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韓国の歴史抜粋

万年属国朝鮮民族の歴史

356年   新羅建国
560年代 隣国の倭人国加耶を併呑 日本の鉄器技術を手中に
564年   北斉に朝貢 翌年冊封を受ける
568年   南朝の陳にも朝貢
     その後、隋・唐に対しても建国後すぐに冊封を受ける
643年   唐に救援を求め百済と戦争
660年   百済を滅ぼす
668年   高句麗を滅ぼす
670年   百済の土地支配権を唐と争い対立半島から追い出し謝罪外交に転じるも緊張状態
732年   唐と渤海の戦争に唐の命で参戦したため唐から領有を認められる
918年   新羅の地方豪族が反旗を翻し高麗建国
936年   新羅と後百済を滅ぼし 高麗が朝鮮半島統一
960年   中国で宋が建国統一されると朝貢
1126年  北方で女真民族の金が台頭すると朝貢

13世紀 蒙古の侵入に幾度か抵抗するも負けて服属

1370年  明が元を北に追いやると明へ朝貢
     親元派と親明派の間で内戦 その混乱の中、李成桂がクーデターを起こし李氏朝鮮王朝建国
     すぐに明に使節を送り権知朝鮮国事に冊封
1627年  李氏朝鮮が後金(後の清)と明 2極外交を放棄し親明事大外交へ転じたことより戦争に
     その後こう着状態で後金を兄、朝鮮を弟とする講和を結ぶが
1636年  金が清へと国号を変え 朝鮮に服従と朝貢 明への派兵を要求
     拒否し戦争になるが45日で降伏 清に服従することになる
1895年  日清戦争の結果 清と朝鮮の冊封関係は終わり日本の影響下に置かれる
1905年  第二次日韓協約 朝鮮の外交権を接収 保護国化推進
1910年  日韓併合条約締結

間違ってても知りません( ゚Д゚)y─┛~~

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朝鮮半島に百済国が成立したのは西暦314年といわれ、その後550年ごろまでに繁栄した。

しかし、660年新羅と唐の連合軍から猛攻を受け滅亡する。
このとき百済王族や武官など、おびただしい人々が日本に亡命したと伝わる。

日本書紀によれば、大和朝廷は渡来した百済の男女2千人に官食を給し、主に近江国に住まわせたという。

このころの日本は、壬申の乱などの争乱が頻発していた。

高位にあった百済系と新羅系の帰化人が、これらの争乱に巻き込まれた可能性は高く、一部の百済王一族は逃避を余儀なくされたと考えられる。

逃避した王族の中に、福智王ら一族があった。
安芸国厳島から海路筑紫国に向かう途中嵐に遭い、福智王の父禎嘉王と二男華智王らは現日向市に、福智王とその妃・母らは現高鍋町に漂着した。

そして、父王らは神門(旧南郷村)に、福智王らは現木城町比木に辿り着いて住んだと伝えられている。
福智王は、年に一度父王らを神門に訪ねたが、これが今も師走祭りとして残る。
その後、神門に追討軍が押し寄せ、福智王が駆け付けてこれを撃退したが、父王は戦死してしまう。

2012/5/31(木) 午前 6:47 [ 今里から美しい日本 ]

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後百済(900年 - 936年)は、後三国時代、新羅によって滅ぼされた百済の復興を唱えて建国した国。

甄萱は、尚州の農民出身で、892年、農民一揆に乗じて挙兵し当初、900年、王となり、国号を百済と定めた。

920年、甄萱は、新羅西部の大耶城を攻略し、更に高麗南端の進礼城に進軍し、高麗との戦端を開いた。

922年、後百済は、日本に参戦を要請したが拒絶された。後唐にも朝貢したが、名ばかりの官職しか得られず、実質的な援助はなかった。

926年10月、後百済は、金城を占領し、新羅の景哀王を自殺させた。後の高麗王王建は、新羅の救援に赴いたが大敗した。

同年12月、甄萱は休戦を申し入れ、927年3月、王建はこれを受諾したが、同年5月には再び戦闘が再開された。

929年、後百済は、慶尚北道で快進撃を収め、再び日本に援助を要請したが、再び拒絶された。

後百済は936年に朝鮮半島及び日本から滅亡した。
その後、日本において百済人が役職を与えられることは無かった。

2012/7/6(金) 午後 10:03 [ 丸子実業高いじめ殺人判決は大誤審 ]

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朝鮮半島において、5世紀後半から6世紀半ばに、日本のものと同じ前方後円墳が築造されており、日本の影響力が朝鮮半島に及んでいた重要な証拠とされている。全羅南道では、日本にしかない原石からつくられた勾玉をつけた装飾品が出土している。

また、新羅の金冠にも硬玉製勾玉が付けられており、新羅が当時、日本の後ろ盾により権威を得ていたことを示している。

2014/4/4(金) 午後 9:25 [ 駐車禁止除外標章は正しく ]

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三国史記 (百済本紀)
397年 夏五月 王は倭国と友好関係を結び、太子の腆支を人質として倭に送った。
402年 五月 使者を倭国につかわして、大きな珠を求めた。
403年 春二月 倭国の使者が来たので、王は彼を迎えて慰労し、特に厚く遇した。
405年 腆支太子は倭国において訃報を聞き、哭泣しながら帰国する事を請うた。倭王は、兵士百名を伴わせて、護送した。
418年 夏 使者を倭国につかわし、白綿を十反を送った。
428年 倭国からの使者が来たが、随行者が五十名であった。
608年 隋が文林郎裴清を倭国へ使者として送ったが、わが国の南路を経由した。
653年 秋八月、王は倭国と修交した。
662年 七月 扶余豊は、高句麗と倭国に使者を派遣して援兵を乞う。唐新羅連合軍は百済遺民軍の救援にきた倭軍の軍船400艘を白江に焼く。

百済復興は失敗に終わり、倭軍は自国へ退却、扶餘豊は行方不明となる。

2014/7/26(土) 午前 4:23 [ 壮年老い易く学成り難き ]

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「韓国の歴史研究を行ううえで、中国の歴史を参考にしないわけにいかず、自国に対する強い独立感を持っていない。それゆえに焦りを持っているのである」とした。
自国の存在が中国なしには説明できないということに対して引け目を感じているということのようだ。

「韓国は古代より小さな属国だったため、自信がない。そして、歴史、資源、世界的な地位などあらゆるものが不足するなかで、手段を選ぶことなく他人の物を自分の物であることを主張する。小国は永遠に大国になる方法を理解できない」と論じた。

「韓国は歴史的にいじめられ続けてきたため、またいじめられるのではないかと常にビクビクしている」としている。

2017/4/9(日) 午後 11:12 [ 韓国に行くかも知れません ]

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