中村哲さんに聞いたアフガニスタンという国で、
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戦争と平和
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相模原の男性が語り続ける 慰安婦への加害の記憶
2014.04.20 14:00:00 中国の女性たちを強姦する日本兵に私は避妊具を配った−。先の戦争で自ら手を染めた後ろ暗い過去と向き合い、告白を続ける人が相模原市南区にいる。元牧師の松本栄好さん、92歳。「傍観していた私は『戦争犯罪人』だ」。歴史への反省がかすむ社会に今、伝え残したいことが多くある。「従軍慰安婦は確かに、いた。私が証人だ」 ◇ 筒状の器具を性器に差し込み、のぞき込む。炎症で赤くなっていないか。できものは見当たらないか。月に1度の性病検査。軍医の手伝いが衛生兵、松本さんの任務だった。 女性の体を思ってのことではなかった。 「兵力を維持するためだった」 戦地や占領地では日本軍人の強姦が問題になっていた。住民の反感を買えば、治安の悪化を招き、占領はおぼつかない。一方、不衛生な現地の売春宿では性病に感染する恐れがある。病気になれば兵隊として使い物にならなくなる。強姦防止と性病予防が慰安所の目的だった。 中国山西省盂県に出征したのは1944年2月。当時21歳。城壁で囲まれた大隊の拠点に慰安所はあった。 「慰安婦としていたのは20代ぐらいの6、7人。日本の着物ではなかった。兵隊たちが『朝鮮ピー』と呼んでいたので、彼女たちが朝鮮の人々なのだと分かった」 半年後、分遣隊として数十キロ離れた上社鎮という占領地区に移り、慰安所は強姦の歯止めになるどころか性的欲求をあおり、拍車を掛けていることを知る。 「慰安所は大隊本部にしかなかった。だから兵隊たちは『討伐』と称し、村々で食料を奪うのと同時に女性たちを強姦していった」 犯す前、松本さんは避妊具を手渡した。「気を付けろよ」。病気になるなという念押しだった。 強姦は当時の軍刑法でも禁じられていた。「私はトルストイの禁欲主義に傾倒していて、性行為への嫌悪感が勝っていた」。それでも、目の前で繰り広げられる光景に疑問も罪悪感も湧かなかった。 ■問題は強制の有無か やはり分遣隊が「討伐」に繰り出したある日、逃げ遅れた女性を拉致した。 「20〜30代ぐらいまでの7、8人。兵隊たちにとっては『戦果』だった」 従軍慰安婦の問題をめぐっては、軍の関与と強制性を認めた河野洋平官房長官談話の見直しを求める声が一部の政治家から上がり続ける。第1次安倍政権では「政府が発見した資料の中には、軍や官憲による、いわゆる強制連行を直接示すような記述も見当たらなかった」と明記した政府答弁書が閣議決定されている。 松本さんは首を振り、証言を続ける。 「女性たちは自ら歩かされ、連れてこられた。悲鳴を上げたり、騒ぐこともなかった。あの状況で逃げ出したり、抵抗したりすることにどんな意味があったか。抵抗すればいつ危害が加えられるか分からない。その絶望になぜ思いをはせないのか」 女性たちは駐屯地の兵舎の片隅に監禁され、「兵隊たちはそこで代わる代わる強姦した。私は避妊具を配り続け、やはり女性たちの性病検査を行った」。 1週間ほどたち、隊長の判断で女性たちを村に戻すことになった。松本さんは「女性たちの体力が低下したからだ」と思った。隊長は交換条件として、村長に命じた。 「ほかの女を連れてこい」 別の2人が連れてこられた。 松本さんは言う。「慰安婦だけの問題ではない。中国や韓国の人たちが怒っているのは、それだけではないと認識すべきだ」 村々での強姦、慰安所ではない兵舎での監禁。女性たちの体に刻み付けられた暴力の残虐さに違いなどない。なのに人集めの際の強制性の有無を論じたり、慰安婦制度ばかりに焦点が当てられることは問題の本質から目を遠ざけることになると感じている。 「私たちは中国や朝鮮の女性を性の奴隷として扱っていた」 そして、自身がそう認識することができたのも戦後になってからという事実にこそ目を向けなければならないと、松本さんは言う。 ■語らないことの責任 ニワトリや豚を盗むように女性を連れ去り、犯す−。「戦地は倫理、道徳、品性、誇りも何もないモラルのない人間がつくりあげられていく人間改造場だった」。松本さんは中国や朝鮮の人々には何をしても構わない、という空気が蔓延していたと振り返る。 「当時の教育を見詰めないといけない。戦時動員の名の下、国家主義を浸透させるために『日本よい国 きよい国 世界に一つの神の国』と自国の民族の優位性を強調する教育が行われた。その過程でとりわけ中国や朝鮮の人々への蔑視と傲慢さが、私たちの心の内に生み出されていった」 復員後、牧師となったが、自らも加担した蛮行を口にしたことはなかった。 「戦争体験を多少話したことはあったが、通り一遍のこと。罪の自覚から話せなかった」 慰安婦の女性と会話を交わしたことはあったはずだが、どんな言葉をしゃべり、どんな表情をしていたかも記憶にない。「覚えていようと思わなかったためだ」。やはり消し去りたい過去だった。 ◇ 転機は8年前。牧師を引退し、親族が住む神奈川に居を移していた。旧知の教会関係者に証言を頼まれた。使命感があったわけではない。「求められるなら話してみよう、と」。市民団体などから次々と声が掛かるようになり、反響の大きさに語る責任があることに気付かされた。 証言するということは過去の自分と向き合うことだ。「正直、つらい。できれば黙っていたかった」。過去の否定は、いまの自分を否定することでもある。 同じように人は望みたい歴史にしか目を向けようとしない。 「何をしてきたのかを知らなければ、同じ過ちを繰り返す。語らないことでまた責任が生じる」 従軍慰安婦をめぐる議論が再燃するのと時を同じくし、憲法9条を見据えた改憲や集団的自衛権の解釈変更の議論が政治の舞台で進む。「この国は戦後ではなくもう戦前と言っていい」。そして問い掛ける。 「悪いのは政治家だけだろうか。そうした政治家を選んできたのは、過去と向き合ってこなかった私たち一人一人でもあるはずだ」 ◆旧日本軍従軍慰安婦と河野談話 戦時中、日本軍の戦地や占領地に造られた慰安所で朝鮮半島や中国、フィリピン、インドネシアなどの女性が兵士らに性的暴力を受けた。女性たちは暴行・脅迫や甘言、人身売買により連れられてきた。慰安所設置の計画立案から業者選定、女性集め、慰安所管理までが軍の管理下に置かれていたことは各種資料で裏付けられている。 日本政府は1993年に河野洋平官房長官談話で軍の関与と強制性を認め「おわびと反省」を表明した。 談話をめぐっては2007年に第1次安倍内閣が、軍や官憲が強制連行した証拠は見つかっていないとする政府答弁書を閣議決定。第2次内閣では、安倍晋三首相が談話の見直しを示唆。韓国の反発だけでなく米国の懸念を招き、日米韓首脳会談を前にした今年3月に談話の継承を明言。一方で談話の作成経緯についての検証は行うとしている。 【神奈川新聞】 https://www.google.co.jp/url?sa=t&source=web&cd=1&ved=0CAsQFjAA&url=http%3A%2F%2Fwww.kanaloco.jp%2Farticle%2F70041%2Fcms_id%2F76481&ei=Y9hUU9jiB4z9lAXpoYGgBA&usg=AFQjCNF4oeYmg1r2BQe83tUUAj3v4rkIMA&sig2=avYDBE3k2_XzkyPFVKHYYw |

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「慰安所隠蔽 軍が資金」元日本兵供述の資料 専門家「河野談話裏付け」
2014年3月23日 東京新聞 朝刊 旧日本軍の従軍慰安婦問題で、太平洋戦争中にインドネシアのバリ島に海軍兵曹長として駐屯していた男性が、一九六二年の法務省の調査に「終戦後(慰安所を戦争犯罪の対象に問われないよう)軍から資金をもらい、住民の懐柔工作をした」と供述していたことが分かった。 元兵曹長は「(慰安婦として)現地人など約七十人を連れてきた」「他にも約二百人を部隊の命で連れ込んだ」などと連行の実態も説明していた。 関東学院大の林博史教授(日本近現代史)の研究室が国立公文書館(東京)保管の資料で見つけた。林教授は「河野洋平官房長官談話が認めた軍の関与を裏付けるもので重要だ」と評価している。 安倍政権は、旧日本軍の関与と強制性を認定した河野談話の作成経緯を検証する方針を示している。 法務省の担当者は、男性の供述について「既に公文書館に資料を移管していて確認できず、責任を持って答えられない」と回答した。 法務省の資料によると、元兵曹長は四七年八月、オランダ軍がBC級戦犯を裁いたインドネシア・バタビア(現在のジャカルタ)の軍法会議で、住民への暴行などに問われ、懲役十二年(求刑懲役十五年)の判決を受けた。 元兵曹長は六二年八月の調査に、罪に問われた十件余りは「殴った蹴った程度の事件ばかり」と振り返り「(発覚を)一番恐れたのは慰安所事件だった」と告白した。 強制売春は戦犯行為に問われる。元兵曹長は「軍需部などに強硬談判して約七十万円をもらい、各村長を通じて住民の懐柔工作に使った」と述べ、組織的な隠蔽(いんぺい)を示唆した。「これが完全に功を奏したと見え(慰安婦関連では)一件も訴えが出なかった」と話した。 <河野官房長官談話> 宮沢内閣の河野洋平官房長官が1993年に従軍慰安婦問題の政府認識について発表した談話。「甘言、強圧により本人たちの意思に反して集められた事例が数多くある。官憲などが直接加担したこともあった」と旧日本軍の関与と強制性を認め、慰安婦に謝罪した。歴代内閣は談話を継承してきたが、菅義偉官房長官は談話作成の経緯を検証する方針を表明。安倍晋三首相は3月「安倍内閣で見直すことは考えていない」と述べた。 「日本軍が慰安婦施設運営」…米国の機密文書公開 2014年03月17日09時22分 [? 中央日報/中央日報日本語版] 日本の安倍晋三首相が慰安婦強制動員を認めた河野談話を議論の末に受け入れると明らかにした中、強制動員が事実であることを立証する新たな資料が発見された。 聯合ニュースが14日に米国立公文書館(NARA)から入手した機密解除文書によると、1945年4月にビルマ(現ミャンマー)で米軍が日本軍捕虜を尋問する過程で日本軍が直接慰安所を運営したという証言が出てきた。当時米軍は捕虜に「部隊便宜施設のひとつとして慰安婦を置いているか」を尋ね、ビルマのメイミョーに慰安婦がいたという答えを得た。花代は3.5〜5円で、日本軍兵士の月給は24円だったと証言した。 ほぼ同じ時期に米軍の情報部員が中国人女性看護士をインタビューした文書も出てきた。日本の陸軍軍医官が毎週金曜日に旧満州に位置した慰安所を訪問し慰安婦を定期検診したという内容だ。慰安所には日本女性20人、韓国人女性130人がおり、全員が性病を患っていた。軍医官は性病が深刻と診断された女性には兵士の相手をさせるのを禁止させたといった。2つの文書はそれぞれ米軍G・F・ブルンダ中佐とジェームス・ケデス少佐が作成したものとなっている。 文書の内容は日本軍が慰安所を直接運営したことを語っている。93年の河野談話には、▽慰安所が日本軍の要請によって設置され▽慰安所の設置・管理と慰安婦移送に軍が直接的・間接的に関与し▽募集・移送・管理などが慰安婦本人の意思に反して行われた――と明示されている。談話は米軍が作成した膨大な日本軍捕虜尋問調書と戦犯裁判当時にオランダ人女性らが慰安婦として強制動員されたという証言など広範囲な証拠を基にしたものだった。 ??だが、日本の右翼らは、「敵性国によってねつ造された可能性が大きく信頼できない」などという口実で河野談話を認めようとしていない。 |
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日本こそ拉致国家の親玉だ!
【Romusha】ロームシャ
日本はインドネシアで400万〜1000万人も拉致して地獄のような強制労働をさせた!
Romusha (労務者, Rōmusha?, "laborer") were forced laborers during the Japanese occupation of Indonesia in World War II. The U.S. Library of Congress estimates that in Java, between four to 10 million romusha were forced to work by the Japanese military.[1] About 270,000 of these Javanese laborers were sent to other Japanese-held areas in South East Asia. However, only 52,000 were repatriated to Java.
ロームシャとは第二次世界大戦中、日本のインドネシア占領下で強制連行、強制労働をさせられた人たちのことである。ジャワでは4,000,000〜10,000,000人が旧日本軍のもとで強制労働をさせられた。植民地支配下で日本人にさせられたこれらの人々のうち、約270,000人が東南アジアの他の日本植民地へ強制連行された。しかしわずか52,000人しかジャワに戻ってくることができなかった。
【地獄のような強制連行】
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![]() サンフランシスコ会議議事録にみる各国代表の発言■パキスタン チャンドリイ・モハメッド・ザフルラ・カーン外相(1951年9月6日)
四年になんなんとする間に、日本の侵略の潮はアジア各国に放火と殺戮(さつりく)とを齎(もたら)したのであります。その潮がやっと堰(せ)き止められ遂(つい)に押し返されました。その跡に残りましたのは、荒廃した土地、打ちひしがれて、困苦、貧窮、屈辱に喘ぐ人々でありました。最も耐え難ったのは屈辱、人間の尊厳に対する暴行侮辱でありました。遂にその終末が参りました。そしてその幕切れはまったく突然でありました。日本の占領すなわち死の苦しみに対する熾烈(しれつ)な記憶は依然として消えずしばしば悪夢となって蘇ってくるのであります。それが生き残った者の状態であります。彼らは甘んじて許しも致しましょう。又努めて忘れようとさえ致しましょう。しかしあの無残な、苦難の下に生命を失った人々は何となりましょうか。この人々を忘れ、この人々に代って許すということは一層難しいと思われるのであります。
■インドネシア アーマド・スバルジョ外相(1951年9月7日)
日本人による占領期間中にインドネシアが被った損害は二重であります。第一に、約四百万名の人命の損害があり第二には数十億ドルの物質的損害があります。私はここでその数字を述べることは差し控えましょう。何故ならそうすることはこの会議の主旨にそわないでありましょうから、しかし私の政府は、具体的事実と数字をつかんでおり、それらを適当な時期に適当な場所で提出するでありましょう。
■フィリピン カルロス・P・ロムロ外相(1951年9月7日)
私は、ここで、日本の最も近い隣国の一つであり、不釣合いに重大な破壊を受け、日本のために損害を受けた国を代表して述べているのであります。千八百万の人口のうち、われわれは百万以上の生命を失いました。生命の損失の他に我が国民は未だに癒されない程深い精神的傷手を蒙(こうむ)りました。四年間に亘る野蛮な占領と侵略者に対する不断の抵抗の後、我が国民経済は完全に破滅し去ったのであります。フィリピンがその地域と人口に比して、アジアで最も大いなる惨禍(さんか)を受けた国であるということは意義を挟む余地のないところであります。
■ベトナム トラン・バン・ヒュー首相(1951年9月7日)
ヴェトナムは、アジア全民族中物資的のみならず、その人民の生命においても最大の戦禍を蒙ったものであることは誰しも否めないところであるからであります。そして占領の悲劇的環境が悲惨な結果に陥し入らしめた幾多ヴェトナム人に対し私が今日敬虔(けいけん)な思いを致さなかったならば、私は我々の死者に対する追悼の義務に欠くることなるでありましょう。我が国の蒙った物質的損失もこれに劣らず甚大であり、且つ我が経済は、今もなお困苦の裡(うち)にあります。道路、橋梁(きょうりょう)は、断たれ、村々は、破壊され、病院、学校は、損失を蒙り、港湾、鉄道は、爆破された。すべては再建させなければならず、しかも不幸にも我々が現在可能以上の資源を必要としております。
■ラオス サヴァン首相(1951年9月6日)
長い長期の戦争であり、そのぜい弱な資源を挙げて侵略者に抗戦したラオスは、その土壌、遺跡及びその建物に関して被害を蒙(こうむ)ったのみならず、その経済的及び道義的組織も、侵略者の課しうるすべてのものによって被害を受けたのであります。しかしながら、解放以来、ラオスはその痛手から回復し、その民主的制度はラオスをして最も進歩した国の中に列せしめたのであります。すなわち、戦争の犠牲者として、ラオスは今日自由にして且つ、民主的国家群の中にその地位を占めたのであります。
■カンボジア フレング外相(1951年9月6日)
極東における穀物、魚類、木材、家畜、ゴムの主要生産地の1つであるがゆえのその極めて重要な経済的潜勢力とともに、その地理的戦略的地位のために、我が国もまた、真っ先に日本によって占領されたのであります。この事のために、我が国は、今次大戦によって最も大きな被害を受けたという悲しむべき栄誉を持つ国にその名をつらねているのであります。公的私的財産の受けた大きな被害、長期にわたる占領、日本派遣部隊に対する我が国経済の犠牲による扶持(ふち)、国土の三分の一の数年にわたるき損、これらは、要するに我が国の上にふりかかった禍(わざわい)であります。
参考資料:
【外務省「サンフランシスコ会議議事録」にみる 各国代表の発言】
(総点検 日本の戦争はなんだったか 著 吉岡吉典 新日本出版)
P40〜42
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