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隋の時代に倭国を従えている日本と言う国がある
とされていて
倭国が倭の中の国に従っていたと言うケースはあります。
中国王朝の文書に倭国が倭の他国を従えている
と言った文言はありません。
同時期に
ヤマト王権は、倭国を名乗り筑紫国を属国にしていると言っています。
倭の五王は、諸軍事六カ国でクニグニを上げていますが、
その中に筑紫国はありません。
とすると、
倭の五王が言う倭国は、筑紫国を含んでいる。
筑紫国が倭国と言うケースもあります。
私は、これだと思います。
古くから中国王朝と誼を通じていて
人々も冊封されることに誇りを感じている。
中国皇帝の軍旗で人々が集まる。
韓半島にも近く、軍事的行動を取りやすく、
交流、交易も盛んに行われていた。
韓半島情勢からも情報を得やすい。
中国王朝から見て「倭」と言うと、
奴国や伊都国などのあった筑紫がまず、浮かぶのではないか。
ヤマト王権が、倭の五王の国だとすると、
韓半島には、距離があり情報を得るのも難しく。
また、西の諸国を衆夷とするのは、どうかと思います。
倭で一番早く冊封を受けているのは、西に位置する奴国ですし、
倭王武の時代の5世紀、宗像や有明海沿岸、筑後川流域の
繁栄ぶり出土物からは、ヤマト王権の衆夷と言った印象ではなく、
韓半島との交流外交があり
胎中帝の頃より各国の使者が筑紫国に至り朝を行っていた
と言うことが裏付けられるようです。
倭王武が上表している中では、
祖先たちが戦った様子を方位を示しながら語っているのですが、
それは戦の様子であって政治的に支配下に置いている
と言う意味ではありません。
ヤマト王権が言う倭国は、筑紫国を属国にしていると言うことからも
倭の五王の国ではないと思える点です。
倭の五王の倭国は、日本と言う国に従っている。
現在、私たちの国「日本」は、日本と名乗っているのですから
隋のいう処の倭国を従えている日本が、
今の私たちの日本であると考えて差し支えはないでしょう。
中国王朝との国家レベルので正式外交は、隋からです。
推古天皇、聖徳太子の時代からです。
倭の五王が、将軍位を得ていた宋や梁との外交は、記録がありません。
ヤマト王権は、倭国を名乗りましたが、
国際社会では、倭国と言うのはヤマトではなく、
日本と呼ばれている国が、自分たちのことだと知ることになったと思います。
万葉集では、これらの混乱混同を避けて
雄略天皇に山跡乃国(大和の国)の支配者と名乗らせて
誰もが納得できるようにして後々まで語り継ごうとしたのだと思います。
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歴史
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宗像周辺には、織幡神社があって
この神社は、武内宿禰を祀っているとされます。
神功皇后の凱旋で武内宿禰は、幡を織り
沖ノ島に掲げたとされます。
沖ノ島には、タブーがあり
そこで見たものを口外してはならないとされていますから
唯一の例外、ヤマト王権や武内宿禰のことは
タブーになってはいないことが分かります。
また、香椎宮では、武内宿禰の神社があって
神さまのお名前が分かる様になっています。
織幡神社は、幡を織ったことに特化した神社でして
香椎宮とは文化が違う系譜が違うのではないかと思われるのでした。
雄略天皇のときに高句麗を討った筑紫の臣たちに
馬飼臣と言う人がいます。
名前が伏せてあるのは、ヤマト王権の臣下ではなく、
他の王朝に忠誠を誓う人物なので名前を伏せてあるとしています。
その王朝は、宋王朝で宋に冊封された倭の五王の方と言うことです。
と言うことは、織幡神社として武内宿禰の名前が伏せてあるのは、
武内宿禰が宗像地方では当時、他の王権の臣下であったから
と言うことも考えられます。
倭の五王の時代、宗像は馬飼臣たち筑紫の臣、筑紫の兵の拠点で
武内宿禰たちヤマト王権の忠実な臣下を名前で呼ぶことはしなかった。
織幡神社、馬飼臣、お互い様、
それぞれ相手方の王朝の臣下重臣を
名指しで呼ぶようなことはしなかった。
その名残りではないか。
武内宿禰は、神功皇后、応神天皇にとって
最側近であり極めて重要な家臣です。
決して幡を織ることが、一番重要な役割だったとは思えません。
しかし、宗像に置いては、武内宿禰は、機織りとして重要なのです、
宗像が、倭の五王の軍事拠点、祭祀拠点なら
倭の五王の祭祀が残っているはずで武内宿禰の織幡神社と言うのは、
やはり倭の五王は、ヤマト王権ではなかったとなります。
しかし、宗像にとって「幡」は、重要です。
特に倭の五王の拠点であったならです。
魏志倭人伝にも魏の皇帝が、攻撃を受けている邪馬臺国、卑弥呼の為に
黄幡を邪馬臺国の使者に檄文と共に渡したとあります。
倭の五王であるなら当然、幡は宋の幡であり梁の幡です。
白村江の敗北の後は、唐から幡を送られている可能性もあります。
沖ノ島のお供えの中に中国製の龍頭が見つかり
幡飾りであったとされます。
唐からも幡を送られている可能性は大です。
これら中国皇帝からもらった幡を沖ノ島に置き絶対的なタブーとした。
そして、武内宿禰が幡を織った伝説を残してお祀りする。
宗像大社が、天照皇大神、天孫所縁の神社であるとすると、
武内宿禰の伝説が残り
倭の五王の伝説は伝わってはいない。
タブーにされているもの沖ノ島祭祀が、
倭の五王に関する祭祀ではないか。
となります。
沖ノ島のタブーを犯してはならない。
荒らしてはならない。
文化伝統を守って欲しいと願っていましたが、
ユネスコに世界遺産登録をされて
より厳しい保護管理が行われるようになりました。
その一方で私たちは、沖ノ島出土の品々を目にすることが出来ます。
先に書いた龍頭もそうですし、新羅製の金環、三角縁神獣鏡など
多くの出土品を鑑賞することが出来ます。
これらは、ヤマト王権の祭祀ならタブーになることはなかったと思いますが、
倭の五王の祭祀だったのでタブーが課せられていたと思われます。
同時期の筑後や有明海沿岸の
石人山古墳や月岡古墳、江田船山古墳などの出土物も
宗像との関連で考えて倭の五王のクニを想定することが出来ると考えます。
本来ならこれらも
宗像・沖ノ島関連遺産群と併せて
文化財保護を行い、倭の五王の倭国の研究を進めたいところです。
現在、日本の天皇は国民総意の象徴です。
憲法にも定められていますので
倭の五王のこと、九州王朝のことも調べたり考えたりできるわけです。
また、今の天皇に繋がることではないからこそ、
文化財としての保護がより必要、重要になって来ます。
やはりユネスコに乗り出して
頂かないといけない世界遺産としての保護が必要な文化財です。
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私たちの国は、「日本」です。
隋が、隋の皇帝が、
日本と言う国が、倭国を従えていると
驚いた国が「日本」です。
日本と言う国名は、雄略天皇のときに
任那日本府として出て来ます。
537年に任那日本府は、新羅に襲撃されて滅びますが、
ヤマト王権は、その後も任那復興を目指して
派兵をしたり会議を開いています。
ですから
日本が、ヤマト王権の方であろうとは思われますが、
隋に対してヤマト王権は、国名を日本とは名乗らずに
「倭国」としています。
韓半島や隋と言った中国王朝は、ヤマト王権のことを
日本としていたのではないかと思います。
現在、古事記日本書紀にあるのは、日本の歴史でしょう。
中国王朝に冊封されていた倭国の歴史ではありません。
魏志倭人伝には、倭国が乱れたので
邪馬臺国に卑弥呼を共立したとあります。
奴国が57年に後漢から金印を授与されて
その後、166年が倭国大乱。
隋や中国王朝がいう処の倭国はこの倭国。
新羅は、新羅本記で59年に倭国と国交樹立としていますので
奴国王が冊封されてから僅か2年後のことです。
この倭国が中国王朝が倭国としている倭国と同じだろうと思います。
一方、百済では、倭国との国交樹立は、397年です。
百済が倭国と言っているのが、ヤマト王権である可能性はあります。
倭の五王が求めた諸軍事六カ国では、百済が含まれていますが、
宋では百済を外して代わりに加羅を入れています。
地理的に百済は、南朝に近く、それよりも遠い加羅を加えた方がいいし、
加羅には鉄がありますし、諸々の理由から
百済の代わりに加羅が加えられたと思います。
5世紀に宗像が繁栄し、海外の文化、文物が入っているのは、
新羅や加羅の諸軍事六カ国を果たすためであったろうと思われます。
これらは、倭国の歴史であって日本の歴史にはない事柄です。
万葉集では、雄略天皇の国を山跡乃国としています。
大和の国です。
本来のヤマト王権の国、発祥の地の国名です。
これについては、異論はなかろうと思われます。
熊本和泉の江田船山古墳出土の鉄刀に
ワカタケル大王の世に事典曹人としてムリテが奉られたと
刻まれていて
ヤマト王権の支配が、九州に及んでいたのではないかとされます。
このことは、隋の皇帝が驚いていたこと、
日本と言う国が、倭国を従えていることに一致します。
雄略天皇のときには、筑紫とヤマトの価値観が一致して
協力関係に有ったと見ています。
そこには、高句麗に攻撃されている百済からの働きかけがあった。
鉄刀も百済製ではないかと思っています。
鉄刀の文言に「王恩」とあります。
5世紀当時、倭には見当たらない価値観、文化で
これは、中国のものです。
皇帝から統治する処を与えられたと言う意味になる「王恩」です。
刻文には、王恩に続いてその「統べるところを失わず」とあるので
これは、中国文化の王恩です。
皇帝の恩により国を頂いた中国王朝の冊封を意味していると受け取れます。
雄略天皇、ワカタケル大王が、王恩を受けていたのなら
ヤマトは冊封されて雄略天皇が倭王武になりますが、
この鉄剣では、王恩を賜るのは、ムリテです。
倭王武の武は、ムリテのムに一致します。
このようなストリーは、倭国のストリーです。
日本の歴史にはない倭国の歴史。
日本と倭国は、国の歴史が違います。
現在の私たちが、国の歴史として学んでいるのは、
日本の歴史です、
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記紀に依る日本神話では、神功皇后の船は、
新羅の中ほどまで進み、新羅王や新羅の人々を恐れさせた
とされます。
新羅王は、服従を誓い馬の鞭と櫛を捧げた。
多くの財宝を送ったとされます。
これは、仲哀天皇喪中の出来事で
皇后自身もヤマトも諸手を上げて喜ぶことは出来なかった
のではないかと推測されます。
これらは、神話で現実には何が起こったか分かりません。
百舌鳥古市古墳群が、海辺にあり航路からも
眺められたと言うことは、
もしかしたら住吉神に天皇の死を知らせていたのかもしれません。
応神天皇は、住吉神に天皇位を賜っています。
倭の五王のような冊封された王たちは、
中国皇帝との関係が語られているはずです。
将軍位を賜ったこと、冊封されたことが記載されるはずです。
日本神話は、住吉神が次の天皇としたとしています。
そして、忍熊王との激戦を経て皇位を得たことになっています。
「諸軍事六カ国」と言う考え方もヤマト王権には、見当たりません。
筑紫の兵たちも神功皇后の船に同船していました。
日本神話から察すると、筑紫の兵たちの地位は上がったと思われます。
神に守られた奇跡の船に乗っていたわけです。
それにこの地方では、前漢時代から韓半島だけではなく、
中国王朝にまで進み誼を通じていたのですから
新羅の遥か先にまで船が行っていたことになります。
このことを考えると、
中国王朝の宋に対して
ヤマトよりも早く中国王朝との誼を通じていた
九州のクニグニが西にあるのに
しかも奴国は、冊封国だったのに
「衆夷」と言うような表現をするでしょうか。
倭の五王は、クニグニが中国皇帝に忠誠を誓うように戦い、
将軍位を中国王朝に求めています。
しかし、ヤマトだと西には先に
中国王朝に忠誠を示しているクニグニがあり
自分の方が後発です。
中国皇帝の威信を示すような活動や軍事を行っていたクニは、
ヤマトよりも九州の方が先になります。
祖先から戦いに明け暮れていたと上表するのは・・・、???
やはり九州の豪族でないと、成り立たないと思います。
と言うか、ヤマトは一度も中国皇帝の為に戦ったことがありません。
そういう記録が残っていません。
日本の為と百済から救援を求められて戦っています。
日本の上に他国や他国の王がいたことなど、一度も有りません。
早い話が、倭の五王ではない。
中国皇帝の将軍位など、貰ったことも求めたこともないのでしょう。
巨大な前方後円墳や埴輪をずらっと並べる様式など
これらは天皇自身のための文化であり倭の文化です。
中国皇帝に冊封を受けて将軍位を賜っているような
文化には見えないのでした。
住吉神も日本の神さまです。
5世紀には、地方の古墳から大加耶や韓半島のものが、出土しています。
以前にも指摘しましたが、
時期的に磐井の乱以降には、これら韓半島の副葬品は、
地方から姿を消していきます。
これらの副葬品の背景には、中国皇帝の冊封があったと思われます。
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百舌鳥古市古墳群、4世紀から5世紀にかけて
なぜ、巨大な古墳が造られたのか。
それが、2カ所にどうして別れているのか。
前方後円墳と言う独自の形は、いったい何なのか。
本当に分からないことが、多くミステリアスです。
磐井の古墳については、記紀で
磐井は生前から古墳を造っていたとあり
大きな古墳で権力を示す狙いがあったように思えます。
記紀の記載から
応神天皇の皇統には、海の神住吉神が大きく関与していたことが、
分かります。
住吉神を畏れ敬い加護を願う強い想いがあったと思われます。
天皇の御陵に関しては、どこに埋葬したかと言うことを記載しています。
この書き方だと、天皇自身が古墳づくりを命じたと言う印象よりも
残された人たちが、亡き天皇を偲んで造ったと言う印象を持ちます。
どこに埋葬したかと言う記載を元に御陵の天皇を推定しています。
百舌鳥古市古墳群が誕生した後に
吉備や筑紫で乱が起こったとされていて
巨大な古墳が、天皇の権力や威信を示し、
地方豪族を封じ込める役割を果たしてはいなかったようです。
謀反ではなく、戦争だったとする説もありますし、
筑後風土記では、襲って来たのは物部の方だったとしています。
吉備には、造山古墳があり
百舌鳥古市古墳群よりも古い段階で巨大古墳が造られています。
一説には、造山古墳に影響されて畿内の古墳も巨大化したともされます。
吉備は、雄略天皇のときに一度、攻め滅ぼされていて
吉備にヤマトの人がいたとしたら雄略天皇のときの
人たちだったかもしれないです。
また、筑紫も雄略天皇のときに百済救援、高句麗討伐で
価値観が一致していたようです。
同じ価値観の元で雄略天皇は、筑紫の兵たちに百済の王子を送らせ、
筑紫の内臣たちが高句麗を討っている。
継体天皇のときに謀反が起こったとされる地域は、
ともに雄略天皇との関係があったようです。
特に高句麗を討ったことで筑紫の地位は上がったと思われます。
倭の五王で言うと倭王武です。
磐井が皇風に従わずに振る舞ったとしても
雄略天皇の皇統なら大目に見たかもしれませんが、
応神天皇の五世で雄略天皇とは無縁な継体天皇では、
対応が違ったかもしれないです。
武烈天皇の後に皇統が途絶えます。
天皇位に就く人がいなくなる。
辞退して逃げ出す人がいて
若狭に居た継体天皇を三顧の礼を持って大伴金村が、
天皇に迎えます。
皇位の争いと言うのは、しばしば勃発しています。
天皇になりたい人が多かった。
ライバルとの熾烈な争いや謀略もありました。
しかし、百舌鳥古市古墳群の終焉は、天皇になりたくない
と言う珍しいケースに至ります、
いったい、何があったのか。
巨大古墳が地方にも出現して
地方豪族の勢いが増している様子があります。
倭王武が高句麗を討伐したことと
関係があるのではないかとも思われます。 磐井の古墳は、磐井が生前より造っていたとされ
磐井は各国の使者を引き入れていたともされます。
特に新羅は、磐井君に賄賂を渡して皇軍を止めるように計ったとされ
謀反の原因が、外国との結びつきとなっています。
と言うことは、謀反ですから
新羅は磐井を倭王とするように計っていたと言うことになります。
武烈天皇の後に天皇位から逃げ出す人がいて
皇統が途絶えたことの原因に筑紫と外国の使者との
関係も有ったのではないか。
筑紫の2つの朝鮮式山城や水城は、新羅や唐の使者がこれを見て
倭を攻撃することを諦めるだろうと記載があります。
白村江の戦いの後、唐や新羅の軍勢が倭に攻め込むことはなかったですし、
太宰府では、主に外交が行われますので
水城や朝鮮式山城を造って良かったと言いましょうか。
敵が攻め込むことはなかったのです。
倭の平和が保たれます。
百舌鳥古市古墳群があっても
吉備と筑紫で謀反が起こりました。
「謀反」と言う言い方は、記紀がしていることで
戦争だったと言う説があり
物部氏の方が筑紫君を襲って来たと言う筑後風土記の記載も有ります。
吉備には、吉備王朝、筑紫には、筑紫王朝、九州王朝を
想定する説があります。
個人的に筑紫の王朝は、あったと見ています。
と言うことは、倭にはいくつかの倭王権が存在していて
王権を守るために自分たちの王権の権力や威信を示すために
巨大な古墳を造った可能性もありますし、
倭の五王のように中国王朝に冊封を受けることもあったではないでしょうか。
ヤマト王権は、中国皇帝の冊封を受けてはいなかったと見ています。
独立した倭王権だったと見ています。
弥生時代から冊封はありますが、それは九州の話です。
隋のときに
隋の方は、日本は元は小さな国だったのに倭国を従えていると、
驚きを持って記載されています。
一方、倭の方では、筑紫は属国で筑紫の東に倭国があるとしています。
少なくとも2つの国があったことは確かで
倭国と筑紫国とする倭と
隋は、日本と倭国としています。
従う従えると言った関係では、
倭の方が言う倭国はヤマト王権で属国の筑紫がある。
隋の方で言うと、日本がヤマト王権で従っている倭国は筑紫国
と言う構図が成り立とうかと思われます。
隋の方では、中国王朝が冊封して来た倭国を
日本と言う国が従わせていることに驚いています。
日本は、中国皇帝を驚かせた国と言っても良いと思います。
まだまだ、ミステリアスな日本の歴史です。
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