このユニフォームは懐かしいですね。涙が出そうです。 ホークスの名前が残っていて、こうしたイベントにも呼んでもらえる。 本当に嬉しいし、有り難いことやと思います。 昭和48年は、優勝したんですよね。 日本シリーズは、巨人に負けました。1勝4敗です。 最初は勝ったのに、4連敗(笑)。 第一戦でね、私、逆転の2点タイムリーを打ったんです。 この時のインタビューでねぇ、余計なこと言っちゃったんです。 「阪急のほうが強い」(爆)。 ここ(近鉄)にも、いたでしょ?そんなこと言ったのが(加藤哲郎)。 あのとき、「コイツもまた余計なこと言いよったな」って、思いましたよ。 私が最初なんですよ。「元祖」です(笑)。 やっぱり、相手には敬意を表さないとアカンね(笑)。 入団したときの監督さんは、飯田(徳治)さんでした。 私と、同期入団の冨田(勝)いうのがおったんですけど、「これからは2人がチームを引っ張っていかなあかん」と、みんなのお手本にならなあかん言われましたね。 飯田さんには、本当にお世話になりました。チームは最下位やったけどね(笑)。 「グランドにはゼニが落ちとる」って、どこにも落ちてなかった(笑)。 「ツチノコバット」はね、ほんまに”偶然”やったんです。 出雲で広島と試合があったんです。 オープン戦の最後のほうやから、バットが沢山折れてて、もう残ってなかった。 ヤクルトの武上(四郎)さんに頂いたバットだけが残ってて、それがツチノコやったんです。 その試合、そのバットでホームランを打って。それからずっと・・でした。 当時は、野村(克也)さん・ブレイザーで「シンキングベースボール」言うてね、選手一人一人が役割を持って、どうすればチームが勝てるかという野球をしていた。 もうとにかく私は、地面に叩きつけて強いゴロやライナーを打つのが役目やと思って、それでツチノコやったんですね。 久保寺(雄二)はね、可哀相な選手でした。 私が引退してコーチになって、「活躍したら俺の背番号(7)やる」言うてね。 とにかく一人前にしたいと思って、12月の29日まで練習させました。 それが翌年の1月4日に、風邪薬のんで寝たら急に・・言うて。 急性心不全でした。 大石大二郎とは同級生で、物凄いライヴァル心を持っていましたよ。 元気やったら、どんな選手になっていたのかな。残念やったですね。 スパイ活動ですか? もう時効やからね。 はい、やってましたよ(爆)。 ベンチに盗聴器があったり、当時はスコアボードもパタンって手で動かすヤツでね、そこから双眼鏡でキャッチャーのサイン覗いて選手に伝えたり。 阪急もどこも、みんなやってましたからね。 バッターも、集中力が凄かったですよ。球種がわかるんやから(笑)。 いいんですかね?こんなこと喋って(笑)。 「野村さんの件」?(笑)。 「野球とるか、奥さんとるか」で、奥さんを選んだんですね(笑)。 その時の一件で、球団から追放のような扱いになって。 それで、(なんばパークスに)名前や写真がないんだと思います。 私的にひとつだけ言わせてもらえるならね、鶴岡(一人)さんの悪口だけはアカンと思います。 退団するとき、鶴岡さんがどうの・・って言われてね。 育ててもらった人なんですからね。あれだけは残念でしたね。 南海は、「ナンバのチーム」でしょ? こんなこと言うたらなんですけど、近鉄は藤井寺のほうのチームで(笑)、阪急は神戸のほうで。 「南海は大都会のチームや」いう誇りは、すごく持ってました。 阪神に勝って日本一とか、御堂筋パレードとか、「名門チームなんや」言う気持ちもありましたしね。いつも誇らしく思っていましたよ。 九州に最初に行ったときはね、もう西武のファンばっかりでした。 やっぱり、みじめな気持ちになりましたね。 それが今じゃね、西武のファンなんて隅っこにチョコッとでしょ? みんなホークスのファン。本当に嬉しいですね。 私ね、いま、すごく安心しているんです。 パリーグ、交流戦ですごく強いでしょ? お客さんも沢山来てくれるようになったしね。 私たちの頃は、本当に酷かったですから。何百人なんて試合もありましたしね。 オールスターにも何度も出さしてもらいましたけど、選手紹介で「南海・藤原」言うても拍手がパラパラ〜でね、セリーグの選手にはワーッ!って。 絶対負けられん、活躍して勝って、名前売るんや!って、みんな言ってました。 いま解説の仕事してますけど、パリーグの監督さんはみんな「交流戦で貯金したい」って言うんです。 調子のええとこも悪いとこも、ここで取り返すって思ってるんですね。 パリーグ、強いですもんね。毎年パリーグやないですか。優勝は。 みんなパリーグが勝つから、順位が変わらないとかね(笑)。 今年は広島が強いし、勝負事はやってみなわからんのですけど、頑張ってほしいですね。 阪神には、負けたらアカンです。 オリックスは関西のパリーグのチームの代表なんですから、もっと頑張ってほしいです。 藤原”チャイ”満さん。 カメラを向けた瞬間、笑顔で手を振ってくださいました。 少年時代に憧れた、名プレイヤーです。 大感激。感無量・・でした。 67歳。元気イッパイ。 本当に嬉しく思いました。 大前一樹さんの話の引き出し方も、絶妙。 素晴らしく楽しいトーク・ショーでした。 「大阪クラシック・2014」。 バファローズ球団のご尽力にも、感謝です。 |
懐かしのプロ野球
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僕にとっては母校の大先輩でもある藤原さん。
「花の44年組」「南海ホークス・最後の優勝メンバー」「大阪〜福岡、選手・指導者を通じてホークス一筋」―。
考えてみれば、物凄い経歴の持ち主でいらっしゃいます。
南海ホークスの歴史を振り返る中であまり触れられることのない、監督時代の飯田徳治さんや若くして亡くなってしまった久保寺さんとの思い出などが聞けたのは貴重でしたね。
欲を言えば、同期入団で対照的な野球人生を歩んだ富田勝さんとのエピソードをもっと聴いてみたかったです。
>「大都会のチーム」「名門チーム」
年を追うごとにチームが弱体化していく中で、そうした誇りが大きな心の支えとなっていたことがよく分かります。
しかし、結果的にそれだけではどうにもならなくなってしまったことは残念でした。
最後の写真、実に良い表情で素晴らしい一枚ですね。
2014/5/23(金) 午後 10:38 [ mannennetaro2005 ]
藤原さんの「チャイ」というあだ名はタイのキックボクサー、チャチャイ・チオノイに似ていることから来ているそうで。一番・藤原、二番・桜井、三番・門田(博)、四番・野村・・・と続く70年代前半のオーダー懐かしいです。
2014/5/26(月) 午後 3:08 [ hijyounoraisensu ]
去年の門田さんもそうでしたが、みんな話したい事があるんですよね。トークショーだけでお腹一杯でした。
2014/5/26(月) 午後 6:20 [ aout58 ]