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自立と共生こそが今の時代にあっているフレーズである。公平公正にして一人として孤立することのない社会を望んでいます。

書庫日本近代史と大亜細亜主義

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無署名寄稿  遥かなる“かくめい”を求めて=戦前 ”昭和維新運動 „の系譜(1)
 
権藤成卿、石川三四郎、橘 孝三郎らの農民共同体運動=農本主義の展開
 
1、農本主義運動
 無政府主義運動出身の権藤成卿は黒龍会(内田良平)が日韓両国対等の連邦を目指した《日韓合邦運動》のブレーンとして参画。その後《自治学会》を設立、明治維新以降の政府の基軸である《近代主義》を批判。社稷思想、自治思想による《農村共同体運動》を実践していった。
 社稷思想とは農村の古来よりの伝統的生産共同体を指し、原始共産社会組織を反映したものであり、広義の国家=クニの基本組織と考えるものである。それゆえ寄生地主制度を廃棄し、小作農の解放=小農の自立による農民共同体を追求していった。
 橘 孝三郎、石川三四郎、加藤一夫、権藤成卿らが農本主義者として知られる。とりわけ橘 孝三郎らは「愛郷塾」(農村自治勤労学校)を結成、農民による理想郷社会の建設を展開していった。《兄弟村農場運動》は、完全なる「自給自足」を旨とし、いっさいの資本主義的都市工業社会を拒絶し、小作人の自立を基調とした共同体運動といえる。
 橘、権藤、石川らが農民共同体運動に没頭していった背景とは一体何だったのか。それを探ってみたい。
 日本は明治以降急激に社会の中央集権構造・都市集中・工業化社会をめざしていったが、その一方で一握りの特権的資本家階級と多数の貧困層を作り出していった。
 膨張する都市開発と都市人口の増加、それに反比例して疲弊の一途をたどる農村社会の現実=寄生地主の収奪にあえいでいる小作人の姿があった。それゆえ貧農の自立と貧農による農村社会の建設すなわち農民権力の創出によって、工業化したことによってすっかり歪んでしまった日本社会を変革できると信じた。そこにはクロポトキンらに代表される《相互扶助社会、自由連合社会》の思想が色濃く反映されている。
 さらにもう一点、彼らが目的とした社会こそ、資本主義的中央集権社会の徹底批判と農村復興を軸とした地域主権自治社会への強い憧れであったともいえるのだ。
 
2、橘孝三郎の昭和維新運動への合流
 さて、このように農村共同体運動を実践していた橘 孝三郎が一体何ゆえに、昭和初期の一連のクーデター計画に参加していったのか、その要因はどこにあったのだろう。
 橘孝三郎と5・15事件で行動をともにすることになる日蓮宗僧でテロリスト血盟団首領井上日召とその影響下にあった海軍中尉古賀清志との初めての出会いは、橘が農村共同体運動をしていた茨城県時代にまでさかのぼる。古賀は海軍霞ヶ浦航空隊の教官をしていたおり、そこで何気なく農民運動家橘と交流を持つことになり、意気投合していった。井上日召も然りだ。
  そして、橘はそれまで自己の思想路線としてもっていたクロポトキン思想(アナーキズム)の貧農共同体=自由連合から止揚、国家改造運動へと自己の路線を転換していったのである。
3、農本主義運動のその後
 やがて、日本農民運動は無政府主義農民自治運動=農本主義から無産政党が指導する都市勤労者運動と結合した労農運動へと変わっていった。戦前の全農・日農がそうである。1930年代後半、労農運動は、激しい対地主闘争=小作争議を展開していく。
 
 今日、日本農業の衰退をみるとき、戦前昭和初期、農本主義者が批判していた都市工業化社会と中央集権構造が如何に地方を壊滅させ、農業を破壊していったか知ることができよう。
 しかし、一方で環境保護運動の勃興や集権主義、都市集中への叛逆が盛んになっている点を考えると、戦前の農本主義=反集権主義・農民自治運動が今日の政治テーマを先取りしたものではなかったか、そう思えてならない。
 
なお、作家・高橋和己(故人)の労作『邪宗門』も昭和初期を舞台にした農村共産制社会の実現(自給自足・平等社会)を扱った作品である。(河出文庫『邪宗門』参照)
 
【参考文献】
加藤一夫『農本主義』1933暁書院
桜井武雄『日本農本主義』1935,復刻版1974,青史社

転載元転載元: 格差社会を打ち破れ

無署名寄稿  遥かなる“かくめい”を求めて=戦前 ”昭和維新運動 „の系譜(1)
 
権藤成卿、石川三四郎、橘 孝三郎らの農民共同体運動=農本主義の展開
 
1、農本主義運動
 無政府主義運動出身の権藤成卿は黒龍会(内田良平)が日韓両国対等の連邦を目指した《日韓合邦運動》のブレーンとして参画。その後《自治学会》を設立、明治維新以降の政府の基軸である《近代主義》を批判。社稷思想、自治思想による《農村共同体運動》を実践していった。
 社稷思想とは農村の古来よりの伝統的生産共同体を指し、原始共産社会組織を反映したものであり、広義の国家=クニの基本組織と考えるものである。それゆえ寄生地主制度を廃棄し、小作農の解放=小農の自立による農民共同体を追求していった。
 橘 孝三郎、石川三四郎、加藤一夫、権藤成卿らが農本主義者として知られる。とりわけ橘 孝三郎らは「愛郷塾」(農村自治勤労学校)を結成、農民による理想郷社会の建設を展開していった。《兄弟村農場運動》は、完全なる「自給自足」を旨とし、いっさいの資本主義的都市工業社会を拒絶し、小作人の自立を基調とした共同体運動といえる。
 橘、権藤、石川らが農民共同体運動に没頭していった背景とは一体何だったのか。それを探ってみたい。
 日本は明治以降急激に社会の中央集権構造・都市集中・工業化社会をめざしていったが、その一方で一握りの特権的資本家階級と多数の貧困層を作り出していった。
 膨張する都市開発と都市人口の増加、それに反比例して疲弊の一途をたどる農村社会の現実=寄生地主の収奪にあえいでいる小作人の姿があった。それゆえ貧農の自立と貧農による農村社会の建設すなわち農民権力の創出によって、工業化したことによってすっかり歪んでしまった日本社会を変革できると信じた。そこにはクロポトキンらに代表される《相互扶助社会、自由連合社会》の思想が色濃く反映されている。
 さらにもう一点、彼らが目的とした社会こそ、資本主義的中央集権社会の徹底批判と農村復興を軸とした地域主権自治社会への強い憧れであったともいえるのだ。
 
2、橘孝三郎の昭和維新運動への合流
 さて、このように農村共同体運動を実践していた橘 孝三郎が一体何ゆえに、昭和初期の一連のクーデター計画に参加していったのか、その要因はどこにあったのだろう。
 橘孝三郎と5・15事件で行動をともにすることになる日蓮宗僧でテロリスト血盟団首領井上日召とその影響下にあった海軍中尉古賀清志との初めての出会いは、橘が農村共同体運動をしていた茨城県時代にまでさかのぼる。古賀は海軍霞ヶ浦航空隊の教官をしていたおり、そこで何気なく農民運動家橘と交流を持つことになり、意気投合していった。井上日召も然りだ。
  そして、橘はそれまで自己の思想路線としてもっていたクロポトキン思想(アナーキズム)の貧農共同体=自由連合から止揚、国家改造運動へと自己の路線を転換していったのである。
3、農本主義運動のその後
 やがて、日本農民運動は無政府主義農民自治運動=農本主義から無産政党が指導する都市勤労者運動と結合した労農運動へと変わっていった。戦前の全農・日農がそうである。1930年代後半、労農運動は、激しい対地主闘争=小作争議を展開していく。
 
 今日、日本農業の衰退をみるとき、戦前昭和初期、農本主義者が批判していた都市工業化社会と中央集権構造が如何に地方を壊滅させ、農業を破壊していったか知ることができよう。
 しかし、一方で環境保護運動の勃興や集権主義、都市集中への叛逆が盛んになっている点を考えると、戦前の農本主義=反集権主義・農民自治運動が今日の政治テーマを先取りしたものではなかったか、そう思えてならない。
 
なお、作家・高橋和己(故人)の労作『邪宗門』も昭和初期を舞台にした農村共産制社会の実現(自給自足・平等社会)を扱った作品である。(河出文庫『邪宗門』参照)
 
【参考文献】
加藤一夫『農本主義』1933暁書院
桜井武雄『日本農本主義』1935,復刻版1974,青史社
歴史上、類を見ない大虐殺・・・・・・3・10東京大空襲
東京を襲った空前の焼夷弾
読売新聞『検証 戦争責任』より転載
 
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45年(昭和20年)3月10日午前0時15分、空襲警報が発令された。それから約2時間半、B29 爆撃機150機(米側資料では334機)が、単機あ
るいは数機ずつに分散して低空から波状じゅうたん爆撃をおこなった。多数の火災が発生、烈風により合流火災となり、東京の約4割を焼き、甚大な被害を生じ
た。ーー。東京都編集の『東京都戦災誌』は、未明の東京大空襲をこのようにしるしている。
  実際の空襲は、警報が鳴る7分前、東方から超低空で侵入したB29による深川地区への焼夷弾投下で始まった。奇襲攻撃だった。
   爆撃は、100㌔級爆弾6発のほか、油脂焼夷弾45㌔級8545発、2.8㌔級18万305発、エレクトロン焼夷弾1.7㌔級740発(消防庁資
料)というすさまじいものだった。しかも、まず攻撃目標地区の周辺部に焼夷弾を落とし、巨大な火の壁を作って住民の避難路を遮断したうえで、逃げまど
う人々を焼き殺していった。
  被害は、死者約8万8000人、罹災者約100万8000人、全焼家屋約26万7000軒(警視庁資料)にのぼった。
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  B29による初の東京空襲は、44年(昭和19年)11月24日のことだった。サイパン島を飛び立ったB29は、軍用機のトップメーカーだった中島飛
行機(現冨士重工)武蔵製作所のほか、品川、杉並区などを爆撃した。その後もB29の爆撃は、軍需工場のある工業地域を主な標的としていたが、東京大空
襲を契機に、非戦闘員や住居を対象に大量の焼夷弾を投下する無差別爆撃へと転換した。
  米軍の無差別攻撃は、東京大空襲以降、名古屋、大阪、神戸などに拡大し、45年6月中旬からは、空襲の重点が浜松、四日市、鹿児島など中小都市に移
行した。7月下旬になると、上空からビラをまき、特定の都市の空襲予告も行った。

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暗黒裁判ののち処刑さていった磯部浅一の獄中手記を読んで
 

 「明治以後の日本は、天皇を政治的中心とした一君と万民との一体的立憲国であります、もつとワカリ易く申上げると、天皇を政治的中心とせる近代的民主国であります、左様であらねばならない国体でありますから、何人の独裁をも許しません、然るに今の日本は何と云ふうざまでありませうか、天皇を政治的中心とせる元老、重臣、貴族、軍閥、政党、財閥の独裁国ではありませぬか、いやいや、よくよく観察すると、この特権階級の独裁政治は、天皇をさへないがしろにしてゐるのでありますぞ、天皇をローマ法王にしておりますぞ、ロボットにし奉つて彼等が自恣専断を思ふままに続けておりますぞ
 日本国の山々津々の民どもは、この独裁政治の下にあえいでゐるのでありますぞ
 陛下 なぜもつと民を御らんになりませんか、日本国民の九割は貧苦にしなびて、おこる元気もないのでありますぞ」(2・26事件被告磯部浅一の遺書より)




 2・26事件の被告たち
  陸軍当局は2・26事件の首謀者磯部浅一元大尉を北一輝・西田税(元軍人)らと一緒に刑を執行させるため、すでに処刑された仲間とは別個に陸軍刑務所にそのまま収監されていた。この磯部浅一の手記はそのような時期に書かれたものである。
 磯部は死ぬまで国家権力の非道を憎みぬき、そして処刑されていった。 2・26事件は何故起きたのか。そして彼ら若き青年将校が義憤に燃えて決起した根拠は一体何なのか。

 1929年(昭和4年)に起きた世界恐慌は瞬く間に狭益な市場しか持っていなかった日本を席巻していった。工場は閉鎖され失業者は町に溢れ、労働者の多くは路頭に迷う日々を強制されていった。さらに貧農=小作農の娘たちは一家を救うために苦界に身売りされていった。 その一方において一握りの寄生地主や財閥は企業や土地の集中をおこない飽食の毎日を送っていた。
 農村の惨状はすさまじいものがあった。磯部や他の仲間である将校たちの多くは農村出身=小地主であった。若い兵士の妹たちが一家の生活のために苦界へと身を売らされる現実を目の当たりにし、彼らは憤慨してこう言う。
 「国を守るために日夜奮闘している兵たちの家族が辛い目にあっている。何故なんだ」
 「一方において軍の官僚・財閥・政党・官僚たちはそんな貧しい国民の生活を全くかえり見ようともしない」
彼らの怒りは支配層へと及んでいった。
 「国家、社会を改造=変革しない限り、貧しい人民を救うことは出来ぬ」
こうして彼らは天皇の軍隊組織を動かすことによって天皇に直訴しようとしたのであった。
 
「一君万民、天皇陛下御親政よる国家改造政府を樹立しよう」と。
 こうして彼らを昭和維新を断行すべく決起した。しかし強力な支配層を打ち倒すには彼らの力はあまりにも非力すぎた。
 この連中は決起した以上、革命政府を樹立したのち、心酔する北一輝の国家改造法案にしたがって強力に政策を実行するべきだったのだ。
 しかし彼らは決起した段階で天皇の命令を待つという不可思議な中途半端、且つぶざまな対応に終始した。その結果、天皇の名において下された命令とは「国賊=反乱軍を鎮撫せよ」だった。

 彼らが夢想した国家・社会とは多分に古代より民衆が抱きつづてきた原始共産制たる天皇制国民共同体であったのかも知れない。それは八百万の神々の司祭者としての天皇を精神的元首に戴き、その下での万民幸福社会の建設を幻想したと断言できる。そして革命の原動力を江戸幕府末期のお伊勢参りに見た狂信的民衆蜂起に求めた。彼らはいう。
「我々が決起すれば必ずや国民大衆も立ち上がる」と。それこそ彼らがスローガン化した昭和維新そのものであったのだろう。 そして彼らが目的としたのは明治維新以降構築されてきた欧米模倣文化を破壊し、日本古来の民衆に依拠した牧歌的な憧憬を醸し出していた文化に依拠した国体の確立だった。
 
 明治維新は武家政権を転覆解体して樹立された。その国家とは、欧米的近代国家と時代錯誤的な天皇主義国家との折衷国家といえる。
 幕府末期、英米とつるんだ公家・長州などの反幕勢力によって樹立された天皇制国家こそ不純極まりない、近隣アジア侵略を目的とした国家でしかなかった。にわか仕込みで偽造された天皇主義つまり現人紳伝説や実在さえしなかった神武天皇以下の偽造天皇を造りあげたり、あまつさえ憲法などには天皇神格化=個人崇拝という常識では考えられない時代錯誤主義に陥る有り様。
 
 明治以降、日本がさまざまに犯した侵略行為をみるとき、明治天皇制国家がいかに理不尽極まりない国家であったかを今日われわれは知ることができる。

 2・26事件の被告たちはこのような天皇制に基づく思考回路から脱却できずに最終的に圧殺されていった。 彼らの発想は根本から間違っていた。それは天皇制官僚機構、天皇制軍隊機構の実在こそ国民を奴隷の如く扱っていた元凶だったことを最後まで認識できなかったことだ。

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cosumos1959
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