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歴史/郷土の歴史

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周恩来、胡錦濤(漢族1942年12月生)や温家宝(漢族1942年9月生)は魅力的な政治家であった。顔で評価したらいけないが習氏はふてくされた自制の効かない感じ、李氏はあまりにも神経質で首相には向かない感じである(この2人は漢族の雰囲気がどうも感じられない!偉大な中華には似つかわしくない蛮族的な感じを醸し出している)。
 
少なくとも胡錦濤、温家宝は習や李両氏よりも賢い雰囲気があった。安倍ちゃんのようにもう一度再当番したらどうか?
 
  温家宝氏の履歴   japanese.cri.cn
 
中国共産党中央政治局常任委員、中国国務院総理。
 
 男、漢族、1942年9月生まれ、天津市出身。1965年4月中国共産党入党。北京地質学院地質構造専攻卒業。最終学歴は大学院(修士課程)。エンジニア。
 
中国の習近平は漢民族を滅ぼそうとしているの?     okwave.jp/qa/q7710750
 
中国清王朝は満州人で、日本が漢人の孫文や蒋介石と協力して満州人を追い出して漢民族の中華民国や現在の中華人民共和国ができたのだけど、習近平の野望は近隣諸国の占領のようですね。こんなこと歴史的に漢民族がしたことないよね。歴史的に蛮族のような事をしたのはモンゴル人の帝国、元の時代だけのように思います。東南アジア全て元の軍門にくだり、日本にも及んだのが元寇の役ですね。日本侵略に失敗した元はその後潰れていますね。

このように歴史を振り返ると、習近平は漢民族とも思えないような振る舞いなんですが、顔もでかくてチンギスハン風ですし、漢人なのかどうかも疑わしいですね
「中国の習近平は漢民族を滅ぼそうとしているの? 」
 
というのが質問ですが、中国人の方も含めて誰でも良いので忌憚なくお答え頂ければ幸いです。
 

「尖閣諸島は日本のもの」と毛沢東、人民日報も言っていた
 
 2013.11.26 ニュース nikkan-spa.jp
 
 日中間で尖閣諸島をめぐって緊張が高まっている。東洋の火薬庫になってしまうのではないかと世界中の注目が集まる中、今月23日、中国国防省は沖縄県の尖閣諸島(中国名・釣魚島)を含む東シナ海に防空識別圏を設定したと発表した。防空識別圏とは、領空とは別に各国が不審機の接近時に緊急発進(スクランブル)を実施する基準として設定する空域のことだ。
 
さらには中国軍機が尖閣諸島付近の領空から数十キロ以内の空域に入り、自衛隊機がスクランブル発進するなど、状況はエスカレート。
 
米国のケリー国務長官が異例のコメントを出すなど、日米両政府の反発も強まっている。
 
陳破空氏

 いつ大規模な衝突が起きてもおかしくない尖閣諸島だが、その背景にある中国共産党の思惑、そして現在の主張とは矛盾した歴史を知り尽くす男がいる。天安門事件の中心的人物として二度投獄され、アメリカに亡命をはたした中国民主化運動家の陳破空氏だ。
 
現在ニューヨーク在住の陳氏は中国民主化に関する論客として台湾や香港で絶大な注目を集める人物だ。そんな陳氏の日本初となる著書「赤い中国消滅 張り子の虎の内幕」が扶桑社より発売される。今回はその驚くべき内容の一部を紹介しながら、尖閣諸島を巡る中国の矛盾と本音に迫ってみたい。
 
◆ 毛沢東は媚日だった!?
 
 現在の国家主席である習近平が自らの体制を堅固なものとするため、中国国内の毛沢東左派を取り入れようとしていることはよく知られている。ところが陳氏によると毛沢東は反日でもなければ、尖閣諸島にまるで興味がなかったというのだ。
 
「歴史について多少の知識があれば、本物の毛沢東は反日でも抗日でもなく、むしろ媚日であったことはすぐにわかる。日中戦争の際、毛沢東は抗日を装いながら、陰で日本軍と通じ、共同で当時の中華民国政府を瓦解させたのだ。
 
(中略)そもそも、中国共産党か政権を樹立した後、毛沢東は尖閣諸島は日本の領土であるとはっきり認めている。こんなちっぽけな島など取るに足りない、と」(「赤い中国消滅 張り子の虎の内幕」113Pより)
 
 国内で習近平が顔色を窺っている毛沢東左派だが、本家本元である当の本人は尖閣にはちっとも興味を持っていなかったとは皮肉な話である。
 
 また、今や強気に尖閣周辺での軍事的圧力を増している中国だが、以前は日本に対し衝突を回避しようとしていたという。ここ数日のニュースからは想像もできないような話だが、その裏には国民に対して権力を誇示したい、いわゆる中国共産党の思惑と面子があるという。
 
「北京はあらゆるルートを通じて、再三にわたって日本政府に対し、中国政府の面子を保ってくれるよう求めたが、日本は聞き入れなかった。(中略)日本政府の尖閣国有化によって、中国政府の面子は丸つぶれとなった。
 
日本の尖閣諸島国有化によって、中国国内の世論が沸騰することは明らかであり、中国政府は国民に対して面目が立たない。必ずや何らかの意志表明、あるいは行動を起こし、 面子を挽回しなければならない。それが、海監の船艇・航空機や、海軍の艦艇、戦闘機を 再三にわたって尖閣諸島へ接近させた理由である。」
 
(「赤い中国消滅 張り子の虎の内幕」134Pより)
 
 尖閣諸島近辺での挑発的な行動も、弱く見られたくないというコンプレックスの裏返しだったとしたら、拍子抜けである。できれば日本は巻き込まないでほしいものだ。
 
◆ 人民日報でも「尖閣諸島は日本のもの」
 
 尖閣諸島が日本のものだと主張しているのは毛沢東だけではない。共産党のお抱えメディアである人民日報にいたっては、尖閣が日本のものだと認めるばかりか、「そんなこと言ってませんから!アメリカの捏造ですよ!」と逆ギレしていたというのだ。
 
「1953年から1958年までに中国共産党機関紙『人民日報』が発表した社説と論文は、『琉球諸島は尖閣諸島を含む』と指摘したうえで、
 
『これらの島嶼は過去いかなる国際協定においても日本を離脱したとの規定がなされていない』
 
と認めている。さらに、いわゆる『中国は琉球の主権を絶対に放棄しない』との言葉は『米国が捏造したもの』であり、中日両国に対する『邪悪な挑発』で、『その目的は日本への帰還を強く望む(沖縄 住民の)感情に打撃を与えることにある』と米国を激しく非難する声明を発表した。」
 
(「赤い中国消滅 張り子の虎の内幕」125Pより)
 
 最近では沖縄も中国のものだと主張していたはずだがが、かつては人民日報までがこう書いていたのである。とても今の紙面からは想像もできないような内容である。仮にも公器である新聞で、こうも簡単に手のひらを返すところがいかにも中国らしいといえば、中国らしい。そのうち「実はあの発言は日本によってねつ造された」と言いかねない。
 
 ちなみに、なぜこのような発言を当時行っていたのかというと、日中国交正常化に際し、尖閣や沖縄の領有権を主張する勢力が中国国内にもいたのだが、それが日本側に伝わると国交正常化の妨げになると当時の毛沢東など中国政府は懸念したのである。そのため、そういうことを言ってる人たちはアメリカが仕込んだことだと流布したわけである。
 
 このように尖閣諸島をめぐる中国の姿勢は時代や状況とともにコロコロ変化をしている。しかし、もし本当に軍事的な衝突が起きたらどうなってしまうのかと不安は拭いきれない。
 
ところが本書で陳氏は腐敗まみれの中国人民解放軍は日本に勝てるわけがないと指摘している。

転載元転載元: 時の旅人Yoshipyuta




【普通の歴史】1−6 江戸から明治へ(6)




「bakumatusaigotdyno.329-(12:24).mp3」をダウンロード

中国とイギリスの間で起こったアヘン戦争は隣国・日本に衝撃を与えずにはおられなかった。当時、長崎でこのアヘン戦争についての詳報に接した吉田松陰は驚愕した。平戸滞在中に松蔭が読んだとされる書物に「阿芙蓉彙聞」七冊があり、松蔭がその後も必読書としてあげているものにも「阿片始末」がある。


もし日本がヨーロッパに侵略されたら、日本人は殺され、痲薬を吸うことを強制され、日本は崩壊してしまうと思っても不思議ではない。それが歴史的事実だからだ。吉田松陰自身は安政の大獄に連座して処刑されたが、彼の思想はその後長く日本政治に影響を及ぼした。

つまり、世界でもまれに見る「無血」の政権交代、つまり260年続いた徳川幕府が江戸城を無血開城して、内戦をほとんどしないで明治維新を迎えたのは、必ずしも偶然ではなかった。

当時の江戸幕府はまだかなりの力を持っていたし、戦闘能力もあった。しかし、ヨーロッパの強い圧力が「そんなことをしていると危険だ」という雰囲気を作り、そこに西郷隆盛、勝海舟という英傑が登場して政権が委譲されたのは日本にとって幸運なことだった。

当時、イギリスから派遣されていた大使オールコックなどヨーロッパ諸国は日本の利権の奪い合いをしていたが、日本人はどうも他のアジア民族と違うという意識はあった。

オランダから寄贈されたスヌービング号という蒸気船を指導に来たオランダの技師カッテンディーケはちょんまげを結い、刀を差し、白昼でも甲板で所構わず小便をする「武士」という集団が、臆することもなくスパナを握って蒸気船のエンジンに取り組むのにビックリしていた。

ヨーロッパの学問や技術をためらうことなく吸収する日本人は指導したオランダ人には奇異に感じたらしい。

日本刀を腰に差して結局単独でスヌービング号を江戸に回航した。こんなことは他のアジアアフリカの人にはない特徴だった。また黒船を東京湾に進出させて「一般公開」すると「普通の日本人」が我も我もと小舟に乗ってきて乗船し、物珍しげに船内を見ることも驚きだった。

他のアジアアフリカ民族なら遠巻きにするし、上層部は別にしても庶民が平気で近づいてくるなどということは無かったからだ。

このような現象は「ヨーロッパの学問的書籍の翻訳」でも日本らしさが爆発した。杉田玄白の解体新書が日本語に訳されたのは有名だが、理工学書の多くが翻訳され、福沢諭吉はヨーロッパの単語を翻訳できるように、膨大な造語辞典を作った。

ヨーロッパの言葉がわからなければダメというのではなく、日本人なら誰もがヨーロッパの学問を勉強できるようにしたのも、アジア、アフリカ広しといえども日本だけだった。

当時、世界でヨーロッパの侵略を免れていたのは、中国の日本だけだったが、中国は衰えた清が政権交代しないで次々と領土や利権を外国に手放したのに対して、日本は衰退した徳川幕府を明治政府に変えることができたので、ヨーロッパ勢も日本への侵略には躊躇していた。

あれほど人望があり、維新の最大の貢献者が「征韓論」を唱えたとき、鹿児島から明治政府に入っていた人も、その他の重要人物も西郷隆盛から離れた。「我々の敵はヨーロッパ勢だ」ということについてのコンセンサスが日本の上層部にあったからだった。

かなり足早に進んできたけれど、歴史はまず「大きな流れ」から整理を進める必要がある。細かい年号も歴史の専門家なら当然必要であるし、細かい年号が決定的な意味を持つこともある。でも、それより遙かに重要なのは「歴史の大きな流れ」であることは間違いない.

「明治維新はなぜ起こったのか?」、「なぜアジア・アフリカ・アメリカのなかで日本だけがアーリア人に占領されなかったのか?」ということをまず考えて見ると、もちろん、偶然ではなく、ヨーロッパ勢が世界制覇を進め、その最終段階として中国と日本を取りに来た.中国は「清」という古い政権のまま持ちこたえようとしたけれど、失敗して領土を食い荒らされていた.日本は何とか徳川幕府から体制を入れ替えて近代化を進めて、侵略されるのを防ごうとした.その一つの理由が日本人が科学技術を理解できる民族だったこと、階級制がなくヨーロッパの書籍を翻訳したことなどが考えられる。

歴史的事実としては、日本はその後、軍事力によって独立を保って植民地になるのを防ぎ、さらに日本自体がヨーロッパ勢の仲間入りをして国の力を増やしていった. 日清戦争から大東亜戦争にいたる約50年。日本の取った道は、必然的だったのか? 侵略的だったのか? 最も望ましい選択をしたのか? まだ日本の歴史はその見解を示してはいない。

でもすでに大東亜戦争が終わって70年。充分に冷静に歴史を考える時間は与えられている.そこでここでは、日清戦争から大東亜戦争までの経過を最小限のスペースで整理をして、さらに理解を深めていきたいと思う.

(平成25年8月7日)


武田邦彦

韓国世論「旭日旗とナチス党旗を同一視」の大いなる誤解

Y! 【サーチナ】 2013/04/16(火)
 
  韓国では、旧日本軍が軍旗として用い、現在は自衛隊が用いている「旭日旗」を、「ナチス党旗と同じ性格の旗」として非難する世論が沸騰することがある。韓国人にとって近代の日韓関係が「屈辱の歴史」であり、“過去の問題”に敏感になることは理解できるとしても、「事実とは異なる根拠」にもとづく対日反発がひとり歩きする場合も、しばしばある。日本人としては、受け入れかねることも多い。両国関係を難しくする一因だ。
 
思想のシンボルである「ナチス党旗」
  まず、ナチスが党旗として採用したハーケンクロイツ、いわゆるカギ十字(逆カギ十字)を考えてみよう。発端は、ドイツの考古学者ハインリッヒ・シュリーマンがトロイの遺跡で「カギ十字」のデザインを発見したことだった。シュリーマンは「ハーケンクロイツ」をインド・ヨーロッパ語族に共通する宗教シンボルと考えた。
 
  さらにハーケンクロイツは「インド・ヨーロッパ語族の全民族は、共通の祖先アーリア人から発生した。ドイツが最も純粋にアーリア人の血を受け継ぐ民族」という、「アーリア人=ドイツ民族優越説」のシンボルになっていった。
 
  その後、ヒトラー率いるナチス(国家社会主義ドイツ労働者党)は、党旗に「赤地の中央部分に白い円があり、白い円の中にハーケンクロイツを配す」デザインを採用。ヒトラーは「赤は社会理念」、「白は国家主義理念」、「ハーケンクロイツは、アーリア人種の勝利のために戦う使命」を表わすと説明した。
 
  つまり、ハーケンクロイツ旗はナチス党旗になった当初から「アーリア民族の優位性」、「アーリア人勝利のために戦う、侵略主義的発想」と結びついていた、ナチス特有の思想のシンボルだった。
 
  ヒトラーが政権を掌握した後の1935年、ナチス党旗は正式にドイツ国旗になった。
 
特定思想には無縁だった日章旗と旭日旗
  一方、旭日旗は日章旗(日の丸)が土台になったデザインだ。「日の丸」そのものは平安時代末期から使われ、縁起物として江戸時代には普及していた。日章旗の起源は、世界的にも珍しくはない「太陽信仰」であり、民衆も愛好したデザインだった。人々は要するに「めでたい」と感じたから「日の丸」を好んだわけであり、「思想的背景」がとくにあったわけではない。
 
  日章旗は1859年、徳川幕府によって日本の国旗として採用された。明治政府も国旗として用いることにした。国旗というものはたいていの場合、国としての理念や歴史をデザイン化したものだ。革命や独立など、苦難に満ち、犠牲者の血で彩られた歴史を反映している場合も珍しくない。
 
  日章旗の場合、素朴な太陽信仰を起源に持ち、多くの日本人が「そのデザインが好きだった」ということで、最終的に国旗にもなった。誤解を恐れず言えば、“きわめてのん気”にできあがった国旗であり、そのデザインの背景は「争いごと」と無縁だった。
 
  旭日旗は、中央に配した「日の丸」が16条の光線を放つ意匠だ。1870年の太政官布告第355号で、「陸軍御国旗」として正式に定められた。1889年には海軍用として、陸軍の軍旗の「日の丸」部分の位置をやや旗竿に寄せるデザインの「軍艦旗」が制定された。
 
  旭日の意匠は軍旗として採用されるはるか以前から、「めでたさ」を強調するために、民間で祝い事などに用いられていた。
 
  第二次世界大戦敗戦で陸海軍が共に解体されたため、軍旗として旭日旗が用いられることは途絶えた。しかし1954年に発足した陸上自衛隊は旧陸軍軍旗を元にした八条旭日旗の「自衛隊旗(連隊旗)」を、同年発足の海上自衛隊は旧海軍軍艦旗と同じ意匠の「自衛艦旗」を採用した。
 
事実を無視した日本批判は自らに「害毒」
  日本は1910年から45年まで日韓併合の形式で、韓国を植民地支配した。手続き上の問題はともかく、現代に生きる韓国人にとっては「屈辱の歴史」であり、「日本の過去」についてとりわけ敏感になることも、理由がないとは言えない。
 
  ただし、日本を批判するならば、一定の割合の日本人を「その通りだ」あるいは最低限「韓国側の言い分にも一理ある」と思わせる論法を用いないと、意味がないだけでなくて逆効果になるのではないか。
 
  韓国側の主張に対してたいていの日本人が「あきらかにおかしい」、「異常な反応だ」と感じたのでは、次の機会に韓国側が根拠ある主張をしても、日本人は人間の特性として「また始まった」とばかりに、きちんと耳を貸さなくなるだろうからだ。
 
  「ナチス党旗と旭日旗」の問題にしても、歴史を少しだけ調べれば、両者の持つ背景がまるで違うことが分るはずだ。
 
  もちろん、純粋に論理的に考えれば、「日本が過去において、周辺国を侵略する際に使った国家的なシンボルは、すべて使うべきではない」と主張することもできる。ただその場合、旭日旗や日章旗だけでなく、英国国旗、英国軍旗、フランス国旗、フランス軍旗など、かつての欧州列強が伝統的に用いている旗には、すべて異議を唱えなければならなくなる。
 
  ちなみに韓国は1960−75年のベトナム戦争において、南側のベトナム共和国を支援するため、米国の延べ55万3000人に次ぐ延べ32万5900人の兵力を送り込んでいる。その後ベトナムを統一したベトナム民主共和国にとってみれば韓国はあきらかに「ベトナム戦争における侵略側」であり、仮にベトナムが韓国軍旗について「わが国侵略のシンボルだった。使用は好ましくない」と主張した場合、韓国人は(旭日旗を排斥するならば)自らの主義主張にもとづき「誠実に対応すべき」という“理屈”になる。(編集担当:如月隼人)
 
【関連記事・情報】

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英ロックバンド、新PVに「旭日旗使用」と韓国からクレーム受ける(2013/04/24)
【韓国BBS】サッカーの応援で旭日旗、「ナチスと同じ戦犯旗」(2013/04/16)
韓国人が抗議で変更を強要…旭日旗に似たデザインの弁当=英国(2013/04/02)
「英オンラインゲームに旭日旗」韓国ゲーマーら削除求める署名運動(2013/06/27)
 

転載元転載元: 本願成就と如来回向

郷土の偉人ー土居清良 ケータイ投稿記事

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昨日、東京で執筆活動をしている先輩から携帯に電話が入っていた。
何事かと思ってかけ直すと、宇和島に帰っていると言う。「土居清良」について調べているらしい。彼のことだ。『兎の耳』http://i.bookmeter.com/b/4915699021同様、物議を喚ぶ大作を上梓することだろう。楽しみではある。

昨日、取引のある銀行から若い女性銀行員がやって来た。「美人」の多い三間出身の「土居」さんだった。多分、土居清良公のご子孫だろう(と勝手に推測した)。

土居清良公の血統は、農家として三間にしっかりと現存されている。これは強みだ。東京辺りに居を構えて「第〇〇代当主」を名乗るのとは質が違う。

そろそろ郷土・三間について語るコーナーを設けようと考えた。第一弾はやはり、我等が土居清良公を取り上げるのが相応しい。郷土家の木ノ本忠雄先生執筆の「清良さま」は、小学生にも分かりやすいので引用する。http://www.geocities.jp/megu798/seiryo/library/kiyoyoshi.html

『清良さま』
清良さま(土居清良公)は、今からおよそ420年前、三間大森の城主として、この地方を守り治めた戦国の武将です。
永禄3年(1560)9月、祖父宗雲の立てこもった立間の石城は、ついに大友軍のために陥れられ、一族の多くは皆この戦で戦死しました。
このとき一代の烈女、祖母妙栄は、当年わずか15歳の清良を呼び寄せ、
「今は頼みとするのはそなただけである。よくこの憂き目を心にとめて、一度土佐の一条家にたより、いつかこの土居家を再興させるのじゃ。」
と、言い聞かせました。
清良は、祖母の言いつけをよく守り、危うく敵手を逃れて土佐中村の一条家に身をよせました。 土佐での清良は、土居一族の大ファンである一条家の家老、土居家忠のあたたかい思いやりによってときの来るのを待ちました。
いつか2年の歳月が流れました。
永禄5年(1563)7月、幡田高原を後にした清良は、土居家再興の希望を抱いて、なつかしい故郷三間大森城に帰りました。
しかし、小さい国、弱い武将は、ようしゃなく討ち滅ぼされるきびしい戦国の世です。群雄のまっただ中で、名もない土居家にとっては、一日も安閑しておられません。
清良は、どうすれば外敵から一族を守り、三間の里を平和に治めていかれるかということに、常に最大の苦心をはらいました。
「これからの戦いに勝つためには、まず鉄砲を取り入れることだ。」
と、考えました。そこでさっそく近江甲賀の鉄砲かじを呼び寄せ、研究を重ねた結果、従来のものよりははるかに性能の高い新型の鉄砲を造り上げました。
そして、さらに大切なことは、農業を勧め国を富ますことにあると考え、先代からの重臣で篤農家、松浦宗案をまねき、農業についていろいろたずねました。
宗案は、日本ではじめての農書を著したほどの人です。なにかと新しい農法を進言しました。清良は、宗案の豊かな知識や体験に感心し、さらに研究をさせました。
このころ、秋の収穫時をねらっては、土佐の一条軍がたびたび三間の里に押しかけ、稲を奪い取っていました。
ある年のことです。一条軍はいつものように豊かに実った稲を奪い取ろうと秋をねらっておしかけて来たのです。しかし、そのときはすでに三間の里は稲刈りが終わっていました。こんなことはないとうろつくところを土居軍の精鋭によってひとたまりもなく追い払われてしまいました。
これは、宗案の研究によって、領民たちが早稲苗を植え、収穫の時期を早めたからです。稲作の略奪に頭をいためていた清良も大いに喜び、ますます農業を勧めることに力を入れました。
百姓はいうまでもなく、武士たちも朝夕は武術の訓練をし、昼間は百姓すがたで農業にいそしみました。
このように、武士も百姓も一体となって宗案の指導のもとに農耕に精を出したので、三間の里はたいへん豊かになりました。
その年の秋は、ものすごい風雨に見まわれました。さすがの宗案もこれだけは防ぎようがありません。三間川のどろ水が一面海となって稲をしずめ、米は一粒もとれませんでした。
清良は
「米倉の米を全部出して領民に分け与えよ。」
と、家臣に命じました。
「それはなりません。いくさに備えた兵糧米がなくなってはたいへんです。」
と、家臣はとめました。しかし、清良は声を大にして言いました。
「いや、領民があるからこそ、この土居家もあるのだ。かまわぬ、すべての米を出せ。」
そばで宗案もにっこりうなずいていました。
翌年は豊作でした。領民たちはきそって米俵を清良の米倉に運びました。
また、清良は、毎年秋の取り入れが終わった頃、すべての領民を城内に招いて、ごちそうと酒をふるまいました。
君主と領民の差別もなく、武士と百姓の区別もなく、すべてがうちとけ一体となっていました。城内は夜が更けるまで喜びの声がはずんでいました。
このように、領民をおもうよい君主の治政によって三間の里には、あたたかい歳月が流れました。
かねてから四国全土の平定をめざしていた土佐の長曽我部元親という強力な武将が大軍を率いて三間の里に攻め寄せて来ました。
元親の軍は、手はじめに岡本城をねらいました。大森城の手前、小高い山の上にあるこの城は、戦国時代にはめずらしく本丸、二の丸、三の丸が築かれていました。
「かたい城です。容易なことでは落とせません。しかし、城兵のほとんどがわれわれが攻めようとする東側に集まっています。」
元親は、夜を待ってひそかに忍びの者を出していたのです。大きくうなずいた元親は、本隊を三間川のはるか下流にとどめると数十の奇襲隊をよりすぐって城の後ろにまわらせました。
奇襲隊は暗闇のなか、つたを伝わり、岩をよじ登って岡本城の中に入り込み、一気に本丸へ突入しました。
不意をつかれた本丸の城兵は、あわてふためき、もろくもきりくずされてしまいました。続いて、二の丸、三の丸も落とされました。
物見の兵によって大森城に岡本城落城の知らせが届いたのは、初夏の夜もだいぶん更けていました。城内では、清良以下すべての武将が集まって作戦を練っているところでした。
やみをすかしてみると岡本城に火がゆれていました。
「それで、元親の本隊はどうした。」
清良は、まだ肩で荒い息をしている物見の兵にたずねました。
「はっ、三間川のずっと下流におります。」
兵の言葉が終わらぬうちに清良は立ち上がりました。
「よし、今だ。夜が明けぬうちに岡本城を取り戻すのじゃ。全員出陣せよ。鉄砲隊は川原へ向かえ。決して音を立てるなよ。」
土地にくわしい土居軍は、やみにまぎれて、岡本城に迫りました。
勝利によっていた元親軍が今度はあわてていました。祝い酒にしびれた元親の兵はまたたく間にけちらされました。
朝もやがはれた岡本城の本丸には、清良の命によって長曽我部の旗印が大きくふられていました。
「奇襲隊が岡本城を落としたぞ。」
「さあ城にはいろう。」
戦う用意もわすれた元親の本隊は三間川のほとりをわれがちに城へ向かっていきました。
本隊が身の丈ほどもある大ぎさにおおわれた川原にきたときです。朝の静けさを破って数百ちょうの鉄砲がごう音と共にいっせいに火を吹きました。2段、3段の構えで訓練された鉄砲隊は元親軍をうちまくりました。
悲鳴やいななきが入り乱れ、人や馬が折り重なってたおれました。
この思いもよらぬ大敗北で多くの将兵を失った元親軍はあたふたと土佐に逃げていきました。
見れば岡本城には楓御紋もあざやかな土居家の旗じるしが大きくひらめいていました。
元親は、これまでに十数回三間の里に攻めてきました。土居軍との合戦も30回を数えましたが、一度も勝つことができず、多くの将兵を討たれていました。
岡本城の合戦で大敗した元親は、清良の力に恐れてこれから後三間の地には攻めてきませんでした。
知略にたけた清良の名は広く天下に知られました。西園寺(土居家の主君)の命をうけ、遠く中国地方にまで出陣して手がらをたてました。ある時、小早川隆景という武将が清良の知勇に感じて、
「清良を5カ国の大将にすれば必ず天下を統一する。」
と、言ってほめたたえました。
長い戦火に明け暮れた天下が信長の時代をへて、秀吉の時となりました。秀吉は四国を平定し、西園寺家も滅亡しました。
この時、清良は城に留まることを許されましたが、これをことわって土居垣内に隠居しました。天正15年(1587)清良42歳のときでした。
その後、宇和島藩主(当時、藤堂高虎)も度々つかいをもってぜひ家臣になってくれるようにたのみましたが、清良はこれをことわりました。
戦乱の世に、群がる外敵を防いで郷土の平和を守り、領民をいつくしんだ清良は、その後も百姓とともにくらしながら寛永6年(1629)84歳でこの世を去りました。
村人は社を建ててその遺徳をしのびました。
三間町土居中にある清良さま(清良神社)がそれです。
秋晴れの一日境内に立つと、黄金色の三間平野の彼方に大森城趾が見え、老松に吹く風はその昔を物語っているようです。

【関連情報】
「土居清良」http://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E5%B1%85%E6%B8%85%E8%89%AF
「土居清良廟」http://www.city.uwajima.ehime.jp/www/contents/1287712495038/index.html

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