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再掲:東京裁判(米ソはいかにして密約談合の結果戦後極東地域の分割を策したのか)
(写真はヤルタ会談臨む三首脳、左からチャーチル英首相、ルーズベルト米大統領、スターリンソ連首相。この会談でルーズベルトとスターリンは戦後世界の分割を密約した)
米ソの密約と東京裁判セレモニー(戦後体制はいかに謀議されたのか)
”トウジョウヒデキ デス・バイ・ハンキング”
1948(昭和23)年11月11日市ヶ谷の東京裁判法廷において裁判長ウエッブが東條英機被告ら7名に対して次々に「絞首刑」を宣告していった。そして同年12月23日深夜死刑は執行された。奇しくもこの日は皇太子(現天皇陛下)の誕生日すなわち国民慶祝の日であった。連合国が昭和天皇を訴追できなかった腹いせにこの日を設定したというべきか。
時は1945(昭和20)年2月にさかのぼる。
ヤルタ秘密会談がこの日地中海に浮かぶ艦上においてとりおこなわれた。ルーズベルト米大統領・スターリンソ連首相・チャーチル英首相が集い、戦後世界の分割について「談合」をおこなった。「ヤルタの密約」といわれたこの席上でルーズベルトはスターリンに対してソ連の対日参戦と南樺太・千島の割譲そして満州の利権と朝鮮半島北半分のソ連による統治を約束保証することとした。ようするに日本のソ連への売り渡しを条件にソ連の対日参戦を行なわせることによって米国は現在戦われている日米戦争での自国兵士の被害を防ごうとしたのである。
さらに7月にはこの三カ国首脳がポツダムに集結して会議をおこなうとともに日本に対しての降伏文書を作成東京に打電した。
その内容とは
「五條、吾等の条件は左の如し。吾等は右条件より離脱することなかるべし。
六條、日本を世界征服へと導いた勢力の除去
八條、カイロ宣言ノ条項ハ履行セラルベク又日本国ノ主権ハ本州、北海道、九州及四国竝ニ吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルベシ
十條、日本人を民族として奴隷化、国民として滅亡せんとするに非ず。一切の戦争犯罪人の処罰
十三條、全日本軍の無条件降伏と日本国政府によるその保障
冒頭第一條にて、日本国に対し戦争を終結する機会を与えるとし、末尾第十三條において、全日本軍の無条件降伏と政府がそれを保障する事を受け容れられない場合は、(ドイツ同様の)迅速且つ完全なる壊滅あるのみ」
となっている。
この宣言の結果、連合国は東京に軍事裁判所を設置して「戦争犯罪人」を指定拘引して処罰をおこなうことと非武装化さらに明治維新以降日本が関わった一切の戦争が「侵略戦争」であったことを日本国民に啓蒙教育することが決定された。
天皇の終戦放送直後、マッカーサーは日本に上陸、GHQ最高司令官に就任するとともに日本における戦後体制の骨格をつくることに腐心していく。
厚木旧海軍航空基地に降りたマッカーサーは東京に向かう乗用車の車中、弁護士出身であるホイットニー准将に向かって指示を出した。
「第一に戦争犯罪人の拘束と処罰をおこなうこと。
第二に侵略戦争の温床となった旧体制の徹底的な壊滅と侵略主義者の追放
第三に日本が中国大陸に進出していった原因である前時代的な寄生地主制解体と小作人の解放・農地改革の実施。
第四に同じく前近代的な財閥の解体と独占禁止法の制定
第五に軍国主義イデオロギー教育の消滅と民主教育の実施。
第六に公務員に労働組合活動を保障すること。
といった具体的指示の列挙となった。
この指示はワシントンから送信された「対日基本政策概要」に基づくものであり、ヤルタ・ポツダムで合意された方針に沿ってのものであった。
11月になると占領軍によって次々に「戦争犯罪人」が逮捕収容されていった。
しかしこの戦争犯罪人なるものの規定が全くあいまいであり、恣意的に指名していったことは間違いない。その証拠に、訴追の責任であるマッカーサーの副官ソープは東條の戦犯指名に続いて東條内閣当時の閣僚全員を戦犯に指名した。その理由とはソープ准将の「とりあえず東條内閣の閣僚たちを戦犯リストに挙げてみるか」という軽い気持ちから発したものであった。
その結果総勢28名にわたる被告が占領軍によって起訴されることになった。
1946(昭和21年)五月三日裁判は開始された。起訴された者たちの内訳は陸軍15名海軍三名文官九名民間人一名となったが、この裁判が何ら正当性を持ち合わせていないことは裁判初日の紛糾からして当然のなりゆきと言えよう。
まず起訴状が検察官から朗読される。
「日本の対外政策は犯罪的軍閥によって支配・指導された。これらの政策は重大なる国際紛争侵略戦争の原因となり、平和愛好諸国民に危害を加えたことは間違いない。・・・・・」として被告たちに対して「平和の罪、人道に対する罪、および戦争犯罪の罪」の三つに区分け。被告を選定した根拠を長々と語り始める。そして「侵略戦争」はこれら被告たちの「共同謀議」によってなされたものであると規定した。
この検察の起訴状朗読を黙って聞いていた賀屋興宣(東條内閣の蔵相。戦後、岸内閣で蔵相を務める)被告はこう呟やく。
「共同謀議なんて、おこがましい限りだ。ある者は突っ走れと主張。またある者は引けと言いだす始末だった」(映画『東京裁判』)
そのとおり、当時の日本支配層内部は統一した政策を最後まで持つことが出来ずに終戦となってしまったというべきだ。主戦の陸軍のなかでも拡大派と不拡大派さらに南進派と北進派との確執は熾烈を極めていた。日中戦争当初主戦派の東條英機は不拡大派・北進派の代表である石原莞爾と対決していったことなど、まさに代表的な例と言えよう。
当時の北東アジアの実情を無視した検察陣の起訴状は陳腐にして滑稽と言うことができよう。
東京裁判とは一体なんであったのか?一口で言うならばそれはヤルタ=ポツダムにおける密約の結果、米ソによって交わされた戦後世界の再分割のための儀式に過ぎなかったということだ。米ソはこの結果日本の非武装化・日本領土の縮小を手始めに日本の戦後体制の構築を完成させていった。
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