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明治20年代から大正にかけて、在来・地方産業の振興をめざして、 全国各郡、町、村で、現状を調査して将来目標を定め、そのための施策を纏めたものです。
国是は本来地域に根差した Tableau economique であるべきだという自らの意図を容れられず野に下った農商務省次官前田正名が、 在来・地方産業の振興を目指し地域社会からそれぞれの「郡是」「町是」「村是」を編成する運動を提唱、 これに呼応して各地で郡是や町村是が作成されました。
1896年、{【郡発展の礎・郡の方針】になるようにということで会社の名前を【郡是】とした}ということで、
{郡是製絲(最初から【地域産業を振興し、地域を活性化しよう】というソーシャル・ビジネス的な要素の極めて強い性格を持っていた)}という{生糸メーカー}として創業した{グンゼ}、
だが1900年代初めに化学繊維のレーヨンが爆発的に普及すると、生糸は壊滅的な打撃を受ける、ここから生き残りをかけた{新規事業の開拓}が始まった。
その結果、{生糸メーカーグンゼ}はやがて{肌着メーカー}となり、更には{ペットボトル}や{食品の包装フィルム}の他、{タッチパネル用のフィルム}更には{体内で溶ける医療用の糸}といった最先端技術まで手掛けているのだ。
社長の児玉 和は語る。「現状への安住は、後退を意味する」。
波多野鶴吉.jpg ★{創業者波多野鶴吉}は、 安政5年(1858年)丹波国何鹿郡(いかるがぐん)綾部村(現京都府綾部市)の住人羽室嘉衛門の次男として誕生し、
8歳で上林郷馬場村(現京都府綾部市)の{波多野弥左衛門の養子}になったが、学問を身に付けようと再び羽室家に戻り、栗村の{広胖堂}に学び、
翌慶応3年には高津村の{明倫堂}に学んだようであります。
その後上林郷に戻り{石井半蔵(旧領主藤懸家の国代官)}に{漢籍}を学び、{古川守衛(藤懸家の儒学者)}からは{論語や十八史略}等を学びました。
明治8年(1875)、17歳の時、京都中学に入学し数学を専攻したのでありますが、当時の教科書は英書の直訳で難解であったので原書を解読するために大阪英語学校に入学した。
その翌年、明治9年(1876)、18歳で波多野家の娘{葉那(はな)}と結婚するも、同年9月向学の志に燃える{波多野鶴吉}は再び京都中学に戻り同年12月まで就学し、その後自習独学の末、明治11年(1878)20歳、版権免許を取得する(当時烏丸四条下るに借宅を構えていた)と、『啓蒙方程式』なるものを処女出版したのであります。
その後も、書店をしたり、数理探求義塾と云う塾を開いたり、製塩事業等を始めたりしてみたがその全てが挫折失敗に終わり、ついには養家波多野の資産の全てを食い潰してしまうことになりました。
こんな状況に自暴自棄になった{波多野鶴吉}は、京の巷間に遊び、放蕩を続け、その間に男女のおどろおどろしい感情の愛憎を体験し、果てには我肉体に忌まわしい病毒を受け、後悔と恥辱に慄きながら薬をあさりはしたものの結局の処わが鼻の異常に気付く結果になったのであります。
明治14年(1881)23歳、這這の体で闇にまぎれて縁家の情けにすがった。
郷里に帰ることの出来た{波多野鶴吉}は、妻の葉那と共に生家羽室家に身を寄せ、翌15年24歳には心ある義姉の勧奨で、{地元延村の小学校の代用教員}として教鞭を執ることとなった、その行き届いた教えぶりは生徒達にも共感を呼び、多くの人達に慕われるようになった。
明治16年(1883)25歳、{波多野鶴吉}が教員になって初めての家庭訪問の時でありました、女生徒の玄関の戸を開けた時に、屋内から漂い出て来る饐えた臭気、思わず鼻を覆いたくなるような、当時の養蚕農家の生活実態は筆舌し難いものであったと云う。担任する学級の生徒の中で出席が著しく悪いのは養蚕農家の子弟子女であった。この現実を知った翁は、代用教員をしながら、合間を見つけて養蚕農家を歩き回り、更に詳しい調査と研究を続けて行った。
その頃、延村の隣の安場村を一つ隔てた田野村に田中啓造と云う人物が天蚕(山繭)を大量に飼育していることを知り、{波多野鶴吉}は田野村を訪ね田中啓造氏の話を聞き、天蚕と家蚕についての調査研究を重ね、自らは家蚕の道を歩むことを決心したのであります。
田中啓造との出会いは、{波多野鶴吉}自身に二つの大きな変化をもたらしたのであります。
一つには、{事業理念(哲学)の問題}であります、{自らが喜びたいのなら、先ず他を喜ばせる、相手に喜んでもらう心を持つこと}であります。そんな思いの中から導き出されたのが、{株主は養蚕家、従業員は養蚕家(株主)の子女、会社は利益優先ではなく『人を喜ばせること、喜んでもらうことを優先する』}と云う考えです。その為には、劣悪な環境の中にある養蚕家の子女達に、人を喜ばせるに足りる人間としての教育を施さなければならない、そしてそれに足りる教養を得る為には真の学校教育が必要であります。更に会社は養蚕家であり株主の為に蚕種の改良に努め、双方が理解し信頼し合って仲良く働き仲良く分配する。従って、{波多野鶴吉}の目指す会社は{工場にして学校、学校にして工場}、これが後の{誠脩学院}の原案と成ったのです。
二つには、田中啓造氏が{波多野鶴吉}に『聖書』をくれたことであります。
その中から{波多野鶴吉}は、{信仰の対象を見出した}。
明治18年(1885)27歳、郡内随一の製糸家梅原和平氏に出会うことになったのであります。梅原和平氏は、{波多野鶴吉}との会話の中で{波多野鶴吉}が養蚕に精通していること、その勤勉さを知るに至り、翌19年28歳、設立の何鹿郡蚕糸業組合の組合長に推されることになり、代用教員を辞職し組合長に就任することになったのであります。
明治20年(1887)29歳、{波多野鶴吉}は{羽室組製糸会社二十釜繰}を開業、その責任者として群馬より帰綾していた高倉平兵衛氏を推したのであります。同年、滋賀県より宮川長兵衛氏を招き、養蚕伝習所を開設し、その受講修了者を郡内各所に派遣し、養蚕技術の改良に努めたのであります。帰綾した新庄・高倉両氏は、{波多野鶴吉}の両腕となって、
明治22年31歳には中上林に、翌23年32歳には綾部町に生糸共同揚枠販所として{有光社}を開設し、郡内生糸の品質統一と共同販売事務の合理化を進めたのであります。
明治23年(1890)32歳、{波多野鶴吉}はキリスト教入信、入信については田中啓造の影響が大変大きいことは前述の通りであります、洗礼を受けたのは須知の丹波教会と記されています。
{波多野鶴吉}は、よく「田野には、二つの恩がある」と、云っていたと云われています。
一つは、「天蚕飼育を視察して、蚕糸業の開発をするに至ったこと」、今一つには、「キリスト教の道を開き、信仰生活の緒を得たこと」。
その裏付けとして、青年期を過ごした京都遊学時代に養家波多野家の身代を潰した上、妻葉那(はな)をないがしろにしたその報いか悪病を患って鼻が欠け、怪なる容貌になったことからの脱却(内面的克服)と、代用教員時代に経験した{松方デフレ}下の農村の惨状をつぶさに見た時の心に湧き上がった{救済への情熱}とその実現(外面的挑戦)がその因となっているのであります。
取り分け、京都遊学時代の所業については、その後の{波多野鶴吉}の人生観を大きく変化させることになったと思われるのであります。
明治25年(1892)34歳、何鹿郡には蚕糸講習所の設置。京都府には製糸巡回教師制度を設置。翌26年35歳には何鹿郡に高等養蚕伝習所を開設したのであります。
翌27年36歳、金沢市まで出向き、当時の地方産業振興の旗頭であった前田正名氏に出会い、
以前より注目していた前田氏の説く{地方産業振興運動}と{町村是運動}の基本理念である{今日ノ急務ハ、国是、県是、村是ヲ定ル二在リ}を聞き{町村郡県の是定まりて然る後、国是定まる}を悟り、
明治28年37歳に京都市で開催された第二回蚕糸業大会では前田正名運動の担い手として大会準備委員長を務め盛況を治めたのであります。
郡是の学校.jpg 明治29(1896)年38歳に{郡是製糸株式会社}を京都府何鹿郡(現京都府綾部市)に設立。 養蚕・製糸業の集約化で生産力と品質の向上を目指した。{教育}を重んじた一貫した{経営理念}を打ち出し、それ以前には{生死業}とまでいわれた{製糸業}の体質改善を実施。{郡是}は、人々から{表から見れば工場、裏から見れば学校}とまで語られるほど、従業員の教育に力を入れました、いわゆる{読み・書き・そろばん}の他、{裁縫・生け花・音楽・更に宗教講話(道徳教育)}を行い、従業員の教養・品格を高めて行きました。また{郡是}では1901年43歳、病室3室と看護婦室のある{隔離医療舎}を建設、医者は綾部町内の開業医に委託しました。1911年53歳からは各工場にも{養生院}を設置して行きました。また従業員の食事にも配慮し、栄養面では1916年58歳頃からは、医学博士の大根ジアスタ−ゼ説に基づき、千切り大根を食事に多用しました。波多野鶴吉が亡くなってからもこの遺志は引き継がれ、1919年にカルシウムに関する講演がきっかけでわかめを多用、1927年には栄養価の高い玄米食を採用しました。その他にも体力づくりとして1921年、強健術を採用しました。{郡是}はまた、{社員が一丸となって勝ち取った利潤を出来る限り社員の皆様と分かち合いたい}という思いから、{社員に株主になるように指導します}、そして{利潤を分かち合いました}。こうして{郡是}のある{綾部}は、十ケ年間に実に四十六%の躍進的人口増加を果たし、小都市には稀な下水道の完備を初め、数々の都市設備、病院・教育研究機関が完備し、幾多の新聞・雑誌の刊行が行なわれるほど発展しました。大正7(1918)年、逝去。
★{波多野鶴吉}は、{クリスチャン}として{キリスト教の理念で会社経営を行った経営者}です。会社設立時点から{キリスト教の理念に基づいた工場経営}を行っており、職工の教育には特に重点を置いており、その他の紡績工場とはまったく異なるものであったようです。明治42年(1909年)51歳には、従業員の増加に伴って教育を強化する必要を強く感じ、東京で独立伝道をしていた{川合信水牧師(【肥田式強健術】で知られる肥田春充の実兄)}を職工教師として招聘しました。 招聘されてはじめて面談した時、川合牧師は波多野鶴吉にこう言ったそうです。
「職工を善くしたいと思うなら、先ずあなたご自身が善くならなければなりません」。
川合牧師の教えを忠実に遂行した結果、会社は社長以下すべての従業員が{修養団体}のようになっていたそうですが、{女子寮}という言葉と実体を作ったのも波多野鶴吉が初めてのようです。起業から1年目は大変な苦労があったようですが、その後は軌道に乗り、{模範工場}としても知られていた郡是製絲株式会社は、企業成績も良好でありました。第一次世界大戦が起こった大正3年(1914年)56歳には会社の状況が苦境に陥ったが{教育部}の縮小は絶対に行わなかったそうです。この苦境を乗り切った後、大正4年(1915年)57歳に{至誠訓}を{社訓}としました。
〔「誠」ヲ一貫シテ「完全ノ天道」ヲ尊崇シ 常ニ謙(へりくだ)リテ 一. 完全ノ信仰ヲ養ヒ
二. 完全ノ人格ヲ修メ
三. 完全ノ勤労ヲ尽シ
四. 完全ノ貢献ヲ為スコトヲ祈願シ実行ス〕
★{波多野鶴吉}は{岩城きぬ}というクリスチャンの女性を女の従業員の責任者に任じた、そして{岩城きぬ}は多くの女性の悩みを聞いて「一緒に祈りましょう」と励まし、そんな彼女と一緒に祈っている社員の姿が多く見られて母親みたいに慕われていた。 また、{波多野鶴吉}も{読み書きが出来ない少年}には{毎朝始業前の30分間で個人的に教えてイエス様の話をした}、また{耳の遠い女性が入社した時には、皆から取り残されていく姿を見て、毎日の就業後に自宅へ招いて奥さんと一緒に読み書きを教えた}。このようにして、従業員は養蚕家から預かった大事な娘さんとして、自分の子供のように大切にしました。
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