球場が広なった・ボールが飛ばんようになった言うて嘆くんは、ようわかるんです。 けど、それでも、どうやったらホームラン打てるようになるんか、よし、飛ばしたるぞって思うのが、努力するのが、プロやろう?って思うんです。 せやのに、「ボール飛びません、変えてください」やものね。寂しいよね。 打ち方観てても、飛ぶようなフォームで打ってないものね。こう、(スタンスを広げて)こんな打ち方したりね。 僕なんか”ヘタクソな選手”やったけども、必死にやったもんね。 500本以上(本塁打を)打った言うても、”もっと打てた”としか、思わんもん。 今でも、悔しい気持ちしかないんですよ。 もっと死に物狂いで努力して、工夫してほしいですよね。 たとえば鳥谷君にはね、今年はコレをしました、来年はコレに取り組みます、そういうもんがあるはずなんです。 せぇへんもんね。 いまはちょっと活躍するだけで、”諭吉さん”がようけ貰えるから・・。 (仕えた監督さんのなかで、一番やり易かった・楽しかった人は誰?) 楽しい、ゆうことはないですよね。勝負の世界ですから。 苦しかったことばっかりです。 やり易かった人とか、そういうのは無かったな。 ただとにかく、優勝を全然出来んかった。 たくさん応援してもらったのに、何十年もプレーしたのに、全然優勝することが出来んかった。 それがもう、本当に申し訳ない気持ちで一杯なんです。 今のホークスの選手で素晴らしいと思う選手? いやもう、全員やないですか。 何度も優勝してるんですから。全員、素晴らしいと思います。 それでエエんちゃいますか。 昭和48年の優勝ですか。 まだ僕、若かったからねぇ。 全然、楽しめませんでした。 今は、若手もヴェテランも関係なくはしゃいでるけど、当時はそういうのがまだ許されなかった時代でした。 ビールかけも、先輩のをただ観てただけ。 楽しめなかったなぁ。 (ホークスからブレーブスへの移籍) 当時はまだ、親が子供を厳しく躾せなならん時代でした。 長男もまだ高校生やったし、娘も小さかった。 女房ひとりではとても任せられん、だから九州に単身赴任は不可能やと、なったんです。 お蔭で球場ではぎょうさん、野次られました(笑)。 (球場の野次、阪急の団長さんに"たこ焼き食べよ"って言われた) アレ、「こっちに持って来い」って、返したんよ(笑)。 ヤジには、発奮させてもらいましたね。「見とけよ」という気持ちにさせてもらいました。 (山田久志さんが「終生のライヴァル」と言っている) 山田のリップ・サーヴィスですよ(笑)。僕なんか、”ヘタクソな選手”やのに。 山田はね、とにっかく速かった。 山口高志も速かったけど、山田も無茶苦茶に速いボールを投げていました。 僕には、真っ直ぐしか投げて来んのです。 シンカーとかカーブとか、投げない。 シンカーなんて、”簡単に打てるボール”なんです。 とにかく、真っ直ぐが速かった。凄い投手でした。 (昭和48年のプレイオフ) スミスと広瀬さんに連続でホームラン打たれてね、もう山田、泣きそうな顔しとるんです。マウンドで。 こうなったらもう、勝負する気ィになんか、なりません。 「ナニクソ!」って向かってくるからこそ、こっちも燃えるんであってね。 ああなったらもう、勝負する気になんかなりませんでした。 (山田さんからホームラン打った日に、電話を入れたというのは本当か) 88年ですね。 なんだかもうね、死人のような顔しとったんです。 「おい、まさか辞める気ィやないやろな?」と、電話したんです。 わかるんですね。そういうのはね。 「俺みたいな”ヘタクソ”がまだやろう思っとるのに、なんでお前ほどのピッチャーが」って、言いました。 結局、引退してしまいましたけどね・・(笑)。 (タイガース・掛布とのトレード話があったというのは本当か) 本当です。 極秘裏に進めておったんですけど、一週間前になってスポニチの記者がスクープで出してしもうて、それでご破算になった。 あのスクープがなかったら、100%実現してましたね。 僕の背番号って、何種類あったか知ってます? 27、44、60。 あと、78と53ね。 44にしたのは、アキレス腱やって、再出発したとき。 誰やったかな、そういう大きな怪我から復活して、活躍しとった選手が近くにいて(→メイ選手)、俺もやれるのかな、頑張ろうかなって思って、その時に付けた番号です。 60番はね、まだ誰もやったことのない60本のホームランを打ってやろうと、それでですね。 一度だけ「いけるんちゃうか」思った年があったんやけどね、阪急の永本にぶつけられて怪我して、アカンかった・・(笑)。 「長嶋・王が引退したあとの、最高のプロ野球選手・・と、改めてマジに言わなければならないところがツライ・・」(玉木正之・新潮プロ野球大辞典) 伝説の大打者・門田博光さん。 数年前、大きな病気を患った際に「もう人前には出たくない」というコメントを目にしたときは、本当に悲しくてショッキングでした。 ブレーブス時代の川崎球場以来ですから、24年ぶり。 またお目にかかれたこと、大袈裟でなく本当に嬉しく思いました。 スタッフの方の介添えがないと、壇上に登ることが出来なかった。 でも全然、ショックじゃない。 「同じ病気」をした我が親父はもう、ベッドから降りることが出来ません。 でも、門田さんは全然、大丈夫。 それだけで、じゅうぶんです。 ファンの方との会話の際には、満面の笑みで、身を乗り出して、「うん!そう!そう!」と。 何度も、マイクを持っていることを忘れて、立ち上がって、フォームを実践してみせてくださったりも。 褒め言葉です。 「野球の大好きなただのオッサン」になっていました。 何度も何度も、「自分はヘタクソ」って。 「大」のつく、「超」のつく、野球人なのに。 こんなトークショー、初めて・・でした。 「なんで”60”やなくて、”44”・・?」 その「疑問」は、始球式で判明しました。 ホークスのニュースター、柳田悠岐。 ロッカーには、門田さんの打撃フォームの「連続写真」を貼っているのだそうです。 背番号・44。 球団側の「たっての希望」だったのだろうと、思います。 「門田二世」にぜひとも、なってください。 「自分なんかちっとも優勝も出来んかったのに、今でもこうして憶えててくれはる人がようけおる。本当に幸せやと思います」 優勝のためだけに、「チームの歯車」になる選手、「監督の操り人形」になる選手は、たくさんいます。 でも、「内野に高々と上がるフライ」や「カウント0−3からのフルスイング」だけでスタンドのお客さんを唸らせ、どよめかせ、喜ばせるような選手、そんな、いつまでも心に残るようなプレイ、語り草に出来るようなプレイを魅せてくれる野球人は、100人に一人もおりません。 「優勝させてあげたかった」とは思っても、「優勝してくれんかった」などと思う野球ファンは、少なくとも「昭和世代」には絶対に、おりません。 ありがとう。 我々はいつまでも、「史上最高のスラッガー」を、忘れません。 |
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今回の旅は門田さんのトークショーを見る為に行ったと言っても過言ではありませんでした・・・本当に夢のような30分でした。もっと天気が良くて、インタビュアーが話の引き出せる人だったら・・・という思いはありますが、あんなに色んなことを自分からどんどん喋ってくれたので、もう何も言うことはありません。ノムさんの話も普通にしてくれて楽しかったですね。
2013/4/30(火) 午後 11:24 [ aout58 ]
今は阪神ファンに成り下がってますが、負けても負けても大阪球場に足が向いたのは南海ホークスが好きやったんと門田のホームランが見たかったからでしょうね。勝負が決まっても9回に門田に回ると思うと妙にウキウキして最後まで見てましたよ。
1回だけセフテイバントをしたことがあってお客さん怒りましたよ『こら門田!お前のバントを見にきたんとちゃう金返せ!』門田さん覚えてるかな?それともバントなんかしてないと言うかな?《笑》
2013/5/1(水) 午前 0:28 [ くーちゃん ]
門田さんのホームランへのこだわりは野村監督と王貞治さんとのやりとりから生まれたんですね、ホークス公式USTREAMでインタビューが出てました。
2013/8/8(木) 午前 0:15 [ にこ ]
この方こそ” スラッガー ”という言葉が非常に似合う選手ですよね。
どこまで飛んでいくか解らないような打球。
子供ながらにほれぼれした記憶を覚えています。
掛布さんとのトレード・・・超大物同士ですね!
2015/2/1(日) 午後 7:54