登ると天石立神社がある。
行く道は傾斜が厳しく、転落するんじゃないか、死ぬんじゃないかという思い…
しかも、あそこが社殿と見えてなかなか近づけない。
ぐるぐる回り道させられる。
本殿はなく、岩がごろごろ。
磐坐信仰であろうか。
そばには、宗厳が一刀のもとに切り割ったという巨岩がある。
周囲を見れば、明らかに土塁。
ここも柳生の山城の一部だろうと想像される。
 
また芳徳寺の山門下には柳生新陰流正木坂道場があった。
合宿でもしているらしく、凜とした声が聞こえていた。
今からでも間に合うなら、
「頼もう!」
と、入門したい気分なのである。
 
とにかく、ものすごく暑い日だった。
下の駐車場の自販機で買った三ツ矢サイダーが美味で、感激した。
柳生の里に下りると、柳生小学校、柳生中学校という名の学校があった。
ここの子達は、その気になれば秘めたDNAを発揮して、将来、オリンピック選手になれるだろうな、なんて思ったのだった。
 

柳生の里(前編)

子どもの頃、なりたかったのは忍者。
人に知られては清く正しいスパイとしての忍者ではない。ということで、密かに修業していた。
まず、気配を消す練習。
存在しながら存在を消すのである。おとなしい子どもだったので、きっとこれは成功していたはず。
もちろん、自称ではあるが w
もうひとつの修業は、息を長く止めること。
これが何の役に立つかというと、敵に見つかったとき死んだまねができる。
敵が倒れている有能な忍者(もちろん私のこと)を発見。
生きているか息を窺いに来る。
長時間無呼吸になれた有能な忍者は、じっと死んだ真似。
「おい、これ、死んでるよ」
「じゃ、ほっとこう」
というわけで、助かっちゃう、はず。
最後は、水面を歩く練習。
左足が沈む前に右足を進める、と理屈は簡単である。
が、言うは易く行うは難し。温泉に連れて行ってもらう度、密かに練習したが難しかった。むしろ、水中に長く沈む練習の方が簡単だったような…(熱いけど)
という前振りはさておいて、柳生の里である。
忍者の里と言えば、伊賀、甲賀、そして柳生である。雑賀や根来も忍びの里として匂うがまず置いておく。
まずはメインの伊賀・甲賀・根来は征服済みなので、いつかは柳生へと考えていた。
そしてある朝、いつものごとく、思い立って柳生に向かう。
今日中に行けるかなぁと思いながら、伊賀を抜けて月ヶ瀬。
梅の名所だが夏場だったので花は見えず。それでもなかなかの景色。
深い山に点在する集落は四国の山間にも似て、平家の落人部落を思わせる。
山をいくつも抜けたところで土地が開ける。
 
柳生の里である。 まるで隠れ里の態。
いまでこそ気候も温暖化で楽になり、自動車社会になって便利になったが、当時は忘れられた里だったのだろうという印象を受けた。
ともかく昔は水運が主要の交通手段である。
現代人の私は車で川に沿って登っていったが、昔の川上りを考慮してもやはり隠れ里という感じだ。
実際、柳生家は秀吉に隠田を指摘され、一旦落ちぶれかけた後、柳生宗矩以降、剣のおかげで再興した。
一介の剣豪から大名にまで出世したのは柳生家だけらしい。
間者としての働きしか要求されず、使い捨てられるところをうまく剣で立ち直ったのである。
まさに芸は身を助く。
さて、柳生の里に着き、芳徳寺を目指す。
古い山道と石段を登っていく。
砦としての山道らしく寺への道は案外険しく、周囲は切岸の急斜面。
 
登り詰めると眼下に柳生の里が見える。
石舟齋塁城の跡の石碑が柳生街道を見下ろすように建っていた。
水路、街道、登り斜面の勾配を思うと、剣豪一族の城とも思えぬ守りの堅さなのである。
イメージ 1
 
イメージ 3
そして、向かいには笠置山。
柳生の家紋は坂崎直盛からの頂き物とはいうが、ここから来ているのかとも思う。
武士として(あるいは忍びとして)身を隠し、身を守る意味の笠なのか、
単純に山の名前から取ったのかは定かではない。
もう一つの紋は「地楡(吾亦紅)に雀」。じっと見ていると、蝶紋にも似ているなぁと思うのである。
蝶紋といえば、そう、平家である。
で、先に受けた印象「平家の落人部落に似ている」が重なってくる。
海路を頼って瀬戸内海へ逃れた平家一族の一部が和歌浦辺りから遡って柳生まで来た、なんてことはないのだろうか。
柳生は菅原の系統というが、菅原の紋を使用していないところが臭い。
その一方で、吾亦紅は止血剤として効用があったからという話もある。
血を止める草は武士の必須アイテムだから、なるほどとも思う。
また、バラ科の吾亦紅の中では、地面色した雀は敵から身を守ることができたからかなぁとも思う。
そんな雑念と共に芳徳寺の裏手に回って柳生一族の墓所に向かう。
江戸柳生は幕府にすり寄って長らえたが、一説に尾張柳生家の方が強く、経済的にもよかったらしい。
尾張柳生は廃仏毀釈後、荒れ果てていたこの寺を再興したという。
それがなければ柳生の里は荒れたまま、墓所もどうなっていたことやら。
ということで、敬意を表して写真を撮っておく。
イメージ 2
さて、次は剣豪の話である。
剣の系譜を語れば熱くなる。
陰流の始祖は愛洲久忠。その教えを受け継いだのは上泉信綱。
(久忠の子ではないかとの説もあるが違うと思う)。
その上泉信綱から新陰流を伝授されたのが柳生宗矩の父、柳生宗厳である。
愛洲は伊勢の出身。
上泉は上野国出身だが上泉伊勢守と呼ばれ、柳生は大和の人。
芳徳寺の墓所には上泉の供養塔もある。
みんな近畿に集合である。
そういうわけで、剣豪の祖愛洲氏に敬意を表して以前、五カ所まで行ってきた。
それについては、またの機会に…
 
それはさておき、次回はここで載せ損ねた写真を多少、掲載。

全1ページ

[1]


[PR]お得情報

CMで話題のふるさと納税サイトさとふる
毎日お礼品ランキング更新中!
2019年のふるさと納税は≪12/31まで≫

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事