|
宗像周辺には、織幡神社があって
この神社は、武内宿禰を祀っているとされます。
神功皇后の凱旋で武内宿禰は、幡を織り
沖ノ島に掲げたとされます。
沖ノ島には、タブーがあり
そこで見たものを口外してはならないとされていますから
唯一の例外、ヤマト王権や武内宿禰のことは
タブーになってはいないことが分かります。
また、香椎宮では、武内宿禰の神社があって
神さまのお名前が分かる様になっています。
織幡神社は、幡を織ったことに特化した神社でして
香椎宮とは文化が違う系譜が違うのではないかと思われるのでした。
雄略天皇のときに高句麗を討った筑紫の臣たちに
馬飼臣と言う人がいます。
名前が伏せてあるのは、ヤマト王権の臣下ではなく、
他の王朝に忠誠を誓う人物なので名前を伏せてあるとしています。
その王朝は、宋王朝で宋に冊封された倭の五王の方と言うことです。
と言うことは、織幡神社として武内宿禰の名前が伏せてあるのは、
武内宿禰が宗像地方では当時、他の王権の臣下であったから
と言うことも考えられます。
倭の五王の時代、宗像は馬飼臣たち筑紫の臣、筑紫の兵の拠点で
武内宿禰たちヤマト王権の忠実な臣下を名前で呼ぶことはしなかった。
織幡神社、馬飼臣、お互い様、
それぞれ相手方の王朝の臣下重臣を
名指しで呼ぶようなことはしなかった。
その名残りではないか。
武内宿禰は、神功皇后、応神天皇にとって
最側近であり極めて重要な家臣です。
決して幡を織ることが、一番重要な役割だったとは思えません。
しかし、宗像に置いては、武内宿禰は、機織りとして重要なのです、
宗像が、倭の五王の軍事拠点、祭祀拠点なら
倭の五王の祭祀が残っているはずで武内宿禰の織幡神社と言うのは、
やはり倭の五王は、ヤマト王権ではなかったとなります。
しかし、宗像にとって「幡」は、重要です。
特に倭の五王の拠点であったならです。
魏志倭人伝にも魏の皇帝が、攻撃を受けている邪馬臺国、卑弥呼の為に
黄幡を邪馬臺国の使者に檄文と共に渡したとあります。
倭の五王であるなら当然、幡は宋の幡であり梁の幡です。
白村江の敗北の後は、唐から幡を送られている可能性もあります。
沖ノ島のお供えの中に中国製の龍頭が見つかり
幡飾りであったとされます。
唐からも幡を送られている可能性は大です。
これら中国皇帝からもらった幡を沖ノ島に置き絶対的なタブーとした。
そして、武内宿禰が幡を織った伝説を残してお祀りする。
宗像大社が、天照皇大神、天孫所縁の神社であるとすると、
武内宿禰の伝説が残り
倭の五王の伝説は伝わってはいない。
タブーにされているもの沖ノ島祭祀が、
倭の五王に関する祭祀ではないか。
となります。
沖ノ島のタブーを犯してはならない。
荒らしてはならない。
文化伝統を守って欲しいと願っていましたが、
ユネスコに世界遺産登録をされて
より厳しい保護管理が行われるようになりました。
その一方で私たちは、沖ノ島出土の品々を目にすることが出来ます。
先に書いた龍頭もそうですし、新羅製の金環、三角縁神獣鏡など
多くの出土品を鑑賞することが出来ます。
これらは、ヤマト王権の祭祀ならタブーになることはなかったと思いますが、
倭の五王の祭祀だったのでタブーが課せられていたと思われます。
同時期の筑後や有明海沿岸の
石人山古墳や月岡古墳、江田船山古墳などの出土物も
宗像との関連で考えて倭の五王のクニを想定することが出来ると考えます。
本来ならこれらも
宗像・沖ノ島関連遺産群と併せて
文化財保護を行い、倭の五王の倭国の研究を進めたいところです。
現在、日本の天皇は国民総意の象徴です。
憲法にも定められていますので
倭の五王のこと、九州王朝のことも調べたり考えたりできるわけです。
また、今の天皇に繋がることではないからこそ、
文化財としての保護がより必要、重要になって来ます。
やはりユネスコに乗り出して
頂かないといけない世界遺産としての保護が必要な文化財です。
|
全体表示
[ リスト ]



