Vamos! Norio

高橋範夫(Norio Takahashi)のブログです。更新はしていません。

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昨夜は、最下位相手に消極的な試合運びをしてしまいました。

ジュロンイーストでいまだ勝ち星がなく、相手が最下位ということで
『勝ちたい』が『勝たなければならない』気持ちになり
そして『負けられない』『負けてはいけない』という心理状態になってしまったのではないでしょうか。

0−0で80分過ぎまで来ると、尚更です。

相手も足が止まってきているのにもかかわらず、
我々は稚拙なミスを繰り返し逆にカウンターを食らってしまいます。
幸い相手の攻撃の精度が低く失点はまぬがれました。

いまだホームで勝ち星なし。
一刻も早くホームのサポーターと勝利を分かち合いたいです。

試合後、Sengkang の20番、チリ人の Luis Eduardo Hicks(ルイス・エドゥアゥド・イクス)に
声をかけ、2,3分立ち話をしました。
私のスペイン語もかなりさび付いていて、
"Si(YESの意)"が出ずに "Yeah, yeah" がつい出てきたりしました。
彼はオソルノ出身で、4年間インドネシアリーグでプレーして今年シンガポールに来ました。
チリではオソルノ、ウニオン・エスパニョーラ等でプレーしていたそうです。
そして、15番のイヴァンと共にシンガポールリーグでは初のチリ人プレーヤーだそうです。

聞くほうはなんとかいけても、話すほうはだいぶさび付いていた・・・・・・。

Tengo que hablar espanol mas! Pero, con quien?

伝染病?

最近、シンガポールではHFMDと呼ばれる病気が流行っています。
そのせいで幼稚園や託児所などが休園に追い込まれているところも多いそうです。

HFMD、って何のこと?と思う方も多いと思いますが、
要するに『手足口病』です。
hand, foot and mouth disease の頭文字を取ってそう呼ばれています。


別に手足口病がアルビSで流行ってるわけではないんですよ。

ただ1人違うのが伝染っちゃったようです。

それも、背番号21番の彼が。

オカが『坊主病』に・・・・・・。

詳しくはオカのブログで。
夕方の練習後にバリカンを貸しました。
そしたら早速。仕事早いですね。

今年はタイスケ(18番秋吉)に次いでまた1人。

昨年は、GK谷が感染しました。

まあ私は既に保菌者ですが。

さて、次は誰に伝染るのか・・・・・・。

んー。

タイトルの『んー。』は、まさに試合終了後の一言です。

ジュロンイーストで3連敗。
この日はほとんど決定機を作れず、ウッドランズに勝ち点3をプレゼントしたようなものでした。
失点はセットプレーからの2失点。

その後オカのゴールで息を吹き返したかに見えたアルビSでしたが、
いまいち乗り切れませんでした。

後半もウッドランズが我々よりアグレッシブで、我々の時間帯を無失点でしのぐと
逆に終盤になって何度かチャンスを作っていました。

この日のウッドランズは、この日の我々より良かったとしかいいようがありません。
つまり、我々がウッドランズよりも悪かったということです。

今のアルビSは、普通にやって勝てるほど強くありません。
相手よりたくさん走って、相手よりドロドロになって、相手より身体を張らなければ勝てません。

Name: Norio Takahashi
DOB: 15/03/71
Place of birth: Yachiyo-shi, Chiba, Japan
Family: Wife (Noriko), a son (9yo) and a daughter (2yo)
Height 181cm (5ft11in), bodyweight 77kg

Soccer career

I joined the soccer club named “Katsutadai Black Leopards” when I was 7.
I played any positions at that time. But I played goalie or sweeper in important games.

I played as goalie after entering the junior high school.
The reason why I became a goalie is that “I don’t want to run!”

I wanted to be an outfield player after entering the high school.
But, my team mate in junior high school told the head coach “He is a goalie!” So I couldn’t be an outfield player.

I entered Chiba University in 1989.
I took the trial of Nissan FC Farm (Regional League) in 1991 and passed it.
In 1992, I made a contract with Urawa Reds as a trainee.
I made a contract with Urawa Reds as a professional soccer player in 1994.
I played for 4 years with Urawa Reds but I was 2nd or 3rd choice goalkeeper.
Sometime I had to play right back in training session.

In 1996, I transferred to Brummel Sendai(Vegalta Sendai).
I played with Litti, ex German national team player.
I played over 20 games but I was not stable.
I made some big mistakes in important games.

I had to sit on the bench most of the time in 1997, 98 and 99.
Finally the chance has come in 2000.
I played as a starter in 36 games.

In 2001, I played all the league games (44) and the team finished as 2nd place.
We go to J1!

In 2002, I played 18 games and the team could stay in J1.
But I had to go out from the team.

2003, I moved to Sagan Tosu(J2). But it was very tough season for me and the club.
In this year the team was on the bottom of the league table.
So I had to go out again.
2004, I took 2 trials of soccer teams in US, but failed.
After that, I went to Chile to take other trials.
I took 3 trials and made the contract with 3rd club, Union San Felipe.
I couldn’t play as starter because of my Spanish is not enough.

I went back to Japan after the league was over.
Staying in Chile was just 6 months,

February of 2005, Tokushima Vortis called me and made the contract with me.
I played 2 years in Tokushima and I transferred to Albirex Singapore 2007.

自己紹介(Self introduction)

名前 高橋範夫(たかはし のりお)
生年月日 1971年3月15日
血液型 O型
出生地 千葉県八千代市
身長 181センチ 体重77キロ前後
足のサイズ 28センチ
利き足 右
利き手 右

妻(紀子)、長男(9)、長女(2)の4人家族。

サッカー歴

小学2年の時、地元勝田台のサッカークラブ、勝田台ブラックレパーズに入る。
その後勝田台にあった3チームは合併し、現在勝田台FCとなっている。
小学生のときはあらゆるポジションをこなした。大会のときは、だいたいGKかスイーパー。

中学校のサッカー部に入り、本格的にGKを始める。動機は『走りたくないから』。

高校(千葉北高校)のサッカー部に入ったらフィールドをやろうと思っていたが、
中学時代の八千代市選抜のチームメイトにGKをやっていたことをチクられ(笑)、
結局GKをやることに。
後輩にいいGKが入ってきたら、センターフォワードをやれと監督に言われていたが
夢叶わず、最後までGK。
高校時代は3年時、選手権千葉県予選ベスト16が最高。最後は茂原農業にPK負け。
もしPKに勝っていたら、次の相手は選手権で準優勝した市立船橋高校だった。

89年、千葉大学教育学部に入学。
体育会サッカー部に入部し、『すんなりと』GKになる。
大学では新人戦、県の選手権に優勝したが、リーグ戦では成績を残せなかった。
91年の1月、当時関東リーグに属していたFC日産ファームのセレクションを受け、合格。
91年の4月から1年間、ほぼ毎日千葉から練習場のある横浜まで2時間強かけて通った。
当時のチームメイトには、現在新潟の強化部の鈴木健仁、横浜FCで育成のコーチをしている吉田悟、
横浜FMの育成GKコーチの佐藤浩などがいる。

92年、浦和レッズの練習生になる。当時は調布で練習をしていたので、
授業のある月・水を除いて電車で2時間弱かけて通っていた。
93年千葉大学卒業。浦和レッズと2年目の練習生契約を結ぶ。Jリーグ開幕。
プロ選手は寮に入ったが練習生にはあてがわれず(当たり前)。
毎日千葉から浦和まで軽自動車で片道2時間半かけて通った。
94年 晴れてプロ契約。寮にも入れた。が、トップチームでベンチに入るのが精一杯。
95年 プロ契約2年目。紀子と結婚。トップチームでベンチに入るのが精一杯。3番手で、紅白戦のときはBチームの右サイドバックを務めた(笑)。

96年 JFLのブランメル仙台に移籍。リティーにドイツ魂を注入される。アルビの監督、鈴木淳さんとも一緒にプレーした。この頃はプレーに安定感が全くなかった。
97、98、99年はベンチを温める機会が多かった。が、練習は人一倍やったと思う。
00年、ようやく出番がまわって来た。
この頃から試合に負けているとロスタイムに上がるようになった。
シーズンオフに準指導員(現在のJFA−C)取得。
01年J2で2位になりJ1昇格を果たす。
02年J1でいっぱい勉強した。もっと勉強したかったが、この1年しか勉強できなかった。
ただこの年、日本でワールドカップがあって、アルゼンチンと試合できたのはいい思い出。

03年鳥栖へ移籍。開幕前に怪我をした。オフシーズンにしっかり休めないと怪我をするのかなと思った。とにかく必死にもがいたがうまくいかなかった。シーズン終了後戦力外通告。

04年アメリカのチャールストンとシアトルの2チームのトライアウトを受けるが不合格。
ただ、チャールストンでのトライアルで自信をつけた。そのとき知り合った日本人アスレチックトレーナーのつながりから、チリのトライアルの話を聞き、食い付く。そして間もなくチリに旅立った。

7月末、3つ目のトライアウト先であった、ウニオン・サン・フェリーぺと契約。
2番手GKとして20試合に帯同した。一番の問題は、言葉。スペイン語で指示をうまく出せなかった。
でも、生活するには困らないぐらいは話せるようになった。12月初めに帰国。

05年2月、徳島ヴォルティスと契約。ホームの山形戦から先発出場を果たす。
8月31日、懐かしの地仙台スタジアムで接触、右腎損傷。仙台の病院に3週間入院。
シーズンオフにJFA−Bライセンス取得。
06年 ヴォルティス2年目。シーズン後半はスタメンで出場するも最下位に終わる。
そして戦力外通告。

07年、アルビレックス新潟シンガポールにGKコーチ兼選手として加入。
シーズンオフにGK−Cライセンス取得。
08年、シンガポール2年目のシーズンを迎える。


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