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「おい、阪急のアニマルが死んじゃったぞ」。 会社の同僚に、教えてもらいました。 ビックリしました。 「亡くなったということ」に対しては無論、「”阪急のアニマル”の知名度」にも・・です。 ライオンズ戦。 いつも閑古鳥が鳴いていた西宮球場を、清原和博さんと二人だけで「大入り満員」にしてくれました。 「投げてみないとわからない」危なっかしいピッチャーではあったけれど、でも、彼目当てに球場に足を運んだファンは、決して少なくなかったはず。 当時のパ・リーグにとっては、ただそれだけでも「稀有で貴重なプレイヤー」だったと思います。 彼もまた、古き良き昭和野球の大事な名脇役でした。 「亜仁丸 50」 帽子に頂いたサイン、いつまでも大事にします。 合掌。 |
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2013年04月30日
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球場が広なった・ボールが飛ばんようになった言うて嘆くんは、ようわかるんです。 けど、それでも、どうやったらホームラン打てるようになるんか、よし、飛ばしたるぞって思うのが、努力するのが、プロやろう?って思うんです。 せやのに、「ボール飛びません、変えてください」やものね。寂しいよね。 打ち方観てても、飛ぶようなフォームで打ってないものね。こう、(スタンスを広げて)こんな打ち方したりね。 僕なんか”ヘタクソな選手”やったけども、必死にやったもんね。 500本以上(本塁打を)打った言うても、”もっと打てた”としか、思わんもん。 今でも、悔しい気持ちしかないんですよ。 もっと死に物狂いで努力して、工夫してほしいですよね。 たとえば鳥谷君にはね、今年はコレをしました、来年はコレに取り組みます、そういうもんがあるはずなんです。 せぇへんもんね。 いまはちょっと活躍するだけで、”諭吉さん”がようけ貰えるから・・。 (仕えた監督さんのなかで、一番やり易かった・楽しかった人は誰?) 楽しい、ゆうことはないですよね。勝負の世界ですから。 苦しかったことばっかりです。 やり易かった人とか、そういうのは無かったな。 ただとにかく、優勝を全然出来んかった。 たくさん応援してもらったのに、何十年もプレーしたのに、全然優勝することが出来んかった。 それがもう、本当に申し訳ない気持ちで一杯なんです。 今のホークスの選手で素晴らしいと思う選手? いやもう、全員やないですか。 何度も優勝してるんですから。全員、素晴らしいと思います。 それでエエんちゃいますか。 昭和48年の優勝ですか。 まだ僕、若かったからねぇ。 全然、楽しめませんでした。 今は、若手もヴェテランも関係なくはしゃいでるけど、当時はそういうのがまだ許されなかった時代でした。 ビールかけも、先輩のをただ観てただけ。 楽しめなかったなぁ。 (ホークスからブレーブスへの移籍) 当時はまだ、親が子供を厳しく躾せなならん時代でした。 長男もまだ高校生やったし、娘も小さかった。 女房ひとりではとても任せられん、だから九州に単身赴任は不可能やと、なったんです。 お蔭で球場ではぎょうさん、野次られました(笑)。 (球場の野次、阪急の団長さんに"たこ焼き食べよ"って言われた) アレ、「こっちに持って来い」って、返したんよ(笑)。 ヤジには、発奮させてもらいましたね。「見とけよ」という気持ちにさせてもらいました。 (山田久志さんが「終生のライヴァル」と言っている) 山田のリップ・サーヴィスですよ(笑)。僕なんか、”ヘタクソな選手”やのに。 山田はね、とにっかく速かった。 山口高志も速かったけど、山田も無茶苦茶に速いボールを投げていました。 僕には、真っ直ぐしか投げて来んのです。 シンカーとかカーブとか、投げない。 シンカーなんて、”簡単に打てるボール”なんです。 とにかく、真っ直ぐが速かった。凄い投手でした。 (昭和48年のプレイオフ) スミスと広瀬さんに連続でホームラン打たれてね、もう山田、泣きそうな顔しとるんです。マウンドで。 こうなったらもう、勝負する気ィになんか、なりません。 「ナニクソ!」って向かってくるからこそ、こっちも燃えるんであってね。 ああなったらもう、勝負する気になんかなりませんでした。 (山田さんからホームラン打った日に、電話を入れたというのは本当か) 88年ですね。 なんだかもうね、死人のような顔しとったんです。 「おい、まさか辞める気ィやないやろな?」と、電話したんです。 わかるんですね。そういうのはね。 「俺みたいな”ヘタクソ”がまだやろう思っとるのに、なんでお前ほどのピッチャーが」って、言いました。 結局、引退してしまいましたけどね・・(笑)。 (タイガース・掛布とのトレード話があったというのは本当か) 本当です。 極秘裏に進めておったんですけど、一週間前になってスポニチの記者がスクープで出してしもうて、それでご破算になった。 あのスクープがなかったら、100%実現してましたね。 僕の背番号って、何種類あったか知ってます? 27、44、60。 あと、78と53ね。 44にしたのは、アキレス腱やって、再出発したとき。 誰やったかな、そういう大きな怪我から復活して、活躍しとった選手が近くにいて(→メイ選手)、俺もやれるのかな、頑張ろうかなって思って、その時に付けた番号です。 60番はね、まだ誰もやったことのない60本のホームランを打ってやろうと、それでですね。 一度だけ「いけるんちゃうか」思った年があったんやけどね、阪急の永本にぶつけられて怪我して、アカンかった・・(笑)。 「長嶋・王が引退したあとの、最高のプロ野球選手・・と、改めてマジに言わなければならないところがツライ・・」(玉木正之・新潮プロ野球大辞典) 伝説の大打者・門田博光さん。 数年前、大きな病気を患った際に「もう人前には出たくない」というコメントを目にしたときは、本当に悲しくてショッキングでした。 ブレーブス時代の川崎球場以来ですから、24年ぶり。 またお目にかかれたこと、大袈裟でなく本当に嬉しく思いました。 スタッフの方の介添えがないと、壇上に登ることが出来なかった。 でも全然、ショックじゃない。 「同じ病気」をした我が親父はもう、ベッドから降りることが出来ません。 でも、門田さんは全然、大丈夫。 それだけで、じゅうぶんです。 ファンの方との会話の際には、満面の笑みで、身を乗り出して、「うん!そう!そう!」と。 何度も、マイクを持っていることを忘れて、立ち上がって、フォームを実践してみせてくださったりも。 褒め言葉です。 「野球の大好きなただのオッサン」になっていました。 何度も何度も、「自分はヘタクソ」って。 「大」のつく、「超」のつく、野球人なのに。 こんなトークショー、初めて・・でした。 「なんで”60”やなくて、”44”・・?」 その「疑問」は、始球式で判明しました。 ホークスのニュースター、柳田悠岐。 ロッカーには、門田さんの打撃フォームの「連続写真」を貼っているのだそうです。 背番号・44。 球団側の「たっての希望」だったのだろうと、思います。 「門田二世」にぜひとも、なってください。 「自分なんかちっとも優勝も出来んかったのに、今でもこうして憶えててくれはる人がようけおる。本当に幸せやと思います」 優勝のためだけに、「チームの歯車」になる選手、「監督の操り人形」になる選手は、たくさんいます。 でも、「内野に高々と上がるフライ」や「カウント0−3からのフルスイング」だけでスタンドのお客さんを唸らせ、どよめかせ、喜ばせるような選手、そんな、いつまでも心に残るようなプレイ、語り草に出来るようなプレイを魅せてくれる野球人は、100人に一人もおりません。 「優勝させてあげたかった」とは思っても、「優勝してくれんかった」などと思う野球ファンは、少なくとも「昭和世代」には絶対に、おりません。 ありがとう。 我々はいつまでも、「史上最高のスラッガー」を、忘れません。 |
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