忘れもしません、あれは昭和二十年五月二十四日のことです。 その日も僕は勤労奉仕の帰り、会社のバスで築地まで送ってもらい、いつも人で溢れかえっている銀座で友達とブラブラ歩いて有楽町の駅まで来ました。 当時の有楽町駅はホームがひとつで、山手線も京浜東北線も一緒でした。 僕はいつも品川回りで原宿の家に帰っていました。 ところがその日は、ホームに立ったところで考えた。 「金がなくなっちゃったな。親父の所へでも行って、小遣いでももらおうかな?」 その頃親父は東京から疎開して埼玉県の浦和に住んでいました。 原宿の家に住んでいたのは兄貴夫婦と僕だけ。 そこに電車が入ってきました。 たまたま、大宮方面に向かう京浜東北線。 それまでどっちの電車に乗ろうか迷っていたのですが、大宮方面の電車が先に来たのでひょいと飛び乗ってしまいました。 浦和の親父の家で風呂を浴びて、縁側で浴衣姿で寛いでいると、東京の方の空が真っ赤に染まっています。 その頃は毎晩のように東京に空襲がありましたが、特にその日は激しいようでした。 親父と「東京は真っ赤だぞ。ひでえなぁ」などと、言葉を交わしていました。 物の本によれば、この日B29が五百六十二機もの編隊で東京山の手に飛来して、渋谷、目黒、大森、蒲田、荏原一体に焼夷弾をばら蒔き、一面を焼け野原にしてしまったとか。 この空襲で、原宿の家にも焼夷弾が五発も落とされていたのですが、そんなこと知る由もありません。 翌日、浦和から有楽町まで来たところで電車が動かなくなり、仕方なく原宿までは歩いて帰りました。 歩く道々、ひどい光景でした。 一面焼け野原で、都内が一望できたんですから。 家に帰るなり、兄貴夫婦に言われました。 「お前、いい時に家を空けたな。焼夷弾が屋根を突き破って五発二階に落ちてきて、畳に突き刺さったんだぞ」。 僕はいつも二階の部屋に寝ていたので、いつものように家に帰っていたら死んでいたかもしれません。 そして、もしあの日、有楽町駅のホームに先に山手線の品川方面行きが入ってきたら、僕はその電車に乗って原宿の家に帰っていたでしょう。 人間の運命なんて、本当にわかりません。 「野球ができてありがとう」(関根潤三 小学館文庫・刊) 「あの日 昭和20年の記憶」。 昨年に引き続き、NHKで再放送されていました。 NHKでは戦争特番をいくつも放送していましたが、そのほとんどが「再放送」。 証言者が年々減少しているため、新たな番組作りが困難になってきているのやもしれません。 「あの日」は、各界の著名人の方々による、8月15日の回想録。 関根潤三さんもご出演なさっていました。 「天皇陛下が今日、重大な発表をするらしい」と、聞いたのです。 「きっと本土決戦になって、一億玉砕しろって言うんだろう。いよいよだな」と、僕らは覚悟を決めました。 電車を待つ間、鬼怒川駅の土手に座っていると、街頭スピーカーから玉音放送が流れてきました。 そして、初めて日本が降参して戦争に負けたことを知ったのです。 全く予想もしていなかった事態に、とにかく驚きました。狼狽えました。 列車を乗り継いで、ようやく皇居の二重橋前の広場まで辿り着きました。 広場は人、人、人で、足の踏み場もありません。 人垣の中では、腹を切っている人もいたようでした。 (同) 銀座に行ってみたんです。そうしたら、びっくりした。 こっちはもう、みんながみんな、華やいだ雰囲気になっていたんです。 みんなゲートルも外してる。男女のアベックもいっぱい。 当時は、男と女が連れ添って歩くなんて許されなかった時代です。それがもう、アベックばっかり。 宮城(皇居)では静まり返って、みんなが肩を落としているのに、こっち(銀座)は大賑わい。 一体、どうなってるの? どっちが本当なの?って、面喰らいましたね。 「あの日 昭和20年の記憶」 もうひとつの、「終戦の日」・・。 「人生二十年。本土決戦になったら竹槍持って、アメリカ兵と刺し違えてやる!」 だから、野球がまた出来ることが、幸せでならなかった。 生きて野球場にいられることが、信じられなかった。 苦難の近鉄バファローズを投打で支え、「世界の鉄人」を育て上げた。 生きてくれていて、本当にありがとうございます。 「65回目」。 すべての「無念の魂」に、合掌です。 |

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