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イクヤ マイマイ オヤイカ サカサ (行くやマイマイ 親イカ 逆さ) (世は生き いざ民 歩押すな)
(十日 美穂 食むは お守り子)
(A夫A墓のA) い・・・伊藤博文(いとうひろぶみ)
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よ・・・吉田茂(よしだしげる)
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た・・・竹下登(たけしたのぼる)
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①春秋会系 河野一郎 中曽根 渡辺美智雄 村上 亀井 伊吹 二階 山崎 石原伸晃 ②十日会系 岸 福田赳夫 安倍晋太郎 三塚 森喜朗 町村 細田 ③宏池会系 池田 前尾 大平 鈴木 宮澤 加藤紘一 堀内 丹羽・古賀 古賀 岸田 小里 谷垣 河野洋平 麻生 ④木曜研究会系 佐藤 田中 竹下 小渕 橋本 津島 額賀 保利 二階堂 羽田・小沢 ⑤政策研究会系 松村・三木 三木武夫 河本敏夫 高村正彦 大島理森 山東昭子 |
200歴史
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diogenes412323さん 2016/5/1612:55:36 ①画像の袖章はどこの国のいつの物でしょうか?
②大佐が中くらいの幅のものが4本並ぶのはどこの国のいつの物になるでしょうか?
inyourpurposeさん 2016/5/2208:17:02 軍服 (大日本帝国海軍) 明治16年頃-明治37年の将校の袖章のようです。 詳しくはウィキペディアで https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BB%8D%E6%9C%8D_(%E5%A4%A7%E6%97%A... |
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http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q10157295285?fr=chie_my_notice_que_limit
2016/3/2211:09:59 父と夫と息子が天皇だった女性はいるでしょうか?
外国ではどうでしょうか?
2016/3/2308:22:48 *初期は皇族同士か、国津神との婚姻。
①春日大娘皇女 子・ 25代武烈天皇 父親・ 雄略天皇(日本書紀のみ) 夫・ 仁賢天皇 ②手白香皇女 子・29代欽明天皇 父親・ 仁賢天皇 夫・ 継体天皇 ③石姫皇女 ・30代敏達天皇 ・宣化天皇女 ・欽明天皇 *この辺りから蘇我氏、次に藤原氏の娘がしめるようになっていく。 ④禎子内親王 ・ 71代後三条天皇 ・ 三条天皇(母は、道長の娘) ・ 後朱雀天皇 *院政のきっかけとなる後三条天皇の出身は、本当に奇跡のようなレアケースだったのね。 hochie5さん
2016/3/2301:04:43
オーストリアのマリアテレジア。
父と夫と息子が神聖ローマ帝国の皇帝でした。 同じ国でなくてよければ、 君主の娘が他国の君主に嫁いで、その子が嫁ぎ先の君主となるという事例はたくさんあります。 ejz5gさん
2016/3/2213:45:10 >父と夫と息子が天皇だった女性
①手白髪皇女 父 仁賢天皇 夫 継体天皇 子 欽明天皇 ②石姫皇女 父 宣化天皇 夫 欽明天皇 子 敏達天皇 とりあえず①②の二人がそうです。 編集あり2016/3/2212:53:18 僭越ながら答えさせていただきます。
父、夫、息子 三世代が皇位についた女性は、いないのですが、 持統天皇の場合、 父=天智天皇 夫=天武天皇 息子=草壁皇子 孫=文武天皇 元明天皇の場合、 父=天智天皇 夫=草壁皇子 息子=文武天皇 のように、ひと世代越えて継いでいる なら有りますよ。 但しいずれも、夫の父親は天皇ですね。 外国君主については分からないです。 稚拙な文章で申し訳ないです。 カテゴリマスター
2016/3/2212:45:54 欽明皇后、宣化女、敏達母、石姫皇女。
陽明門院、後朱雀后、三条女、後三条母。 欽明母、仁賢女、継体后、手白香皇女。 外国は古代朝鮮が婿養子をしていたのでよくあります。 中国は同姓をきらうのでありません。 |
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楠木正成
1443年、南朝の残党は都の不平貴族などと組んで禁闕の変を起こし、内裏を襲撃して火をかけ、後花園天皇の暗殺を計ったが天皇は危うい所を避難し、一党は三種の神器の剣と神爾を奪って逃走した。
このうち、刀は清水寺で奪回され、比叡山に篭った一味は延暦寺の寝返りもあって壊滅したが、神爾は吉野に持ち去られた。 幕府はこれを追撃し、楠木一族ら南朝方残党を討ち取って大きなダメージを追わせた。 この二年前、6代将軍足利義教が赤松氏に暗殺されるという事件があり、当然ながら赤松氏は討伐され滅亡していた。 長禄元年(1457年)に赤松氏再興を願う赤松氏遺臣団は、吉野に攻め込んで南朝戦力と激しく戦い二年かけて壊滅に追い込み神爾を取り返して北朝に献じた。 この戦いで、南朝及びそれに従っていた楠木一族の主だった者は死んでしまい、以降南朝本流や楠木氏が歴史に登場することはなくなった。 戦国時代末期、楠木正成の末裔と自称する楠木正虎があわられ、松永久秀に登用されたのを足がかりに、織田家、豊臣家、そして朝廷(北朝系)に運動して楠木正成ら楠木一族が逆賊となっていたのをついに名誉回復させた。 楠木正虎の出自ははななだ怪しかったが、これによって楠木氏が表立って再評価されるようになった。 正虎に子がいたかは不明、 楠木正辰という学者が正虎の子というが信憑性はない。
正辰は由比正雪の師で妻の父で、最後は正雪に用済みとして殺害された
徳川光圀に始まる水戸学(尊王攘夷運動)は南朝正統論を唱え、光圀は楠木正成を顕彰する墓まで建てた。 このため、幕末においては正成は一代の英雄として扱われ、明治になっても大人気であった。 明治新政府はこうした中で、南朝の有力な武将や公家を顕彰し子孫に爵位を与えるということを行い、名和氏や菊池氏の子孫には爵位が与えられたが、どんなに探しても楠木正成の確かな子孫は見つからず、楠木氏の子孫が爵位を賜ることはなかった。 2013/11/2911:44:48 1443年、南朝の残党は都の不平貴族などと組んで禁闕の変を起こし、内裏を襲撃して火をかけ、後花園天皇の暗殺を計ったが天皇は危うい所を避難し、一党は三種の神器の剣と神爾を奪って逃走した。
このうち、刀は清水寺で奪回され、比叡山に篭った一味は延暦寺の寝返りもあって壊滅したが、神爾は吉野に持ち去られた。 幕府はこれを追撃し、楠木一族ら南朝方残党を討ち取って大きなダメージを追わせた。 この二年前、6代将軍足利義教が赤松氏に暗殺されるという事件があり、当然ながら赤松氏は討伐され滅亡していた。 長禄元年(1457年)に赤松氏再興を願う赤松氏遺臣団は、吉野に攻め込んで南朝戦力と激しく戦い二年かけて壊滅に追い込み神爾を取り返して北朝に献じた。 この戦いで、南朝及びそれに従っていた楠木一族の主だった者は死んでしまい、以降南朝本流や楠木氏が歴史に登場することはなくなった。 戦国時代末期、楠木正成の末裔と自称する楠木正虎があわられ、松永久秀に登用されたのを足がかりに、織田家、豊臣家、そして朝廷(北朝系)に運動して楠木正成ら楠木一族が逆賊となっていたのをついに名誉回復させた。 楠木正虎の出自ははななだ怪しかったが、これによって楠木氏が表立って再評価されるようになった。 正虎に子がいたかは不明、一説には由比正雪の師で妻の父で、最後は正雪に用済みとして殺害された楠木正辰という学者が正虎の子というが信憑性はない。 徳川光圀に始まる水戸学(尊王攘夷運動)は南朝正統論を唱え、光圀は楠木正成を顕彰する墓まで建てた。 このため、幕末においては正成は一代の英雄として扱われ、明治になっても大人気であった。 明治新政府はこうした中で、南朝の有力な武将や公家を顕彰し子孫に爵位を与えるということを行い、名和氏や菊池氏の子孫には爵位が与えられたが、どんなに探しても楠木正成の確かな子孫は見つからず、楠木氏の子孫が爵位を賜ることはなかった。 |
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医学・生理学賞 野口英世
北里柴三郎
山極勝三郎(人工癌の発明者)〈山極については、後年「ノーベル賞を受賞させるべきだった」という意見がある〉
志賀潔
呉秀三
荻野久作
小黒八七郎
物理学賞 長岡半太郎
寺田寅彦
仁科芳雄
菊池正士
林忠四郎
内山龍雄
天文学者
平山信
木村栄
萩原雄祐
平山清次(平山信より平山清次の方が学問的業績は大きい)
化学賞
櫻井錠二
池田菊苗
高峰譲吉
鈴木梅太郎
柴田雄次
文学賞
森鴎外
夏目漱石◾夏目は時期的に厳しいと思う。(野口の初候補が1914年、夏目の没年が1916年。)
志賀直哉
谷崎潤一郎
三島由紀夫
平和賞
田中正造
尾崎行雄
高木正年
斎藤隆夫
平塚らいてう
石橋湛山
三木武夫
経済学賞
森嶋通夫 |





