戦争が終わって40年以上たちました。 戦争が終わったのは昭和20年の8月15日です。 わたしはそのとき、小学校の2年生でした。 それからずーっと、これだけは「塀の中」に捕まっているときでも、私は野球に親しんできました。 (中略) 日本のマスコミというのは、何にかぎらず、大変貧しくて乏しいのですが、いちばん肝心でそれがマスコミの存在理由である、事実を伝えません。 さらには事実を伝えないどころか、ゆがめたりうそや事実でないことを伝えるのですから、これは事実を伝えないよりはまだ悪いんです。 うそだと思うのでしたら、安部譲二の言ったことはオーバーだと、そんなキメつけることはないじゃないかとおっしゃるのでしたら、マスコミを代表する朝日、毎日、読売の戦争中の縮刷版を、どうぞファンの皆さん一部お読みください。 そこには、ほんとに40年前にこんな新聞を出していたのかと思うほど、恐ろしいことが書き並べられてあります。 「鬼畜米英」だとか、「八紘一宇(はっこういちう)」「一機一艦」「醜の御楯(しこのみたて)」「ほしがりません勝つまでは」だとか、もうとにかく新聞もNHKも声を限りに国民をあの戦争に駆り立てて、命を賭けさせたんです。 これが今の何かと言えばヒステリックに正義をわめきたてる新聞が、わずか半世紀たらず前にやったことだと思ったら、気が遠くなります。 (安部譲二「プロ野球死んでもらいます」学習研究社・刊) ※この本は27年前に発売されました。 景浦と同じく昭和11年にタイガース入りした松木謙治郎の話は胸に迫るものがあった。 「僕は昭和25年からタイガースの監督を5年やったんですが、巨人に負けた夜は決まって景浦の夢を見るんです。 ”今、戦争から帰ってきた。明日からすぐ試合に出る”と景浦は僕に言うんです。 うれしかったなあ・・・。 いかに僕もチームも景浦を必要としていたか。 もし景浦が生きていれば、その後はタイガースの監督になり、巨人に負けないチームをつくっていたでしょう。 彼は人間的にも立派な男でしたよ」 昭和20年5月、景浦は2度目の応召で戦死した。 享年29。 白木の箱に入っていたのは死亡通知書と遺骨のかわりの小さな石コロだけだった。 箱の前で弟の賢一(元朝日軍)は泣き崩れた。 「こんなものが人ひとり分の命なのか・・・」。 今日は67回目の終戦記念日である。 (「清純直球コラム」(二宮清純携帯サイトより抜粋) 黙祷。 |
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2012年08月15日
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