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700未来派
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この塔はどこにあるの でしょうか? http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail.php?qid=1138211711&sort=1
この塔はアントニオ サンテリア Anto nio Sant' Elia が電力センターの構想と してデザインしたスケ ッチをジュゼッペ・テラーニ Giuseppe Terragni が 1931-1933年 に戦没者慰霊碑 Mon umento ai caduti としてイタリアミラノの北に あるコモ湖の湖畔に建 てたものです。
Google Map かGoogle Ea rthで場所を確認し たいのですがどうやって調べたらい いのでしょうか? どなたか助けてくださ い。 補足
bellecelle delleellaさ んへ
どうやって調べたら場 所がお分かりになった のでしょうか。 ぜひお聞きしたいです 。 ちなみに下記は回答に 助けられて作成できた ブログです。 http://blogs.yahoo.co.jp/uuatanabetakahiko/11419031.html
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ブルーノ・ムナーリ Bruno Munari (1907年10月24日ミラノ生まれ、1998年9月30日没)
イタリアの美術家、グラフィックデザイナー、プロダクトデザイナー、教育者、研究家、絵本作家など
■生涯
1907年 ミラノ生まれ。父親は給仕で母親は絹のせんすに刺しゅうをするのが仕事だった。
幼少期を北イタリアのバディーア・ポレージネという小さな街で過ごした。 1925年 18歳の時ミラノへ戻り、イタリアの前衛美術運動の一つ「未来派」の活動に参加、「役に立たない機械」を発表する。 ムナーリは「未来派」の中でも「後期未来派」に分類され、運動の考え方に共鳴するものの中心的な人物として活動はしていない。 絵本「スイミー」などで有名なレオ・レオニともこの時期未来派の芸術家として交流を持つ。 1927年 造形と絵で未来派展に参加。
1930年 「役に立たない機械」(ローマ近代美術館)を制作。 1930年代、40年代はグラフィックデザイナー、アートディレクターとして雑誌の編集などに関わる一方、 幼い息子の為に仕掛け絵本を企画デザインする。 ▼Macchine Inutili
1945年 ソルダーティ、モネらと具象芸術のグループMACを設立。児童のための新しい様式の絵本10種を発表。
▼Sedia x visite brevissime (1945)
1948年 「読めない本」(ニューヨーク近代美術館) 1950年代からイタリアのダネーゼ社のためのプロダクトを数多くデザインし、その後も家具、照明器具などの工業製品のデザインを数多く残している。 ▼Negativo-positivo (1951)
▼Macchina Aritmica (Arrhythmic Machines), 1950-1983http://www.shift.jp.org/en/archives/2008/01/30/MacchinaAritmica.jpg 1952年 「陰と陽」の作品発表。 1952年 東京近代美術館で「偏光」を用いた映写シリーズ作品の展覧会開催。 1958年 「旅のための彫刻」 ▼Fork (1958-1964)
1959年 「西暦2000年の化石」を制作発表。
1960年代以降はしばしば日本を訪れ、日本の伝統的な美意識やデザインに共鳴し、影響を受ける。 1965年 「オリジナルのゼログラフィーア」(コピーアート作品)を世界各地で発 表。 東京の伊勢丹で「ムナーリ展」開催。「ムナーリは完全に禅の精神を身につけている」と日本の新聞は書いた。 ▼(1966)
1967年 ハーバード大学でビジュアル・デザインの講座を担当。 以来、幼稚園の子どもから大学を卒業したデザイン専門家までのための美術教育とヴィジュアル・コミュニケーションの教授法改革に取り組む。 1967年アメリカ・ハーバード大学へ招かれビジュアル・コミュニケーション・デザインの講義を行う。 以後、デザイン教育の分野でも多くの著書を書くと同時に、イタリア・ミラノのブレラ美術アカデミーなどで教鞭を執る。 晩年はこどものための造形ワークショップ活動に力を注ぎ、イタリア各地、日本を含む国外でもワークショップを行っている。 ▼(1970)
▼Abitacolo (1971)
1977年 ミラノのブレラ美術館で子供のためのワークショップを開催。「アートと遊ぶ」の方法を確立。
まだ字が読めない子どものための「はじめの本」(パリ、ボウブールに展示)を創案。 ▼Bruno Munari a Monte Olimpino, Como (1980)
1985年 東京の「こどもの城」で「大ムナーリ展」開催。 約30年にわたって、トリノ のエナウディ出版社のエディトリアルデザイン部門を担当。 60冊以上の本を出版し、 各国語に訳されている。
ムナーリの活動は幅広く、造形作家、彫刻科、インダストリアル・デザイナー、グラフィック・デザイナー、映像、作家、詩人、美術評論家、美術教育家と実に様々な分野に及んでいる。 「自分がいちばんやりたいことをやってきた人間、それでじゅうぶん満足しているのですから、もう言いたいことはありません」とは彼自身のことば。 ▼Libro letto(Bed Book) (1993)http://www.shift.jp.org/en/archives/2008/01/24/Munari-BedBook.jpg
1998年没
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10冊企画された絵本は当時7冊がモンダドーリ社から発行され、後年2冊が追加された。 現在はコッライーニ社の復刻版が発行されている。 1958年イタリアを訪れていた詩人・美術評論家の瀧口修造と知り合い、瀧口によって1965年日本で個展を開いている。瀧口を通じて作曲家・武満徹とも親交が深く、ムナーリが贈ったオブジェをモチーフにした武満の曲「ムナーリ・バイ・ムナーリ」がある。 |
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フォルトゥナート・デペーロ
Fortunato Depero(1892 3 月 30 日 - 1960 年 11 月 29 日)イタリア の 未来派の画家、作家、彫刻家 グラフィック デザイナー ■生涯
1892年イタリア トレンティーノ 地方フォンドで生まれ、 ロヴェレート で育つ。
そこで石工の見習いとして働きながら作品を発表し始めた。 1913年 フィレンツェへの旅行した時に Lacerba 紙上に 未来派 運動の創設者のひとりであるフィリッポ ・ トンマーゾ ・ マリネッティの記事を発見した。 デペーロはインスピレーションを受け、1914 年に ローマ に移り、未来派の一員の ジャコモ ・ バッラ に会った。 1915年バッラとともに 「宇宙の未来派的再構築」宣言を書いた。 それは他の未来派によって示された概念を拡張したものだった。 同じ年に彼はバレエのための舞台セットと衣装をデザインした。
▼鳥 Movimenti di uccelli (1916)
▼(1916)
▼(1917)
▼Ritratto di Gilbert Clavel (1917)
1919 年デペーロは ロヴェレートに未来派芸術工房を設立した。
そこでは、未来スタイルでおもちゃ、タペストリー、家具 を専門に生産した。 ▼La casa del mago (1920)★
▼(1920)
▼Danza di diavoli (1922)http://www.comune.parma.it/pigorini/archivio/addio900/depero/stampa/d-img-g5.jpg
▼Lizzana (1923)
▼Marinetti temporale patriottico - ritratto psicologico (1924)★
1925年に彼は、「近代産業と装飾芸術の国際博覧会」で未来派として評価された。
▼(1925)
▼Fulmine compositore (1926)
▼Bozzetto per manifesto pubblicitario Uomo-Matita (1926-29)
1928年彼はニューヨークに移り、舞台衣装の製作やムービー メーカー、ニューヨーカー、 ヴォーグ等の雑誌の表紙のデザインである程度の成功を納めた。
彼はアメリカ滞在中に 道楽半分でインテリアデザインもして、ロックフェラーセンターのために後で取り壊されることになる 2 つの レストラン のための仕事もした。 彼はまた、ニューヨークデイリーニュース および メイシーズ の作業を行ったし、西第 23 通り に家も建てた。 1930 年に彼はイタリアに戻った。 ▼Grattacieli e Tunnel (1930)★
▼(1930)
1930 年代から40 代にかけて未来派はファシズムに取りこまれ運動としては終息していく中デペーロは制作を続けた。
この期間中の未来派の芸術的な発展はほとんど彼とバッラによるところが大きい。 彼がこの期間中に関与していたプロジェクトの 1 つは彼が創刊し編集した雑誌ディナモだった。 第二次世界大戦 の終了後、デペーロはヨーロッパで当局とトラブルを起こし、1947 年にニューヨークで再出発することを決めた。 しかし今度も受け入れが歓迎ではないことを知ることになる。 二度目のアメリカ滞在中の業績としては、 「So I Think, So I Paint 」の創刊と、1940 年出版の自伝「ortunato Depero nelle opere e nella vita (デペーロ 作品と半生)」 の翻訳がある。 ▼Testa di cinese (1930-34)
▼Il gallo (1935) ★
▼苦いカンパリ. 食前酒 Bitter Campari. L'aperitivo(1940-1950)(アイデア 1928)http://download.kataweb.it/mediaweb/image/brand_moda/2008/11/18/1227001702881_23_bitter-campari_de-pero.jpg
▼Danzatrici lunari(1946)
1947 年の冬から1949 年10 月末まで デペーロはコネチカット州ニューミルフォードの別荘に住み、博物館を開くという長期計画を続けていた。 彼の後見人は、時の大統領トルーマンの陣営のウィリアム・ヒルマン だった。 ニューミルフォードを去り、デペーロは終生の地となるロヴェレートに戻った。 ▼Cavalli sulla corda (1948)http://www.comune.parma.it/pigorini/archivio/addio900/depero/stampa/d-img-g1.jpg
1959 年 8 月に長年の野望だった画廊博物館の開館を成就する。 1960 年 11 月 29 日、糖尿病を患い、片側不全麻痺のため最後の 2 年間は絵筆を握れぬまま、 デペーロは68歳で死去した。 彼の作品の多くは、トレントとロヴェレートの近代現代美術館のマート常設館で紹介されています。
マート常設館は3, 000点のオブジェクトを収蔵し、 そこにあるデペーロ未来派芸術工房は未来派運動に捧げられたイタリアの唯一の博物館である。 広範な改装のため長年にわたり閉館していたが、デペーロ未来派芸術工房は再オープンした。 典拠 Wikipedia Fortunato Depero
■トレント・ロヴェレート近現代美術館 (Museo d'Arte Moderna e Contemporanea di Trento e Rovereto)
略称 MART
イタリア共和国トレント自治県のロヴェレートにある近代美術と現代美術を扱う美術館 歴史
美術館の案はトレント地方の未来派の巨匠フォルトゥナート・デペーロ (Fortunato Depero)の収集と1991年に出来たトレント県立美術館を継承している。 2002年12月15日にMARTはようやく一般公開された。
建物はティチーノ州の建築家のマリオ・ボッタによるもので、古典的な形状(特にパンテオンのような大きなクーポラ)と「未来派」の材料(そのクーポラは鋼鉄とアクリル樹脂)に着想を得ており、展示される美術と同じ特徴となっている。
MARTの常設展示は約10000点の絵画、デッサン、彫刻などで特に重要な物としては20世紀の前衛作品である。ロヴェレート出身の未来派フォルトゥナート・デペーロの数多くの作品が展示されている。 さらにMARTは特別展示も頻繁に行っている。
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