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『続々・原達也の映画日誌2017年、好きな音楽の事』から移転しました。
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 とある音楽雑誌で近年に撮影されたと思しき、元『GARO』の通称「ヴォーカル」(大野真澄)と遠藤賢司と中川五郎が映ってる写真を見た。70年代前半にヒットシングルを連発したフォ―クグループGAROと、マイナーなURCレコード出身の遠藤賢司と中川五郎との接点なんて殆どんなかった様に思われるが、その長髪からも分かる様に元々GAROはヒッピー世代のウエスト・コースト系ロックに影響されて結成された、生ギターを主に演奏する三人組で『CSN&Y』(クロスビー、スティルス、ナッシュ&ヤング)のコピーを得意にし、71年の『第三回中津川フォークジャンボリー』にも出演している。堀内護(通称マーク)はロックミュージカル『ヘアー』日本版に出演した経験があり、日高富明(通称トミー)はブレイク前の『オフ・コース』時代の小田和正と交流があったという。
 彼らがレコードデビューした『マッシュルームレコード』は村井邦彦らが創立した、コロムビアレコード傘下のレーベルだった。しかしGAROがデビューした後に深刻な業務不振に陥り、さっき聴いたGAROの2ndアルバムは会社側の意向でアナログA面は職業音楽家の作った曲、B面は洋楽の日本語カバーで占められている。プロデューサーは本ブログで紹介済みの『ジプシー・ブラッド』の『ろっこうおろし』と同じくミッキー・カーティス。バッキングには『井上堯之バンド』、元『はちみつぱい』の駒沢裕城(スティールギター)、変名であの細野晴臣もベースで参加…となかなか豪華な面子だ。

 アナログA面1曲目『美しすぎて』(作詞・山上路夫 作曲・村井邦彦)は本アルバムのシングルカット曲。爽やかなアコースティックギターのリズムが心地よいソフトロックタイプの曲で歌詞もロマンチック。しかしさすがCSN&Yを指標としていただけあって流暢なコーラスワークにはウエスト・コースト色が漂っていて悪くない。
 2曲目『水車は唄うけど』(作詞・山上路夫 作曲・すぎやまこういち)はトミーのリード・ヴォーカル。望郷の念と子供時代の記憶が交錯した曲で、落ち着いた演奏に好感が持てる。でも野郎が聴くにはちょっと甘口過ぎるかも。
 3曲目『学生街の喫茶店』(作詞・山上路夫 作曲・すぎやまこういち》は『美しすぎて』のB面曲だったが、結果的にこっちの方が有線から火が点き73年2月〜4月間にオリコンチャート7週№1の大ヒットとなった。モロ「昔は良かった」的な歌詞が一般層にも浸透したのだろうか。ヴォーカルの低音ヴォイスも印象的だった。この曲のベースを弾いているのが細野。恥ずかしい話だが「ボブ・ディラン」と言う固有名詞はこの曲の歌詞で初めて知った。
 4曲目『蝶が跳ぶ日』(作詞・山上路夫 作曲・村井邦彦)はストリングスの入り方など聴くと米国のソフト・ロックバンド『ブレッド』の影響を感じる。夏の日の「君」への想い出を綴った歌詞はやはり甘ったるいが、ストリングス効果で楽曲としてのレベルはかなり高いと思う。
 A面最後の曲『四葉のクローバー』(作詞・山上路夫 作曲・かまやつひろし)はかつて彼らがバックバンドを務めていたかまやつひろしシングル曲のカバー。イントロのアコースティックギタープレイやコーラスワークのアレンジなど正にCSN&Y風で、A面曲でメンバーの演奏力の熟練ぶりを一番感じさせる好カバー。しかしこの曲は電波では流せないだろう…。

 アナログB面1曲目『ベイビー・ア・アイム・ウォント・ユー』は、件のブレッドが『愛の別れ道』の邦題でシングルヒットした曲。アメリカン・ポップスと歌謡曲詞とのカップリングが意外と悪くない。井上堯之らしいギターも聞こえてくるし、本家を強く意識しながらの丁重なカバーぶりである。
 2曲目『レット・イット・ビー』は説明不要な名曲。オリジナル通りピアノの前奏から始まる。ヴォーカルの男らしいヴォーカル(ややこしい説明)と、ビートルズの面々に成りきった?残りの二人のコーラスワークが聴き物。「自分らしく生きよう」との素朴なメッセージも悪くはないが、やはり俺としては井上堯之のジョージ張りの間奏リードギターに聴き惚れてしまいます。
 3曲目『マイ・レディ』は英国で『マシューズ・ザザン・コンフォート』というバンドを率いていたイアン・マシューズの作になる曲で、70年に発売されたサザン・コンフォートの三枚目のアルバムに収録。日本語詞はヴォーカル作。マークの遺したブログによるとこの曲か、同じく彼らがカバーしていたジョニ・ミッチェル作『ウッドストック』を選ぶかで随分揉めたそうだ。ヴォーカルはトミー。歌詞はあまりにシンプル過ぎてこれといった感想が浮かんでこないのだが、多分年上の女との恋愛を唄った物だろう。バンドスタイルの演奏だが間奏のリードは生ギターで決めてくれる。
 4曲目はまたまたビートルズ後期曲のカバー『ビコーズ』。アルペジオのアコースティックギターから始まり、美しいコーラスワークでストレートに世界平和を訴える。カバーバージョンは他にも沢山あるので、それらと聴き比べるのもいいかも。
 最後の曲『グッド・モーニング・スターシャイン』は前述した『ヘアー』の中で唄われた曲。日本版公演の仕掛け人だった川添象太郎がほんの少しだけ日本語詞を付けており、米国ではオリヴァーという歌手がカバーし米英で大ヒットした。「解放」をイメージ付けるフォーク・ロックスタイルの演奏はいかにも60年代ぽい感じで、リードヴォーカルを取るマークは、この曲を唄えた事に関しては感無量だったと推測される。
 
 製作側としては村井邦彦が仕掛けて成功した『赤い鳥』路線の、フォ―クとポップスの中庸的なグループとしてGAROを再売出ししたいとの意図があったと思われる。正直自作曲を禁じられたGAROメンバーの心情は複雑な物だったと思うが、演奏サイドの充実もあり今聴くとA面も露骨な歌謡フォーク路線という感じまではしないし、B面も三人のピュアなコーラスワークが光り、アルバムとして聴いている部分では心地よい気持ちに浸れる。A面のベストトラックは6曲目、B面はやはり原曲の偉大さもあって『レット・イット・ビー』か。この曲に日本語詞を付けてカバーしたのはGAROが初めてだったのでは。
 ともかく『学生街の喫茶店』がGAROのその後を決定づけたのは事実で、この曲の感傷性だけを増幅した様なシングル曲を連発してTVの歌番組にも普通に出演、アイドル的な人気を博したのはいいが、やはり自分たちの本当にやりたい音楽とのギャップが徐々に生じてきたのは致し方なく、やがてGAROは76年の解散に向けアルバム制作の現場で音楽性をシフトチェンジしていった。もうマークとトミーは故人になってしまい、三人の絶妙なコーラスワークは二度と聴く事はできないのが残念。
 
GARO『四葉のクローバー』https://youtu.be/3l9DVyPa49E
 


 

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 1851年。開拓民幌馬車隊と行動を共にしていたダンソン(ジョン・ウェイン)は牧場になりそうな土地を見つけ、幌馬車隊に別れを告げる。ダンソンは厳しい生活を予測し彼に惚れたフェンに形見の腕輪を渡し再会を誓う。ダンソンを信用してるグルート(ウォルター・ブレナン)も行動を共にした。その後幌馬車隊はインディアンに襲われる。ダンソンも襲われ殺した一人のインディアンがあの腕輪をしていたのを見て愕然…。

 東京在住最後の年の大晦日、渋谷でハワード・ホークス作品を観た。『コンドル』(39)『脱出』(44)の二本立てで超満員、空いてる座席が他になかったので前から二列目の端っこという最悪の環境で観た…と昔のブログに書いてある。渋谷の映画館に行ったのもこの時が最後だったと思う。懐かしい…。それ以来のハワード・ホークス作品鑑賞となる本作は、ジョン・ウェインが初めてハワード・ホークス監督作に出演した物で、ジョン・ウェインにとって『駅馬車』(38)以来の当たり役に。共演のモンゴメリー・クリフトは本作で映画デビューしてブレイクのきっかけを掴んだ。

 ダンソンは幌馬車隊で生き残った少年マシューと出会い、彼を養子にしてミシシッピー川の側に広大な牧場を作った。それから14年後。南北戦争が終わりダンソンの牧場の牛は1万頭を越えていたが、南部には牛を買ってくれる業者がいなくなっていた。南北戦争から帰ってきたマシュー(モンゴメリー・クリフト)を迎えたダンソンは、牛を売る為にセダリアという街まで牛を引き連れて大移動する計画を立てる。周囲の反対もあたったがダンソンは耳を貸さなかった。多くの牧童を雇い入れ旅に出たダンソン。しかしマシューは厳格なダンソンと牧童たちとの板挟みに立たされる…。

 インディアンとの銃撃戦など西部劇らしい見せ場と共に主軸となってるのが、ダントンとマシューの確執。頑固一徹で統率を乱す牧童に厳しく接する養父に悩む息子。牧童たちの不満が爆発寸前になり、マシューは断腸の想いで一行からダンソンをはずす事を決める。追放された事で深くプライドを傷つけられ、仲間を集め先発していった牧場隊を追跡するダンソン。このままだと親子の骨肉の争いかと観る者はドキドキしながらラストまで。西部劇と家族ドラマを兼ね合わせた分かり易いストーリーで大衆受けして当然でしょう。ホークス映画常連のウォルター・ブレナンの助演もイイ。

作品評価★★★
(養父役という事で40代になったばかりなのに老け役を演じているジョン・ウェイン。その初老ぶりがまんま西部の男の世代交代を暗示している様な設定になっている。息子との和解の鍵を握る女の登場で、ちょっと親子間で三角関係ぽくなる趣向もあったりして楽しめる)

映画四方山話その311〜荒井晴彦御大の愛娘もシナリオライターになっていた
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 先日本屋で久々月刊『シナリオ』を手にしてパラパラめくっていたら、荒井美早という未知の女性シナリオライターの映画脚本が採録してあった。何の気無しに彼女の履歴を読んでみたら荒井晴彦の娘だと書いてある。シナリオ界の重鎮兼『映画芸術』発行人・荒井晴彦の娘がシナリオライターになっていたとは全く知らなかった。
 はっきり言って今は有名芸能人の二世というだけで無能でも俳優やタレントになれたりする時代だが、書き手となるとそれなりの才能がなければ親と同じ職業になるのは無理だ。だから二世シナリオライターというのもあまり多くない。二世シナリオライターで成功したと言えるのは、八住利雄の息子だった白坂依志夫ぐらいではないだろうか。
 父がシナリオライターという家族のイメージはど凡庸家庭に育った俺には全く想像できない物だが、白坂依志夫はその育ちの環境の特殊さ故からか若い頃から同世代の気鋭文化人との交流を深め、それを反映して彼のシナリオ作品も増村保造監督作を始めとして世間の良識や常識に反旗する様な大胆なストーリー設定の物が多かった。序に女性関係も随分派手だったらしいけど。父親の八住利雄については俺のリアムタイムな世代のシナリオライターではないのでどういう感じの人なのかよう分からんけれど、白坂依志夫みたいな個性的なシナリオライターはもう日本映画界には二度と登場してこないだろう。
 で、荒井美早サンの父親の荒井晴彦はというと、実感派のシナリオライターという感じがする。『Wの悲劇』(84)の薬師丸ひろ子の有名な台詞「顏ぶたないで!私女優なんだから!」は、荒井の実体験そのままの台詞だったというのには驚いた(若い頃の荒井が痴話喧嘩した時女から言われた言葉「顏ぶたないで!私女の子なんだから!」の「女の子」を「女優」に変えた)。そういう実体験から得たイメージをそこはかとなくシナリオに塗り込められる辺りが荒井晴彦のシナリオライターとしての真骨頂だと思えるのだが、娘さんはそんな父親の作品や日頃の生活ぶりを長年見てきて、それが自分の書くシナリオに反映されているって事もあるのかな? 処女映画脚本作品『空の瞳とカタツムリ』(監督・斎藤久志)はお蔵入りしていたらしいが漸く今年公開に漕ぎつけたとか。田舎在住ではなかなか観る機会はないかもしれないけど…。
 ところで荒井美早サンは師匠として父親と共に荒戸源次郎の名前を挙げている。となると最近話題の新井浩文とは妹弟子的な関係になるのか。同じ「アライ」繋がりでもえらい違いではありますね。








 







 
 

 

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 老ギャングのシャルル(ジャン・ギャバン)は五年の刑を終えて刑務所を出所したが、妻の反対を押し切り懲りずに次の計画を立てる。それはカンヌにあるカジノの売上金をごっそり戴く事。昔の仲間から情報を聞きだしたシャルルは相棒として刑務所で同房だった若いフランシス(アラン・ドロン)に白羽の矢を立てる。車がどうしても必要なのでフランシスの義兄で自動車修理工のルイ(モーリス・ビロー)も仲間に引き入れ…。

 戦前から活躍し数々の名作にも出演しているフランス映画界きっての名優であるジャン・ギャバンと、60年代になってメキメキ売り出した、まだ若手俳優だったイケメン男アラン・ドロンは三度に渡って共演しているが、最も有名なのは本作だろう。老いて単独犯行が難しくなったギャングがムショで知り合った若いチンピラを仲間に引き入れ現金強奪計画を練る…というフィルム・ノアール。監督のアンリ・ヴェルヌイユはジャン・ギャバンがしがない中年男を演じた傑作『ヘッドライト』(55)を撮った名匠。ギャバンとドロンの再共演作『シシリアン』(69)もこの人の監督。

 シャルルはフランシスをセレブ階級の御曹司に仕立て、先発させて高級ホテルに逗留させる。フランシスの最初の仕事はカジノ場の天井に忍び込めるようにカジノ場付属の劇場に自由に出入りできる顏馴染みになる事だった。狙い通りにフランシスは一人の踊子と懇ろになってクリア。犯行の夜はシャルルが駐車場に車で待機、フランシスがエレベーターの屋根に掴まって地下に降り、売上金を金庫にしまおうとする従業員をマシンガンで脅しシャルルを招き入れ、盗んだ現金入りのバッグはフランシスが長期レンタルした更衣室に隠しておく手筈。当日計画は見事成功したと思えたが…。

 長い間ムショに入っていてもめげず更なる犯行を考える老ギャングの執念と共に、老いて誰かの手を借りずにいられなくなった哀しさも感じる。相棒に選んだ男は若いだけに度胸はあるが慎重さに欠け、老ギャングの言う事を忠実に守ろうとはしない。結果若僧のミスから大手を振ってカンヌを去る訳にはいかなくなり、ホテルのプールサイドで老ギャングか若僧から金入りのバッグを受け取る事にするが警察捜査の目が光っており、二人は鼻の先の距離にいるのに接触するのが適わない。その焦れったさに耐えかねた若僧が取った行動が何ともやるせなく、傍観する老ギャングもまた…。

作品評価★★★★
(鮮烈なラストシーンは何処か虚無的な空気が漂っている。してやったりと思っていたのにカジノ側は保険に入っており、盗まれた金額の二倍の金が出ると盗み聞きした若僧の中で何かがプツッと切れた様な…。サングラスの下の、老ギャングの厳しい眼差しも想像できる)

映画四方山話その310〜フィクションでも許されない東京五輪中止
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 新井浩文が準主役で出演している作品の公開中止が決まった。これについても俺はどうかと思う部分もあるとはいえ、さすがに状況的には仕方ないだろう。『麻雀放浪記2020』(監督・白石和彌)という作品も上映中止になりそうと聞き、俺はてっきりこの作品にも新井浩文が出演してるから…と思っていたら全くそうではなくて、東京五輪が中止になるというストーリーがさる筋の逆鱗に触れた…が理由だそうだ。既に関係者は公開を諦めているとの情報もある。
 俺は個人的には元五輪アスリートの長州力が主張していた様に「東京五輪に使う金があるんなら東日本大震災復興費に回すべき」に同感で、少なからず同じ考えの人もいるはずと考えている。勿論そんな一般人の思惑など問題外に東京五輪は予定通りに行われ、マスコミは大々的にそれを賞賛するだろう。
『麻雀放浪記2020』の東京五輪が中止になるという未来的なストーリーはフィクションでの発想でしかなく、まあ作品自体を観ていないから正確な事は分からないけど、作り手が本気で「東京五輪なんて中止すべき」とアピールしている類いの作品ではなさそうな気がするし、百歩譲ってそうだとしてもそれは作り手側の個人的な考え以上の物ではなく、公開されたからといって徒に社会の秩序を乱す訳でもないだろう。それでもバッシングされて公開中止に追い込まれるとしたら明らかに「表現の自由」に対する侵害だと思うのだがどうだろうか?
 こういう事態が罷り通っている事と、日本映画では「社会派映画」というジャンルが死滅状態にある事とは無関係ではないと思う。高校生の恋愛物とか今の日本映画はパーソナルな人間関係をテーマにした作品ばかりが大部分を占めて、社会的問題に焦点を当てた作品は企画段階で敬遠される。かつて「日本映画は国から金をもらって良作を作りべき」と主張した「世界のクロサワ」を「そんな事したら日本映画は政府の広報みたいになってしまう」と厳しく批判した映画人がいたが、そういう人が今存在するか否や以前に、例え発言してもマスコミ的に圧殺されてしまうのが今の現実だろう。ともかく映画の公開が当たり前に制限される国なんて、三流の文化後進国と言わざるを得ないな。


 




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 中学二年生の純一(佐藤祐介)は最近性への興味が強くなり自分でもどうしていいか分からない。その苛立ちでつい両親に反抗的態度を取ってしまう事もしばしば。夏休みクラスメートだけで釣りに行く計画を立てたが、雪子(原田美枝子)の母が学校にその計画を告げてオジャンに。純一に母親の事を詫びる雪子。それをきっかけに純一は雪子の事が好きになる。家業の八百屋の仕事が忙しい雪子に手伝いを申し出る純一…。

 今井正や山本薩夫と共に戦後独立プロ活動を担ってきた家城巳代治監督。『異母兄弟』(57)は50年代日本映画の傑作の一つだと俺は思うのだが、そんな家城監督の遺作になったのが本作で、製作は「家城プロダクション」で配給は東宝。思春期の少年に焦点を当てた作品で、本作で主演を務めた佐藤祐介と相手役の原田美枝子は共に本作が映画デビュー作。二人は後に増村保造の『大地の子守唄』(76)でも恋人同士的な関係で再共演している。東宝特撮映画のヒロインだった水野久美は分かるとしても、東映出身の三田佳子が助演してたのはちょっと意外。他に福田豊士などの共演。

 夏休みに入った或る日帰宅した純一は寝入っている母(水野久美)に欲望を感じ思わずキスしてしまうが、母はまだ純一を子供だと思っているのでさして動揺はしなかった。雪子と親しくなった純一は二人で緑がいっぱいの林に入った時チンピラたちに襲われた。雪子は何とか難を逃れたが純一は大怪我を負って入院。以来街では雪子は本当は陵辱されたのではないか、二人の関係も良からぬ段階まで進んでいるのではとの噂が流れる。そんな時病気療養中だった雪子の父が郷里で養生する為引っ越しする事に。納得いかない純一はクラスメートと計り雪子を居残りさせる案を考える…。

 思春期の少年の性意識に焦点を当てたストーリーは確かにメジャー会社ではやりにくいだろう。しかし印象に残るのは主人公とヒロインの恋よりも母親との危ない関係だったりするのは作り手としていいのか? いくら水野久美の色香にソソられるからとはいえ母親にキスしたり、母が電車で酔っぱらいから助けてくれた男と再会したがってるのを嫉妬したりするのは、思春期にありがちな行動のレベルを逸脱してる風に感じるのだが…。結果肝心のヒロインとの「恋バナ」が綺麗事にしか映らなくなってしまってる。無理やり「大人たちへの反抗」に繋げたストーリーもパッとしない。

作品評価★★
(性に目覚める少年というテーマと自分たちを理解してくれない大人社会の反抗というテーマが並列してどっちつかずの感あり。果敢にトップレスになった原田美枝子の「やる気」は大いに評価したいけど、陳腐な幻想シーンでの脱ぎは陳腐であまり有効ではなかった気が)

映画四方山話その309〜初めから決まっていた?『万引き家族』の 2018年度キネマ旬報日本映画ベスト1
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 知人の指摘によると今回2018年度キネマ旬報日本映画ベストテンは「操作」された可能性が濃厚だと言う。確かにごく普通に考えて『万引き家族』以外のベスト1作品は想定しにくい。何しろカンヌ国際映画祭パルム・ドール受賞作品なんだからね。おまけに出演者の逝去という弔い合戦的意味合いもある。もし日本で一番権威があるキネマ旬報誌のベストテンで一位に選ばれなかったらカンヌ映画祭事務局側の御機嫌をそこねる可能性もある訳で、そこにキネマ旬報側の「忖度」があったのではないか…との推測が成り立つのだろう。
 但し忖度とはいってもどこぞのお役所や某医大みたいに「不正」が罷り通っているのではなく、各評論家がどんな作品に投票したかはちゃんと公になっているので、断じて不正ではない。じゃあどの様にして「操作」するのか…についてはこの場では説明しないけど、単純な方法でそれは可能なのだ。詰まる所キネマ旬報編集部なりの考えがある…という事でしょうな。序に言えば日本アカデミー賞も『万引き家族』祭りになる事は確実で、こっちの方は日本テレビの「イベント」なのでどうでもいいですよ(笑)。
 余談だがそのベスト10が載ったキネマ旬報2019年度決算号ベテトテン号で ベストテン選者のベテラン映画評論家・宇田川幸洋が選評コメントの場を借りて編集部に物言いをしている。キネマ旬報の特集企画「年代別ベスト映画」のアンケートに応え原稿を郵送したのに掲載されなかったのを抗議したら、編集部側の返事は「届いていない」だったと。しかし普通に考えてちゃんと宛先も書いて郵送した手紙が行方不明になるのは有り得ないはず。編集作業に忙殺されて宇田川の手紙の在り処が分からなくなったのでは…と推測するのだが。
 今あらゆる雑誌の原稿はメール送稿するのが基本になっている。もしライターが「PCが苦手なので手書きでお願いします」などと言ったら即お払い箱だろう。もっともキネマ旬報の書き手には錚々たるベテラン評論家も多数いるので手書きも一部OKなはずではある。昔読んだとある映画本によると宇田川幸洋は大の電話嫌いで自宅に電話を引かず原稿依頼は全て電報で知らせてもらっているとの事だった。さすがに今時電報はないとは思うけどPCは絶対に使っていないと思われる。
 でも今回のトラブルで超昭和アナログ世代である宇田川幸洋もPC導入を考えざるを得ないのかも、と考えるとちょっと気の毒な気もするなあ…と、いまだマトモにPCを使いこなせていない、同じ昭和アナログ世代である俺は深い同情を覚えてしまうのだが。そんな昭和ももう少しで「前の前の時代」になってしまうのだ。嗚呼…。






 
 





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 漫画についてもブログに書こうと思い我が書庫を整理していたら、買った時に一度きり読んだだけの川崎ゆきおの『ライカ伝』が出てきた。もう完全にどんなストーリーか忘れていたので、初めて読む心持ちで上下巻を一気に読んだ。
「川崎ゆきお」の名前を知ってるだけで相当な漫画マニアだと思う。川崎ゆきおは71年に『ガロ』でデビューした関西在住の漫画家で、代表作としては俺も大好きだった、江戸川乱歩の怪人二十面相シリーズのパロディみたいな『猟奇王』シリーズがが挙げられるが、それを含めて脱力系の漫画ばかり描いており、硬派な漫画評論家からは「ストーリーは単なる悪ふざけ以上の物ではない」と切り捨てられる始末。だがそのトホホ感が一部では面白がられているみたいだった。詰まる所漫画編集者受けはいいのだが一般漫画誌に載せるにはどうも…という訳で活動範囲はマイナーな漫画誌が殆どで、それでも川崎ゆきおは90年ぐらいまでは様々な漫画誌に持ち込みをしていたらしいが、以降はもう辞めてしまったみたいだ。
『ライカ伝』を発行したのはあのいしいひさいちを生んだ関西漫画同好会OBが中心になり、それに漫画評論家の村上知彦も加わって設立された編集プロダクション『チャンネルゼロ』で、チャンネルゼロは80年代前半には『漫金超』という季刊漫画誌を発行していて、川崎ゆきおもそこに執筆していた。更に発売元が関西の伝説的な情報誌『プレイガイドジャーナル』と、関西圏でこそ可能になった企画と言えよう。ちなみに短編ばかり描いていた川崎ゆきおにとっては、初めての描き下ろし単行本でもあつた。
 ジャンル的には現世とは違う異世界を舞台にしたアナザワールド物…というべきか。諸国を統治支配するライカ帝国の大王が狙撃され生死不明のまま行方知れずとなる。大王を狙撃したのはライカ帝国を快く思わぬニホン国が放ったテロリストである可能性が濃厚。そこでライカ帝国司法卿の江坂は弟の私立探偵・蘭丸に大王の行方を捜してくれと依頼。蘭丸はライカ国王子と知り合いになり、大王が秘密の地下室に隠れている事を知る。大王は神話で語られニホン国の背後にある「神国」の存在に憑りつかれていた。カリスマ的存在だった大王の、公の場での不在は政情不安を巻き起こし、その機を見てニホン国は神国軍のバックアップも得て内乱を扇動しライカ国に代わって世界の盟主たらんとする…というのが上巻。
 トホホなストーリーばかり描いていた川崎ゆきおがこういう戦記物めいた大河漫画を描くと思った人は当時殆どいなかったのでは。しかしトホホ的な要素が全てなくなった訳ではな
く、ライカ帝国のみならず諸国のネーミングの多くは、カメラ撮影が趣味の川崎ゆきおの以降を反映してカメラメーカーの名前から取ってあるし、登場人物には時代錯誤的なちょんまげを生やした、コテコテの関西弁を使う三枚目キャラもいたりして。そんなトホホ感と詮着物らしいシリアス感が絶妙にブレンドしている所?が上巻の面白さと言えるのだが…。
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 下巻ではニホン国&神国との「天下分け目の戦い」に敗れたライカ軍が窮地に陥るのを余所に、ライカ大王は蘭丸らと連れ立って果敢にニホン国に入国し、そこから一般の人間は立ち入った事もない神国の宮殿を目指す事になる。その道中で大王は悟りを開いた「ブッタ」という人物に会ったりして世俗の垢を落とす様に諭されるが、それでも神国の正体を見たいという大王の気持ちは変わらず遂に神との対面を果たす果たすが、それは大王の想像していた姿とは違う物であった。大王の不在の間にライカは更なる神軍の攻撃に晒され都は落城寸前の状態に。戻った大王は圧倒的勢力の神軍相手に最後の戦いを挑もうとする…。
 上巻は分かり易い展開だったが、下巻になると宗教問答めいた部分まである、幾分シュールなSFストーリー的な展開となり、『猟奇王』を描いた川崎ゆきおの脳内にこんな世界観もあったとは全く想像もつかなかった…というのが正直な感想。登場人物はほぼ正面顔ばかりの上に喜怒哀楽表情が全くなく、川崎ゆきお自身そういう部分での漫画家としての向上心は全く無く、そこが「下手な漫画家」と斬られる原因でもあるのだが。しかしそういう「駄菓子」ならぬ「駄漫画的感覚」が川崎ゆきおの持ち味である事は確か。
 ざっくばらんに言うと『ライカ伝』の世界観はいしかわじゅんの『約束の地』なんかに近い感じもするが、ギャグのキレという点では川崎ゆきおはいしかわじゅんに遠く及ばない事は確かで、やはりそこんトコが編集者向け漫画で終わっている残念さもあるのだが、ともかく奇書的な漫画の一つとして記憶しておこう…と今書いたりしてるけど、また数年したら全く内容忘れてるんだろうな、多分…。

 ライカ帝国のみならず諸国のネーミングの多くは、カメラ撮影が趣味の川崎ゆきおの以降を反映してカメラメーカーの名前から取ってあるし、登場人物には時代錯誤的なちょんまげを生やした、コテコテの関西弁を使う三枚目キャラもいたりして。そんなトホホ感と詮着物らしいシリアス感が絶妙にブレンドしている所?が上巻の面白さと言えるのだが…。
 下巻でははニホン国&神国との「天下分け目の戦い」に敗れたライカ軍が窮地に陥るのを余所に、ライカ大王は蘭丸らと連れ立って果敢にニホン国に入国し、そこから一般の人間は立ち入った事もない神国の宮殿を目指す事になる。その道中で大王は悟りを開いた「ブッタ」という人物に会ったりして世俗の垢を落とす様に諭されるが、それでも神国を見たいという大王の気持ちは変わらず遂に神との対面を果たす果たすが、それは大王の想像していた姿とは違う物であった。大王の不在の間にライカは更なる神軍の攻撃に晒され都は落城寸前の状態に。戻った大王は圧倒的勢力の神軍相手に最後の戦いを挑もうとする…。
 上巻は分かり易い展開だったが、下巻になると宗教問答めいた部分まである、幾分シュールなSFストーリー的な展開となり、『猟奇王』を描いた川崎ゆきおの脳内にこんな世界観もあったとは全く想像もつかなかった…というのが正直な感想。登場人物はほぼ正面顔ばかりの上に喜怒哀楽表情が全くなく、川崎ゆきお自身そういう部分での漫画家としての向上心は全く無く、そこが「下手な漫画家」と斬られる原因でもあるのだが。しかしそういう「駄菓子」ならぬ「駄漫画的感覚」が川崎ゆきおの持ち味である事は確か。
 ざっくばらんに言うと『ライカ伝』の世界観はいしかわじゅんの『約束の地』なんかに近い感じもするが、ギャグのキレという点では川崎ゆきおはいしかわじゅんに遠く及ばない事は確かで、やはりそこんトコが編集者向け漫画で終わっている残念さもあるのだが、ともかく奇書的な漫画の一つとして記憶しておこう…と今書いたりしてるけど、また数年したら全く内容忘れてるんだろうな、多分…。
 ライカ帝国のみならず諸国のネーミングの多くは、カメラ撮影が趣味の川崎ゆきおの以降を反映してカメラメーカーの名前から取ってあるし、登場人物には時代錯誤的なちょんまげを生やした、コテコテの関西弁を使う三枚目キャラもいたりして。そんなトホホ感と詮着物らしいシリアス感が絶妙にブレンドしている所?が上巻の面白さと言えるのだが…。
 下巻でははニホン国&神国との「天下分け目の戦い」に敗れたライカ軍が窮地に陥るのを余所に、ライカ大王は蘭丸らと連れ立って果敢にニホン国に入国し、そこから一般の人間は立ち入った事もない神国の宮殿を目指す事になる。その道中で大王は悟りを開いた「ブッタ」という人物に会ったりして世俗の垢を落とす様に諭されるが、それでも神国を見たいという大王の気持ちは変わらず遂に神との対面を果たす果たすが、それは大王の想像していた姿とは違う物であった。大王の不在の間にライカは更なる神軍の攻撃に晒され都は落城寸前の状態に。戻った大王は圧倒的勢力の神軍相手に最後の戦いを挑もうとする…。
 上巻は分かり易い展開だったが、下巻になると宗教問答めいた部分まである、幾分シュールなSFストーリー的な展開となり、『猟奇王』を描いた川崎ゆきおの脳内にこんな世界観もあったとは全く想像もつかなかった…というのが正直な感想。登場人物はほぼ正面顔ばかりの上に喜怒哀楽表情が全くなく、川崎ゆきお自身そういう部分での漫画家としての向上心は全く無く、そこが「下手な漫画家」と斬られる原因でもあるのだが。しかしそういう「駄菓子」ならぬ「駄漫画的感覚」が川崎ゆきおの持ち味である事は確か。
 ざっくばらんに言うと『ライカ伝』の世界観はいしかわじゅんの『約束の地』なんかに近い感じもするが、ギャグのキレという点では川崎ゆきおはいしかわじゅんに遠く及ばない事は確かで、そこんトコが編集者向け漫画で終わっている残念さでもあるのだが、ともかく奇書的な漫画の一つとして記憶しておこう…と今書いたりしてるけど、また数年したら全く内容忘れてるんだろうな、多分…。
 川崎ゆきおは現在個人サイトで自作の小説と共に自作の漫画をアップしており、そこを通せば『ライカ伝』は今でも入手できると思う。



 
 

 




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「凄い、スターリンが入ってるよ」 NHKーFMの渋谷陽一DJ番組年末特集企画『今年活躍したロックミュージシャンベスト10』で思わず渋谷陽一が驚きの声を上げた。確か4位ぐらいではなかったろうか。他にどんなミュージシャンがランクインしていたかは完全に忘れたけど(とはいっても大方想像はつくが…)、俺はその時初めて『ザ・スターリン』の楽曲『あざらし』というのを聴いて衝撃を受け、それから何年もたって自分でも唄う様になった時、その曲にインスパイヤされた『蛆虫』というパンクナンバーを作り、その曲名がまんまバンド名になって…なんて話はどうでもいいとして、それだけ82〜83年のスターリンは絶頂期にあった。一方でそれとは対極的なファッション感覚をも意識したYMOを筆頭としたテクノ・ロックが流行し、日本のロックは新たな興隆期に入ったと思われたのだが…。
 さっき聴いたザ・スターリンの『STOP JAP』は彼らの二枚目のアルバムにしてメジャーデビュー作。調べてみるとレコーディングの実現に至るまでも、そして制作中も難問が山積みだったとか。普通に考えても東西冷戦の象徴である独裁者名のバンドと聞いただけで会社が二の足を踏んで当然だろう。当時のザ・スターリンのメンバーは遠藤ミチロウ(ヴォーカル)タム(ギター)杉山シンタロウ(ベース)イヌイジュン(ドラムス)。イヌイジュンは日本の元祖パンクバンドと言える『ガセネタ』の元メンバーであった。

 アナログA面1曲目『ロマンチスト』は彼らの最初のシングルとなった曲。元々ライブで『(主義者)イスト』というタイトルで唄われていた曲を改題した物。ゴリゴリの頭でっかちの連中を糾弾した曲で「吐き気がする程ロマンチックだぜ」のサビのワードが当時の日本のパンクを象徴するフレーズにもなった。
 2曲目『STOP JAP』はハードコアパンク調の演奏で右翼主義者を批判した、今だったらかなり問題になりそうな曲。そんな奴らは「潰してしまえ潰してしまえ」とミチロウはアジテーションする。
 3曲目『極楽トンボ』は身の下三寸の事しか興味がなさそうな軽薄な若者を皮肉った曲。4曲目『玉ネギ畑』は「私の病気は玉ネギ畑 向いても剥いても玉ネギだらけ」という比喩的フレーズが印象的。「殺す」や「死体」なるワードも登場し、爆発寸前の感情を押し殺した様なミチロウのヴォーカルな不気味。
 5曲目『ソーセージの目玉』も比喩的表現で欲求不満の苛立ちを描写した曲か。6曲目『下水道のペテン師』は愛が報われない男の哀しみをパンクロック調に表現.間奏のギターソロもエグい。7曲目『アレルギーα』は51秒しかないないのに第二弾シングル曲に。『フリクション』をも彷彿させるリズムのスピード感が聴きどころだが51秒しかないので…。8曲目『欲情』は性的飢餓感をそのまんまぶつけた様な曲。A面最後の曲『MONEY』は拝金主義者を糾弾したメッセージ風ソング。

 アナログB面1曲目『STOP GIRL』は世界の果てまで俺を連れてってくれ」というロマンチックなワードから始まる、彼らにとっては珍しい純粋ラブソングぽいけど、それでも死や血というワードも登場し破滅的な拭いきれない所がザ・スターリンらしい。
 2曲目『爆裂(バースト)ヘッド』は「金属バット殺人事件」から連想して作った曲では? 偽善者的な人間に唾棄し潰せ、追い詰めろと扇動するミチロウ。でも親の頭を殴るのは辞めようね(当たり前の話)
 3曲目『MISER』はビートロックぽいテイストもある曲。日常生活に埋もれていく人間の弱さに焦点を当てた詞にインテリジェンスを感します。
 4曲目『負け犬』は気弱な人間に共通する負け犬根性を撃つストレートなパンクロック。5曲目『アレルギーβ」はA−7と最も同じ曲だがダメダメ人間に捧ぐ真正ダウナーソングって感じ。ミチロウのヴォーカルは殆ど語りに近い。
 最後の曲『ワルシャワの幻想』は短い曲ばかりが並ぶ本アルバムの中では長い曲(といっても5分ぐらいだが)。歌詞は僅か3行しかない短い物だが、どうやら1955年に東側諸国で結成された「ワルシャワ条約機構」を念頭に入れて作った曲らしい。「飯喰わせろ」というワードはストレートに社会主義体制で抑圧されている民衆の事を指している。後のザ・スターリンにも通じるアレンジが施されており、こおアルバムの中では異色な曲。

 騒音状態のライブでは正確に聴き取るのが困難なザ・スターリンの歌詞がちゃんと聴けるという意味で有効なアルバムなのだが、レコ倫関係をクリアする為に歌詞はかなり改訂されている様だ。そんな中所々に顔を出すのはミチロウの、全共闘世代ならの「状況」に対する強い認識で、ザ・スターリンのライブに熱狂している当時の若者たちにそれが伝わっているのかどうかはともかくとして、ミチロウが単細胞なパンク野郎でない事はこのアルバムを聴けば判ったはず。
 このアルバムから30数年がたち、ソロ活動を中心に音楽活動を継続していた遠藤ミチロウは現在癌に体を蝕まれ闘病活動を余儀なくされている。遠藤賢司や加川良など近年同世代のミュージシャンが亡くなっている事もあり病状が憂慮されるのだが、是非ともまたカムバックしてまたこのアルバムの曲なども唄って欲しい物ではある。

ザ・スターリン「STOP JAP』フル・アルバム



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 遠藤賢司の活動歴史をチェックしてみると91〜95年までレコードリリースが途絶えている。勿論その間も遠藤賢司はライブ活動は積極的にしていたはずだが、その一方で一向に新譜が出ない(旧作の再発はあったが)ジレンマは遠藤賢司自身、そして彼の支持者にもあったとは思う。そんなジレンマの中遠藤賢司にエールを送る〜みたいな形でリリースされたのがさっき聴いた『プログレマン ”エンケン”トリビュート』だ。プロデュースを買って出たのがボブ・ディラン信奉者として知られるみうらじゅん。彼自身90年代までは『大島渚』名義でバンド活動をしていた事もある。そんな訳で12組のミュージシャンが思い思いの形でエンケンの名曲をカバーしたのが本アルバムなのだ。

 トラック1『東京ワッショイ』(78年のアルバム『東京ワッショイ』収録)by『フラワー・カンパニーズ』

 この愛知県出身バンドの名前は良く聞いたけど音を聴くのは初めて。原曲自体セックス・ピストルズなどの初期パンク・ロックを意識した音作りだったが、フラワー・カンパニーズのカバーヴァージョンはもっとガレージロックぽいアレンジが施されており、演奏もかなり荒っぽく野性風味がある。ワッショイ!ワッショイ!の掛け声が続くエンディングもインパクトあり。

 トラック2『カレーライズ』(71年のアルバム『満足できるかな』収録)by曽我部恵一

 三島由紀夫の死に際してエンケンが作った名曲を『サニーディ・サービス』の曽我部恵一がカバー。アコースティックギターとドラムスによる超シンプルな演奏。ギターはアルぺジオでなくストロークで弾いており、オリジナルの弾き語りスタイルがニール・ヤングスタイルに変換された感がある。途中からバックに緩やかに流れるムーグシンセサイザー?の響きがスペイシー。

 トラック3『寝図美よこれが太平洋だ』(『満足できるかな』収録)by『ピラニアンズ』
 ピラニアンズはピアニカ奏者・ピアニカ前田が中心になって作られたグループ。心優しいピアニカのシンプルな響きがどことなく南国ムードを醸し出す。ピアニカ前田のヴォーカルも上手くはないけど温かい感じがし、かつユーモラス。それは原曲の味でもあるけど。

 トラック4『ミルクティー』(『満足できるかな』収録)by小島麻由美

 脱ジャンル的な女性シンガー・ソングライターとして90年代にブレイクした小島麻由美。生ギターとエレクトリックピアノを主軸にした演奏をバックに唄う。女の子が唄っている分原曲には感じられなかった可愛らしさみたいな物が滲み出ていて、それが聴きどころだろう。

 トラック5『夜汽車のブルース』(70年『NYAGO』収録)by友部正人

 エンケンに遅れてURCからデビューした純シンガー・ソングライター、友部正人によるカバー。友部の生ギター&ハーモニカとパーカッションによる演奏で、原曲にあったニュアンスを我流に解釈し彼のスタイルで唄い通している。友部のぶっきらぼうな熱唱に聴き惚れます。

 トラック6『満足できるかな』(『満足できるかな』収録)by『ザ・ブロンソンズ&THE NEWS』

 みうらじゅんと田口トモロヲが結成していたユニット『ザ・ブロンソンズ』に、みうらとは『イカ天』繋がりで知り合った女性3ピースバンドが合体しての演奏。最初飲み屋談義から始まるのがいかにもみうらじゅんらしい。演奏自体は硬質なドラミングが印象的なヘビーなロックンロールスタイルで、それとみうら&田口の不真面目スタイルなヴォーカルとの組み合わせが絶妙? 原曲通り『ザ・タイガーズ』の『シーサイド・バウンド』の一節(唄うのは女性陣のみ)が入ったりと、ゴチャゴチャしているがそれなりに楽しい。

 トラック7『東京ワッショイ』(『東京ワッショイ』収録)by『ホフ・ディラン』

 2000年前後にブレイクした二人組バンド『ホフ・ディラン』はこのアルバムと同じ年にメジャーデビューしている。テープ回転を速めたヴォーカルが特徴で、まるで子供が唄っているみたいだ(実際彼らは子供向けアニメ主題歌でメジャーデビューしたのだが)。おもちゃ箱をひっくり返した様な曲のイメージは確かに大胆不敵な物があり、それが彼らの人気上昇の決め手になったのかも。

 トラック8『ほんとだよ』(『NYAGO』収録)byサワサキヨシヒロ

 日本のテクノミュージックの草分けらしいサワサキヨシヒロが深淵を感じさせる名曲をカバー。サウンドは典型的なテクノスタイルだがヴォーカルは意外と生ぽいのが面白い。元々原曲自体が通常のフォ―クソングの域を越えたテイストの物なので、これだけ加工されてもそんなに原曲とは違和感がないなあと思う。

 トラック9『今日はとってもいい日みたい』(『満足できるかな』収録)by『ハイ・ポジ』

 ハイ・ポジは渋谷系バンドの一つとして91年にメジャーデビュー。その時は四人組だったがこの時点ではもりばやしみほと近藤研二の二人組になっていた。もりばやしのとろけそうな甘いヴォーカルが特徴で、原曲にあった夏を連想させる季節感みたいな物は拭い去られ、人工美的な90年代音楽へと化している感じ。

 トラック10『ハロー・グッドバイ』(72年『嘆きのウクレレ』収録)by佐野史郎

「冬彦」で突然有名人になってしまった佐野史郎は根っからのURC系フォ―クファンで、このアルバムの参加も願ったり適ったりだったはず。ソフトなヴォーカルがエレクトリックギターが演奏に加わると突然シャウト系ヴォーカルに変化する所とか、本家をかなり意識してますね。コーラスで加わっているのはユニークな個性派シンガーソングライターとして活躍していた原マスミらしい。途中から入るのけり系ソロギターもいいね。

 トラック11『おやすみ』(『満足できるかな』収録)by遠藤ミチロウ

 元パンクロッカーが唄う弾き語りソング。ミチロウのパンクバンド仕込みのディ―プな唱法がやけに心に沁みるぜ。元々遠藤ミチロウは友部正人のバックギタリストを務めた事もあるフォ―ク人脈の人だった。間奏に入るブルースハーモニカも味わい深い。独得なエンケンの詞世界を再確認するのにもふさわしい好カバー。

 トラック12『不滅の男』(『東京ワッショイ』収録)by大槻ケンジ

 最後にこの面子の中では一番メジャーだと思われる大槻ケンジによる『不滅の男』のカバー。確かに名曲だし演奏のセンスもいいけど大槻ケンジがやるとカラオケ感覚で唄っている様に感じてしまうのは何故? まあそれだけエンケンを同時代的に愛聴してきたって証しなんだろうけど…。最後にどさくさに紛れエンケンならぬ「オーケン!」と掛け声が入るのは笑ってしまうけど。

「プログレマン」ってタイトルがいい。エンケンの音楽はどんなに昔作った曲を唄っても「今」ならではのリアル感があった。正にどんなに年を取ってもエンケンは死ぬまで「現在進行形」の音楽家だったのだ。本アルバムはそんなエンケンにエールを送るという意味合いが強い。出来としては友部正人と遠藤ミチロウといった、エンケンとほぼ同年代の二人が単なるカバーを越えて自分の音楽世界まで引き寄せている感が強く聴きごたえがある。
 そんな協力なエンケン支持者の熱意が効が奏したのか、この年遠藤賢司は久方ぶりにメジャーからのアルバム『夢よ叫べ』を発表。以降亡くなるまで年齢を感じさせないエネルギッシュな音楽活動を続けたのであったのだ…。

 遠藤賢司『不滅の男』オリジナルヴァージョン
 







トラック3

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 夫・優介(浅野忠信)が失踪して以来、瑞希(深津絵里)はピアノ教師として糊口を得ていたが、ある日突然優介が帰還する。しかし優介は自分は死んでいると言い、想い出を巡る旅に出ないかと瑞希を誘う。瑞希は了承し二人は旅に出た。電車でとある街に辿り着いた二人はこの街で優介が世話になった新聞配達業の島影老人(小松政夫)を訪ねる。優介は短期間彼の所で新聞配達をしていた。数日間逗留する事にした二人…。

 去年観た『クリーピー 偽りの隣人』(16)が傑作だった黒沢清が、前年に第68回カンヌ国際映画祭『ある視点』部門に出品し監督賞に輝いた作品。湯本果樹美の同名小説の映画化で、既に死んでいると言う夫と妻の旅の道行きを描いた一種のロードムーヴィー。黒沢作品は『アカルイミライ』(03)に出演した事のある浅野忠信と、黒沢作品は初出演となる深津絵里の共演。他に小松政夫、柄本明のベテラン陣や蒼井優などの共演。残念ながら日本ではヒットしたと言えないが、フランスではかなりのヒットになったとか。こういう「黄泉がえり物」ってフランスでは珍しいのかしら。

 妻が家出してしまい淋しい日々を送っている島影。優介が瑞希の耳元で囁く。「彼も俺と同じ。死んでいるんだよ」。数日後この世に未練が無くなった島影は姿を消した。次に二人が訪れたのは大衆食堂を営む夫婦者。優介はここで店の手伝いをしていたのだ。働かせてもらう二人。瑞希は二階にピアノがあるのを見つけ思わず弾いてると、後ろで食堂の奥さんが凄い顔で睨んでいた。このピアノは小さい時に死別した彼女の妹の遺品という。思い出話を語る奥さんの背後から亡くなった妹が現れ、瑞希は妹が生前弾けなかった曲を教えると、妹は満足したのか微笑みながら姿を消した…。

 本作の死者たちはこの世で未練を残しているが故にこの世に居残り続け、未練が解消したら忽然と姿を消す…という事になっているらしい。主人公夫婦はそんな死者たちを平穏にあの世に送る媒介者的な役割を担っている。妻に去られてしまった悲しみ故にこの世に居残り、誰も読んでいない新聞を配り続ける老人が哀しい。一方でこの世に未練を残すばかりに自失寸前で彷徨い続ける死者もいて千差万別だが、そういう死者の姿を通し人間の「生」の意味を問うという語り口に独自の物があって映画全体が鎮魂歌的な「癒し」となり、観る人の心も落ち着かせる効果になっていると思う。

作品評価★★★
(本音を言えば『クリーピー〜』の様な、若干のいかがわしさを含む黒沢清ワールドの方が好きなんだが原作に忠実に、人間が生きる事と死んでしまう事の境目を描いた本作の正攻法的な演出も悪くはない。往年の名喜劇人・小松政夫が意外な役で好演したのが印象に残る)

映画四方山話その308〜松尾スズキ
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 劇団『大人計画』主宰者である劇作家兼演出家の松尾スズキ。演劇界では既に一流演劇人の登竜門である「岸田戯曲賞」も受賞しているカリスマ的な人であるらしい。演劇マニアではない人も劇団『大人計画』が宮藤官九郎や阿部サダヲが在籍している劇団で、人気絶頂の星野源も大人計画事務所がマネージメントしている(但し俳優業務だけで音楽業務はアミューズが担当)と聞いたら、松尾スズキってどんな大物?と気になるだろう。
 俺はもう演劇を観なくなって20年近くたつ身なので劇団大人計画について語る術がないのだが、役者としての松尾スズキは知っている。03年公開『イン・ザ・プール』の松尾スズキは尋常じゃなかった。この作品の監督・三木聡自体がかなり普通じゃない映画ばかり撮っている人なんだが、精神科医役の松尾スズキの全編躁状態とも言うべきブチ切れた演技がこの作品全体のトーンを支配していた。精神科医だがこの人物が精神科医に診てもらった方がいいのでは…と感じたのは俺だけではなかったと思う。 
 そんな感じで癖のある、何だかヘンテコリンな人物ばかり演じる怪演役者のイメージが「俳優・松尾スズキ」にはある。そういえばNHKドラマでは「芸術は爆発だ!」で有名な岡本太郎画伯役も演じた事があったそうな。未見だがNHKも良くぞキャスティングしたなとは思う。
 もう随分前の話になるがとある宴席でテーブルの向かいに松尾スズキ氏がいた事があった。俺は松尾氏が重要な役で出演していた某映画があまりに不出来だった(演出云々以前に企画自体が古臭すぎてどうにもならん…てな感じ)事が気になっており 思わず「なんであんな酷い映画に出演したんですか」と直球で訊いてみた。その時松尾氏はちゃんと答えてくれたのだが低い声でボソボソ喋るもんで何を言っているのか全く分からなかった。『イン・ザ・プール』の躁的演技とは全く裏腹の、かなり重度の鬱状態に思えたので敢えて訊きなおしたりはしなかったけど。
 後で何かの雑誌で読んだけど、松尾氏が映画出演を決めるのは基本的に出演依頼が早い物順で、内容云々は全く問題にしてない…という事だった。そういう作り手側に全て委ねるのも役者としての一つのあり方ではあるとは思う。宴席で会ってから数年後。松尾スズキ氏は仕事のスランプなどから薬物過剰摂取になり精神病院に入院するというヘビィな主人公を描いた小説『クワイエットルームにようこそ』で芥川賞候補になり、松尾氏自身の監督で映画化(07年 主演・内田有紀)もされた。ウーム、やっぱりあの夜の松尾スズキ氏は…。
 そんな怪演役者・松尾スズキは今年秋公開の『108 海馬五郎の復讐と冒険』なる作品で初めて映画主演を務めるとか。自身の小説の映画化で監督脚本も兼ねる自作自演のコメディ映画らしいのだが、正直映画監督としての松尾スズキは、笑いへの多大な拘りが逆に作品のクオリティの足枷になってる傾向がある…と俺は常々考えているのだが、こういう純コメディ映画の場合はどうなるのかね? そういう危惧感を物ともせず「日本のウディ・アレン」になれるかどうかが見物ではある。

 そういえば前述した松尾スズキが出演していたどうしようもない駄作だった某作には忌野清志郎も出演していたな。彼も出演依頼の早い物順で出演を決めた…なんて事はないとは思うけど…。











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 劇画ブームとリンクして大ヒットしたTV時代劇『木枯し紋次郎』。原作者の笹沢世保は木枯し紋次郎と同様の、渡世人を主人公にした短編小説も多く書いており、劇画化された物も幾つかあるみたいだ。真崎守の劇画『丈八しぐれ』は笹沢の『狂女が唄う信州路』という小説を映画化した物で、72年2月週刊プレイボーイに掲載されている。丁度『木枯し紋次郎』が評判を取った時期と偶然リンクした…と言うべきか。ともかく紋次郎を始めとする笹沢世保の股旅小説が、劇画世代に歓迎されていたという事だけは確かだ。

 主人公は「抜かずの丈八」という異名を取った高名な渡世人。とある理由から真剣を使わず木刀を腰に差し、敵の攻撃を交わし木刀で相手の鳩尾を突くというのが喧嘩の常套手段だ。川越街道の道中で「花風の弁」と名乗る若僧に勝負を挑まれ一蹴するが、弁は丈八の腕に惚れて弟分を志願。丈八は面倒なので弁の好きにさせる。
 弁に誘われた賭場に火盗改めの手入れが入り丈八と弁、老やくざ・鉄砲の吉兵衛の三人は百二十日の入牢となる。しかし牢内で牢名主の次に睨みを効かせる顏役である「一番役」に丈八を逆恨みしている三津田の仙太郎がいて、丈八は毎日の様に私刑を受ける。仙太郎は直ぐに殺さずじわじわと嬲り殺しにする積りなのだ。丈八もそれを知った上で抵抗もせずにいる。しかし意外な事が起きて…。
 ここまでが第一部。江戸時代の牢内の厳しさは小説などで読んだ事があるとはいえ、劇画タッチで描かれると一層凄惨さが際立つ。そんな生き地獄の中丈八は自嘲的に弁に言う。
世間の知らないところで 一つの命が消えるだけのことだ
病気で死のうと シャバで死のうと 同じことでしかない
生きる目的のある身体でもなし
その時がきたら 仙太郎と刺し違えて死んでもいい
 渡世人という天涯孤独な生き方を選んだ故の厳しさを顕した名台詞だろう。しかし意外な展開で丈八は生き残り、弁や吉兵衛と共に娑婆に出る事を許される。
 
 第二部は喘息で長い命ではないと悟った吉兵衛が堅気の嫁した娘に一目会いたい…という願いを聞いた丈八と弁が、吉兵衛と連れ立ち甲州街道から中山道へと道中し、娘がいる洗場宿を目指す。しかし当の娘は地元の親分・牧野の伊兵衛の兄弟分の友蔵という渡世人に手籠めにされた事から気が狂れ、一日中唄を唄っている有様だった。唖然とした吉兵衛だが気丈にも娘の恨みを晴らすべく、旅から戻ってくる友蔵との果し合いを決意。流れで丈八も助っ人をする事になるが弁の取った行動は…。
『木枯し紋次郎』でも通例だったどんでん返しがあり、それをきっかけに「抜かず」だった丈八が真剣を手にする殺陣シーンが本作のクライマックスだ。友蔵の正体が明らかになり、丈八は彼によって無念に朽ち果てた物の恨みをこめて友蔵を叩き斬るのだ。
 事を終え自らに課した掟を破った落とし前をつけるべく狂女に背を向けて旅立つ丈八の後姿。『木枯し紋次郎』のやりきれなさとは若干違う、渡世人ならではの意地みたいな物を感じさせる結末であった。笹沢世保の原作という事情もあるんだろうが『はみ出し野郎の伝説』にあった否応無しに死へと到達する人間模様的な重苦しい真崎守ワールドは若干薄れ、「ウエルメイドな劇画」への変遷が伺える。そして時代は「暗さ」から曖昧な「明るさ」への時代へと移っていったのだが…。 

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 映画『レット・イット・ビー』のニューヴァージョン製作決定のニュースには驚かされた。オリジナル版が公開されたのはもう半世紀も前の事、ジョンとポールの不仲関係はニューヴァージョンでは解消されているのか? どう考えてもそれは有り得ないと思うけど、製作協力としてポールとジョンの代理人であるオノ・ヨーコが肩を並べているので、もしかしたら奇策があるのかもしれないが…。
 そんな訳でさっき久々に『ダブル・ファンタジー』を聴いた。これはジョン・レノン生前最後のアルバム…ではなく、ジョンとオノ・ヨーコの共作アルバムなのだ。基本的にジョンとヨーコの曲が交互に収録されている。諸々の事情で5年間近くレコーディングから遠ざかっていたジョンは自分の作曲能力にもう自信がなかったそうだが、ジョンとヨーコと共にプロデューサーを務めたジャック・ダグラスも、参加したNYの腕利きスタジオミュージシャンたちもそんな事は露とも思わなかったという。

 アナログA面1曲目『スターティング・オーバー』を聴くと胸がいっぱいになってしまう。ジョン特有の甲高いヴォーカル、オールデイズぽいメロディー、美しいコーラスワーク…。「新しくて古い」とも言いべきジョンの音楽の真骨頂を感じらる。色々な事があったけどまた二人で新しい愛を育んでいこう…というヨーコに向けてのラブソングであると共に、ジョンの音楽家としての再出発を記した名曲であったのだが…。
 そんな感銘も2曲目オノ・ヨーコ曲『キス・キス・キス』で興ざめ。日本語詞が分からない外人がどう思うかは知らないけど、日本人の俺には粗雑なエロソングという感想しか浮かんでこない。ヨーコのニュー・ウェイヴを意識した様な歌唱はまあまあだけど…。
 3曲目『クリーン・アップ・タイム』はジョンが音楽を辞め主夫業に専念していた頃を回想した曲。詩的なワードを使っているが、要するにジョンもヨーコも音楽活動を辞めジョンは子供をあやしヨーコは札を数えるだけの生活だった…と告白している。小刻みに刻むギターのリフが印象的なイントロ、曲には独得の浮遊感がありかつてのあやふやだった二人の生活を物語る様でもある?
 4曲目『ギヴ・ミー・サムシング』はヨーコ曲。「冷たくない物を 私にちょうだい 今すぐに」って何度も連呼しているけど、これってジョンに言ってるの? カカア殿下ですなあ。この曲もニュー・ウェイヴぽいのだが。
 5曲目『アイム・ルージング・ユー』はボロボロになって傷ついたレノンが、電話をしてもつれない返事のヨーコに苛立ちながらもなす術のない、かつて飲み友達だったニルソンとつるんでいた頃の「酒とバラの日々」を懐古して作った曲か。歌詞を念頭に入れて聴くと、タイトなサウンドが一層ヘビィに胸に響いてくる。
 6曲目『アイム・ムーヴィング・オン』は逆に、ヨーコが「試験的別居生活」を余儀なくされているジョンを叱りつけてる様な曲。かなり冷酷な詞だがこうしてみるとジョンにとってヨーコは妻というより「グレートマザー」的存在だったのでは…との俺の仮説も満更はずれではないな…と思いたくなる。サウンド作りは前曲『アイム・ルージング・ユー」と似通った感じ。
 A面最後の曲『ビューティフルボーイ』はレコーディング当時まだ5歳だったヨーコとの一粒種、ショーン・レノンに語りかける「パパの歌」。波やトライアングルの音に優しいギターの響き。正に息子を気付かう父の愛が詰まった曲なんだが、何だがその後の自分の身に起こる災いを予感した様なワードもある。成長したショーンの姿を見たかっただろうに…。ラストのスティール・ドラムの響きも印象的。

 アナログB面1曲目『ウォッチング・ザ・ホイールズ』は、ジョンが主夫生活時代に受けた批判(どうして音楽をやらずに生きてられるんだ)について唄っている。

僕はただここに座って 車輪が回るのを見てる
グルグル回る車輪をね
ただ見てるのが本当に好きなんだ
もうメリー・ゴーラウンドに乗ることはない
だから僕は放っておくのさ
だから僕は放っておくんだ

 つまり一時期ジョンは真剣に音楽は二度とやらないと決意した事もあったのだ。かつて高田渡も「唄わない事が一番いいんだ」と言っていた…と加川良が『下宿屋』の中で語っていたな…。重厚なキーボードを主軸にしたサウンド作りはジョンならではの物だろう。B面頭を飾るにふさわしいじっくり聴き惚れる名曲。
 2曲目『あなたのエンジェル』は、破天荒なヴォーカルスタイルで知られた?ヨーコがヨーロッパ調のクラシカルな唱法に挑戦した珍しい曲。ユーモラスな感じもあってまるでケイト・プッシュみたいと思ったのは俺だけか。ヨーコとケイト・プッシュとでは容貌が違い過ぎますが。
 3曲目『ウーマン』はジョンの死後大ヒットしたシングル曲。ウーマンと銘打ってはいてもそれがヨーコの事を指しているのは明白で、多分ヨーコがショーンを身籠っている事が判った時の感動を率直に歌詞にした物だろう。ジョンの語りから始まるミディアム・テンポの曲で「ウー」と続くハミングも素敵。こういうタイプの曲も「ジョン・レノン節」って感じがするなあ。
  4曲目『ビューティフル・ボーイズ』で、オノ・ヨーコも息子ショーンについて唄っている。まあ実の母親なので母性愛的な事を唄っている訳で、メロディーはまるで子守唄の如く…。オノ・ヨーコにもこういうセンチメンタルな一面もあるのか…と思いつつ爆撃音みたいなSEも入ったりしている所がさすがヨーコ(笑)、子供への愛を唄いつつ平和に対するメッセージも忘れない?
 5曲目『愛するヨーコ』は以前から何回も唄っていたジョンのヨーコ賛歌の一つで、敢えて歌詞を知る必要もないだろう。ファンキーかつ洗練されたサウンド作りががNYらしさを感じさせる小品的曲。
 6曲目『男は誰もが』はレゲエのリズムを取り入れたオノ・ヨーコの曲。これまたニュー・ウェイヴ色を感じさせるヨーコの新しい一面を感じさせる曲と言っていいのか? 前衛的なヘンテコリンな曲よかナンボもマシである事は確かで、怪人ヨーコもやはり時流を意識していたのかな…とは思う。
 最後の曲『ハード・タイムス・アー・オーヴァー』もオノ・ヨーコの曲。ゴスペル調のコーラスが入る、このアルバムのヨーコの曲の中でも一番聴き易さがあり、サックスの入ってくる箇所など『女は世界の奴隷か!』を唄っていた70年代前半のジョンとヨーコを彷彿させる所もあり、ノスタルジックな思いに駆られる佳曲。そういう時代も過ぎさってしまった後に何がある?が、以降の二人の音楽活動テーマだったはずだが。

 詞をチェックしながら聴いてみると、ジョンにとっては『ジョンの魂』(71)以来の極私的なアルバムだった事が判る。歌の対象が全て「グレートマザー」であるヨーコに向けられ、ヨーコの辛辣な言葉も受け止めるジョン…って、何か鬼嫁の尻に敷かれているひ弱亭主みたいだけど(笑)、それがジョンの実感だったのならファンとしては受け入れるしかないなあ…。馴染みのミュージシャンを起用しなかった事で,ジョン本来の音楽性と現在進行形だったNYサウンドが上手い具合いブレンドし、今後この流れでどの様な化学反応が起きるのか興味深い部分もあったのだが、全て1980年12月8日の事件によって泡と化してしまったのは言うまでもない。今だったらジョン程の人がSPも無しに街角を歩くなんて事は考えられないが…(というか、この事件があったから有名アーテイストにSPが付く事が当たり前になったのだろう)。
 思えばオノ・ヨーコの音楽をきっちり聴いたのも今回が初めてだったか。ジョンを支配する様なグレートマザーぶりには鼻白むが、B−⑦みたいな佳曲もあったので取り敢えず良かったと。
 
ジョン・レノン『ウーマン』https://youtu.be/ZhfWiU8wGCc

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