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日本サッカー界の歴史を語る上で、絶対に欠かすことの出来ないお方です。 心より、ご冥福をお祈りいたします。 1945年、15歳中学3年生の夏、原爆投下の日には、広島市内中心部にあった学校での防空当番が前夜にあり、当日前6時までいて、その後8キロ西北の疎開先、現在広島ビッグアーチがある付近・沼田(現・安佐南区沼田)まで自転車で帰る途中、家に着く直前被爆した。 30分帰りが遅かったら直下だった。1週間後市内に入り地獄絵を見る。多くの知人・級友を亡くし、自らも亡くなるまで白血球過多で苦しんでいた。その為、被爆者手帳を持っていた。 (ウィキペディアより抜粋) 10年ほど前だったでしょうか。 「加茂監督更迭騒動」や「日韓共催W杯」の絡みで「長沼バッシング」が展開されていた頃、何かの雑誌インタビューで読んだ「このエピソード」が、私の「長沼さんを観る目」を変えました。 これ以上はない、「九死に一生」。 「級友は皆、野球ばっかりやりたがるんです。原爆と終戦とで、物資に事欠く時代。なんで野球なのか、不思議で仕方なかった。バットもグローブもボールも用意しなきゃならんでしょう。サッカーなら、ボール一個あれば出来るじゃないかと・・」 「日陰者」だったサッカーの、大功労者。 Jリーグも、この人なくしては有り得ませんでした。 合掌。
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