「母の日」、その起源と反対運動
Brian Handwerk for National Geographic News
May 14, 2012
「母の日」といえば、今では食事やプレゼント、グリーティングカードを贈る日だが、かつては戦死した兵士を悼み、平和のために活動する母親たちの日だった。
この祝日が商業利用されるようになると、「母の日」誕生の立役者となった人物は反対運動に身を捧げ、ついには財産を使い果たし、衰弱して療養所で亡くなった。しかし、彼女の死後もむろん「母の日」は消えることなく、現在もなお世界中で、さまざまな形で祝われている。
アメリカ、ウェストバージニア・ウェズリアン大学の歴史学者キャサリン・アントリーニ(Katharine Antolini)氏によると、早くも1850年代には、ウェストバージニア州で女性による社会活動を展開していたアン・リーブス・ジャービス(Ann Reeves Jarvis)という人物が、「母のデイワーク・クラブ」(Mother's Day Work Club)を組織していた。衛生状態を改善し、病気治療と母乳の汚染防止を通じて、乳児死亡率を低減することを目的とした活動だ。1861〜1865年の南北戦争中には、南北双方の負傷兵を看護する活動も行っていたという。
南北戦争後、ジャービスら女性たちが中心となり、「母の友情の日」(Mother's Friendship Day)と題したピクニックやその他の催しを開いて、かつての敵同士を結びつける平和活動を行うようになった。アメリカの愛国歌『リパブリック讃歌』(The Battle Hymn of the Republic)の作詞者として知られるジュリア・ウォード・ハウ(Julia Ward Howe)は、1870年に有名な「母の日宣言」(Mother's Day Proclamation)を発表して、女性たちに政治に参加し、平和を推進するよう呼びかけた。
同じ頃、ジャービスは南北に分かれて戦った人々のために、ウェストバージニア州全土で「母の友情の日」を開催していた。しかし、現在われわれが知る「母の日」の誕生に最も貢献したのは、彼女の娘であるアンナ・ジャービス(Anna Jarvis)だ。ただし、アンナはその後の人生の大半を、現在のような母の日を撲滅する活動に費やすことになる。
◆母の日のルーツ
アンナ自身は生涯子どもを持たなかったが、1905年に母のアンを亡くしたことを契機に、母の日誕生の立役者となった。最初の母の日が祝われたのは1908年のことだ。
1908年の5月10日、アンナの出身地であるウェストバージニア州グラフトンや、アンナが当時住んでいたペンシルバニア州フィラデルフィアなど数都市で、家族が集まる催しが開かれた。催しが行われたグラフトンの教会は現在、「国際母の日教会」(International Mother's Day Shrine)と改名されている。
主にアンナの働きかけによって、母の日は多くの市や州で祝われるようになり、1914年には当時のアメリカ大統領ウッドロウ・ウィルソン(Woodrow Wilson)が5月の第2日曜日を正式に祝日と定めた。
「アンナにとって、その日は家に帰って母親と過ごし、母親のしてくれたことに感謝するための日だった」と、ウェストバージニア・ウェズリアン大学のアントリーニ氏は述べている。「すべての母親を祝うのが目的ではない。自分たちの知る最高の母親、すなわち自分の母親を、子どもとして祝うための日だった」。アンナがこの日を複数形の「Mothers' Day」ではなく、単数形の「Mother's Day」で呼んだのはそのためだとアントリーニ氏は言う。
しかし、アンナの成功はほどなく失敗に変わる。少なくともアンナ自身にとって、それは“失敗”だった。
◆「母の日」を攻撃
アンナにとって内輪で祝うものだった母の日は、いつの間にか花やキャンディ、グリーティングカードを買って贈ることが主体の商業的な日に変貌していた。この変化に強い不満を覚えたアンナは、自身が相続したかなりの資産を投じて、母の日を厳粛なルーツに立ち返らせるための活動を始めた。
アンナは「母の日国際協会」(Mother's Day International Association)を立ち上げ、この祝日の主導権を取り戻そうとした。不買運動を展開し、訴訟を起こすと警告した。慈善活動の資金集めに母の日を利用したとして、時の大統領夫人エレノア・ルーズベルトを非難しさえした。
アントリーニ氏によると、「1923年には、フィラデルフィアの菓子製造業者の集会に押しかけた」という。その2年後にも、同様の抗議活動を行っている。「現在も存続している『アメリカ兵士の母の会』(American War Mothers)という組織が、資金集めに母の日を利用し、毎年カーネーションを販売していた。これに腹を立てたアンナは、1925年にフィラデルフィアで開かれた同組織の集会に押しかけ、治安を乱す行為を理由に逮捕された」。
母の日を改革しようというアンナの熱心な活動は、少なくとも1940年代初めまで続いた。1948年、アンナはフィラデルフィアのマーシャル・スクエア療養所(Marshall Square Sanitarium)で84年の生涯を閉じた。
「アンナは財産を使い果たし、認知症になって療養所で亡くなったが、彼女こそ、その気になれば母の日を利用して利益を得られたはずだ」とアントリーニ氏は言う。「しかし、彼女はこの日を金儲けに利用する人々を攻撃した。結果として彼女は、経済的にも肉体的にもすべてを失ってしまったのである。
http://www.nationalgeographic.co.jp/smp/news/news_article.php?file_id=20120514002