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『生命の實相』哲學に学ぶ

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           生長の家基礎文化研究所 部長  阪 田  成 一


 吾々が「今」という一点に立っている時、「自分」という現実は、全く過去と切り離された存在であるように見えるが、そうではない。 「今」という一点に立ちながら、全ての歴史がこの一点に集積されているのである。

 それは必ずしも、自分が生れてから現在に至るまでの経験したことのみを言うのではない。 自分の親が経験したこと、さかのぼっては先祖が経験したこと、さらには日本民族の歴史の全てがわれわれの全身に籠っているいうことである。

 それ故に、人間がいつ‘どこに’生まれるかということは、その人の運命を決定する最初のそして大きな要素となるということは本当である。

 谷口雅春先生は  「人間の運命は、半分は過去の生まれ変りの世代に行為して来たことの集積決算で決まるが、残りの半分のうち、その約半分は今世の努力による自分の“心の持ち方”と“行為”の如何によって定まり、その残りの運命は産土神その他の高級霊の導きによって定まり、又は修正されたり、指導せられたりする」  と言われている。 〈因みに“運命の半分”などという表現には、数学的な精確な割合ではなく、それはだいたいの目安として使われていることは無論である〉  

 そうであれば、谷口雅春先生が、明治26年11月22日に、父音吉、母つまの次男として兵庫県八部郡烏原村字東所 〈現在の神戸市兵庫区烏原町東所〉 に誕生されたことが、久遠の昔から実在の世界にあったといわれる『生長の家』の地上降誕を促すことになったのであり、もし谷口先生の誕生の地が神戸の烏原以外の地であったならば、『生長の家』は、恐らく地上に顕現されることはなかったかもしれないのである。

 さて、生誕の地・烏原村は、神戸のほぼ中央を流れる湊川の上流茅渟海(ちぬののうみ)〈大阪湾〉を臨む位置にあって「四面山にして耕地渓流に沿いて村となす。 渓流多く水車を設け舂碓(しょうたい)〈つきうすのこと〉を以て業となす者数十戸、因て道路を修し、兵庫に通じ牛車運搬を資(たす)く」  〈『兵庫八部郡地誌』〉 と記されているように、昔から水車業を中心とした山あいの小さな農村であった。

 谷口先生が誕生されて7年のちの明治33年12月に水道貯水用地として神戸市に買収されるまでの烏原村は、神戸という西洋文明の流入する街に隣接し、日に日に文明開化の波が押し寄せつつあった時代にもかかわらず、そこはまるで別天地の如く、昔からの美しい自然のたたずまいの中で、水車業を中心とした生活が営まれていたのである。 そうした中で谷口雅春先生は誕生されたのであった。

 谷口先生にとって烏原村は、わずか4年足らずの歳月を過した所ではあったが、先生の魂のその風土は、何らかの影響を与えずにはおかないほどの景観をそなえていた。 ひとつの魂におよぼす風土の影響は、決して少なくはなく、とくに幼児期に与えるその影響は、天性の資質と見分け難いものをその人に与えるとさえ言われる。

 かつて徳富蘇峰が山紫水明の自然が天才児を生むといったが、昨年の夏、水源地となった烏原の地を訪れて、周囲のたたずまいが、いまも侵されることなく昔のままの姿で残されているのを眼にした時、烏原村と谷口先生の場合にも、まさにそれがぴったりとあてはまるのを感ぜずにはおれなかった。


 ところで烏原村には、谷口姓を名乗る家が幾軒にも及んだとわれる。 明治44年に出された郷土史『西攝大観』は、谷口家の祖先についてつぎのように記している。


 《延元元年(1336)谷口泰重なるもの新田義貞の手に属して兵庫和田岬に陣せしが戦利なくして湊山の深谷に隠れ後帰農して空谷を開墾し、住民安居の地としたといひ伝へてをる》


 また谷口家の祖先について谷口先生自身つぎのように言われている。


 《私の祖先は、どんな人か詳しいことは知らない。 併し、神戸の烏原村の谷口家は新田義貞の一門であったか、部下であったとか、そこは充分ハッキリ分らないけれども、湊川の戦争の時、足利尊氏の軍と戦って破れて、湊川の上流地なる烏原村へ落ちのび、そこに名を隠して谷口氏を名乗ってをったと云ふ》  (『民族と歴史的現実』)


 谷口家の祖先が南朝すなわち後醍醐天皇に仕えていたところの武家であったことは、その子孫にも代々語りつがれていたようである。 そして、泰重の子孫は大いに繁栄して、幾軒にも分家をし、その中には大地主になった人もいて、自分の地面のみを踏んで海岸まで歩いて行くことが出来たというほどであったというが、谷口家には信心深い人達が実に多かったようである。


 《 ・・・ 私の‘をぢ’さんに谷口福松と云ふのがあって、この人は変ってゐた。 是の人は黒住教の少講義とか云ふ低い階級の布教師をしてゐたが、中々いい人であって、誰にでも、自分より貧しき人を見ると、自分は裸になって、その人に物を供養した。 誰れ彼れの区別なしに自分のものをやってしまふ。 そして何時も‘すっかんぴん’で施与が好きだった。 さう云ふ人が吾々の祖先にあった。  (中略)  尤も谷口家の前時代の人達は、生活が皆が皆まで道徳的であったかどうかは知らないが、信心深いと云ふ点では、非常に信心深い人達が多かった。 私は子供の時代から始終西国三十三ヶ所の観世音に伴れて行かれた。 (中略)  兎もかく、時代がちがひ、儀式がちがふが、神信心と云ふこと仏信心と云ふことは非常に好きだ。 さう云ふ性格の人が谷口家には無数にゐる》  〈同上〉


 人間の生命は「個」だけで忽然と地上に生まれたのではなくて、祖先を通じ、父母を通じ、その生命の一連続の地上顕現としてここに生きているのであるから、信心深かった祖先の‘いのち’が、歴史的現実として当然谷口先生の‘いのち’の中に生きていることは言うまでもないことである。

 そして後に、万教を包容帰一するところの 『生長の家』 が、谷口先生によって創始されるようになったことも、こうした信心深い谷口家に流れる“祖先のいのちの印象”と無縁ではないであろう。

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