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昭和50年。 生まれて初めて、神宮球場へプロ野球を観に連れて行って貰いました。 「ピッチャー江夏、キャッチャー田淵。ニッポン最高のバッテリーだぞ」。 親父は、「”戦中”からのトラキチ」です。 これが、私の「野球ファン生活のはじまり」でした。 当時4歳。 パジャマは、「タテジマの22番」です。 ごくごく自然に、「野球好き&トラキチ&田淵ファン」になっていきました。 昭和54年1月。 自宅最寄りの、西武新宿線・中井駅。 「この線路の先に、野球場が出来るんだ。これからはいつでも、田淵が観られるんだぞ」。 小学1年生。 親父の言っている意味が、よくわからなかった。 昭和54年2月。 小学校の校門前で貰った、青い帽子。 ライオンのマークが入った、真新しい帽子。 「背番号22」は、なぜかその青い帽子を被ることになっていました。 不思議なほど、親父は「そのこと」を悲しんではいなかった。 改めて訊いてみたことは未だにないのだけれど、「まぁ、”31”がいるからな」、そんなところだったのでしょうか。 新球団「西武ライオンズ」のことをきちんと理解できるようになって、早速”年間パス”が付いてくる「友の会」にも入会して、「よく知らなかったパリーグ」の野球に触れるようになって。 暇さえあれば所沢の新球場にパリーグの野球を観に行くようになって、「テレビじゃ見れなかった」パリーグ選手のプレーや野球の魅力の虜になって。 自宅に戻れば、今まで通りテレビでタイガースを応援して。 「野球ファンとしての幅が広がった」キッカケが、「田淵トレード」になりました。 昭和54年8月。 おんなじ新幹線で遭遇した、タイガースの選手の皆さん。 我々家族のすぐ目の前の席に、若菜嘉晴さん。 パンチパーマの「怖いオッサン」だったけれど、ニッコリ笑って頭を撫でてくれて、サインやお菓子をくれて。 当時は珍しかった「打てて守れる(パスボールは多かったけど)」万能型の捕手。 1年目から、ファンの支持をしっかり集めていました。 若菜さんのこれまた前に座っていたのは、真弓明信さん。 小学生の坊主(私)ですら思わず見とれてしまったほどの、「美青年」。 少女漫画に登場する白馬の騎士みたいな、「格好良いあんちゃん」でした。 「史上最強の核弾頭」。 監督なんかやらなければ、いつまでも純粋にファンに愛され続けたのであろう「生え抜き同然の外様選手」でした。 「カモがネギしょってるみたい」だった竹之内雅史さんのバッティング・フォーム。 少年野球の監督さんからは「モノマネ禁止リスト」の対象にされたけれど、一匹狼然とした風貌ともども、格好良くて大好きでした。 タイガースにもライオンズにも、そのファンにとっても、「大成功」のトレード。 私にとっての「生涯忘れ難き”世紀(運命)のトレード”」・・です。 |
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2014年01月26日
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