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「ねぇコーチさん! 宮田さん! 選手のサイン貰ってよ!!」 中学3年の春のこと・・ですから、86年あたり・・だったでしょうか。 所沢の、ライオンズ球場。 阪急ブレーブスの応援に行った際の、できごとです。 「サイン? アカンアカン! 練習中やねんから!」 「俺、東京に住んでるのに阪急ファンなんですよ! 学校で馬鹿にされてるんですよ! それでも阪急応援してるんですよ!!」 我ながら、なんと図々しく、厚かましく、失礼な餓鬼・・です。 「・・ったく、ウルサイなぁ・・。わかったよ。誰のがほしいんや??」 「ありがとうございます! 石嶺さんのサインがほしいです! あとは誰でもいいです!」 「わかった。 じゃあ、このあと打撃投手したらベンチに帰るから、そん時な。またここに来るから、待ってなさい・・」。 宮田さん。宮田典計さん。 よほどの野球マニアでない限り、ご存知な方はいらっしゃらないかもしれません。 私は、知っていました。 タイガース時代、「王貞治に現役最後のホームランを打たせた投手」だから・・です。 王さんの、引退記念試合。 試合終了後、王さんと並んでの、笑顔でのインタビュー。 「なんで王に打たれたのに、笑ってんだよ?」 小学3年生。 「たかがオープン戦」「しかも記念試合」なのに、事情も知らずに怒っていた(苦笑)。 そのときの投手。 だから、「あ、宮田さんだ!」と、なったのでした。 阪急ブレーブスに移籍後、引退。打撃投手に。 この日は”運悪く”外野で球拾いを手伝っていたばっかりに、「アホな餓鬼」に捕まって、それでも優しく・親切に対応してくれたのでした。 「はいよ、サイン貰ってやったぞ!」。 帽子には、背番号29(石嶺さん)のサインのほかに、カタカナで「ブーマー」、漢字で「亜仁丸」と書かれたサインが入っていました。 「学校で馬鹿にされても、ずっと阪急応援しろよ!」 「宮田さん、ありがとう! ずっと応援しますよ!!」・・ 宮田さんはその後、オリックス・ブルーウェーブでも打撃投手を勤められ、あのイチローのお相手もなさっています。 宮田さん、ごめんね。 私は「ブルーウェーブのファン」には、ならなかった。 でも、約束どおり、いまでも「阪急のファン」ですよ。 こんな「たからもの」を貰ったのに、約束を破るはずがない。 「僕は選手には野球を最優先に考えてほしい。『勝つことが最大のファンサービス』と言った落合(前)監督の言葉はまさにその通りで、僕はそれが正しいことだと思う。」 吉見一起。 違うよ。 絶対に、違うよ。 ファンは絶対に忘れないんです。 「サインしてくれた選手」「親切にしてくれた球団」は、忘れないんです。 そして、「どんなに勝てなくても、勝てない時こそ」、熱心に応援してくれるようになるんです。 「勝ってるときに応援するファン」は、「勝てなくなったら離れるだけ」・・なんだよ。 「勝つことだけがファンサーヴィス」になったら、「勝てなくなったらなんにも残らない」んですよ。 まだ子供の時、与那嶺要さんだけが、サインをしてくれた。 そのときの嬉しさが忘れられないから、だから王貞治さんは、一度もファンからのサイン依頼を断ったことがないのだそうです。 ホークスの選手にも「それ」は厳しく”教育”されていて、それがホークスの人気にしっかりと結びついている、と言われています。 「どんな時でもサインは断らない」。 だから浅尾拓也投手は誰からも愛されるし、野球の神様が守ってくれるんだ。 私はそう、思いますよ。吉見投手。 2012年。 私は「高木”アナクロ”ドラゴンズ」を、全面応援します。 ちょっと中途半端な感もなくはないけれど、ユニフォームもなかなかいい。 少なくとも昨年までのものよりは全然、いいよ。 |
懐かしのプロ野球
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34年の観戦歴と読書歴(?)を活かして、実際に観た・観ないに捉われずに、懐かしの球団・選手をリスペクトした記事を書いていきたいと思います。
体験談&アドヴァイスも、大歓迎です。よろしくお願いいたします。
体験談&アドヴァイスも、大歓迎です。よろしくお願いいたします。
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スカパーフジ・「プロ野球ここだけの話」。 テーマは、「サブマリン投手」。 ゲスト・山田久志さん・松沼博久さん・渡辺俊介投手。 ●サブマリン投手になったきっかけは? ●山田さん 僕は元々、三塁手だったの。高校二年まで。 サヨナラエラーやってね、その日のうちに「お前、クビ。投手やれ」。 高校を卒業して、岩手の富士製鉄釜石という会社に入って。 そこの監督さんに、「お前、このままじゃダメだ。横から投げてみたらどうか」って言われたの。 それが、キッカケですね。 もしエラーをしなかったら投手になってなかったかもしれないし、釜石に入ってなかったら下手投げになっていなかったと思う。「その後の山田」も、なかっただろうね。 たまには、エラーもしてみるもんだよ(笑)。 ●松沼さん 僕も高校二年までは内野手でした。 監督さんから投手やれ、って言われて転向したんですけど、全然、ストライクが入らない。 たまたま、先輩に下手投げの人がいたので、見よう見まねでやってみたら、コントロールが良くなった。 「これならいけるかも」ってなって、そのまま・・でした。 ●渡辺俊介 僕、立位体前屈が得意なんですけど、それで小学生の時、親父から「横から投げてみろ」と言われたんです。 と言っても、当時はまだ山田さんや松沼さんの映像を観るチャンスもなかったので、誰を参考にしてマスターしたらいいのかわからない。 近所の草野球のおっちゃんに下手投げの人がいて、それを手本にしたりもしましたよ(笑)。 野球カードって、あるじゃないですか。 あれで、杉浦忠さん(南海)のカードを貰ったんですけど、もう、衝撃でしたね。 ボールをリリースする瞬間の画なのに、右足が地面にピッタリ着いているんです。 「なんて凄いフォームなんだ。どうしたらこんな投げ方が出来るんだろう?」って、一気にアンダースローに興味が湧いてきたんです。 その後、山田さんのフォームの映像も見られるようになって、「下手投げにも格好いい人がたくさんいる!」って感激して、このフォームで行こうと決めました。 ●「これぞサブマリン!という投手を3人、挙げてください」 ●「杉浦忠・秋山登・皆川睦男」(山田さん) 僕らの世代は、野球を始めたころのスターって言ったら、立教の杉浦さん・長嶋さんだった。 この世界に入ってお会いした先輩方のなかで、会うときに緊張したのって、杉浦さんと長嶋さんだけだったね。 杉浦さんはもう、別格やね。 カーヴなんて、大袈裟にいうと「ベースを巻いてくる」んだから。 野球界の先輩ってのは、みんな意地悪なの。 なにか教えてって言っても、誰も教えてくれない(笑)。 でも、杉浦さんは本当に優しい人なのね。なんでも教えてくれた。 「ヤマ、腕の振りはこうやぞ、手首の角度はこうやぞ・・」。 カーヴを教えてもらったのも、杉浦さんでした。 秋山さんはね、格好いい投手でしたね。 「サブマリン=17番」のイメージの元祖ですよ。 「17がほしいなぁ」って、思ったもんね。秋山さんがキッカケだったんですよ。 皆川さんは、スピードはないけど打たせて取る名人。 優しそうなイメージなんだけど、実は意地悪なんだよ(笑)。何も教えてくれなかった。 あの人、山形でしょ? 僕が秋田だから、ライヴァル意識があったんじゃないかな。 プロでも、同じ関西の電鉄同士だったしね。 ●「杉浦忠・山田久志・金城基泰」(松沼さん) 山田さんは、僕らにとってみたら神様。 でも杉浦さんは、さらにその上を行くような存在(笑)でした。 金城は凄かったですね。バックスイングが大きくてね。 彼よりも大きく腕を振ろうとしてみたんだけど、出来なかった。 本当は、後ろは小さいほうが理想なんだけど、彼は大きく大きくだった。 「でもそれが金城の弱点だった。バッターから見ると、ボールの握りが全部見えるから、それで球種がわかるんだって。プロのバッターってすごいんだなって思ったね。でも速かったよね、金城は」(山田さん) あとは、高橋直樹さんとか、右ではないけど永射保ですかね。 左バッターはみんな、誰も打てなかった。レロン・リーなんて、右打席に入ったんだから。 ●「杉浦忠・山田久志・仁科時成」(渡辺俊介) プロに入った時の投手コーチが仁科さんだったので、最初はよく真似をしました。 左足を掛ける独特の投げ方なんですけど、真似出来なかったですね。 ●「シンカー」 ●山田さん カーヴと真っ直ぐだけじゃシンドイなぁと思うようになって、シンカー投げたいなぁ!ってなったのね。 それで、杉浦さんに聞きに行ったの。 そうしたら、「俺悪いけど、シンカー投げないんや」と。 あの人は、真っ直ぐとカーヴしか投げなかった人なんだよね。 それで皆川さんに聞きに行ったら、教えてくれない。意地悪なんだ(笑)。 阪急の先輩の足立光宏さんと言う人がいたんだけど、教えてって言ったら「ダメ!」(笑)。 仕方ないから、独学でマスターしましたよ。 ムキになってシンカーを投げに行ったのは、落合(博満)だけ。 清原にはね、実は一回も投げたことがないんです。 全部、真っ直ぐ勝負。 だから、清原のコメントはショックだったね。 「シンカーを打った」って。 真っ直ぐに力がなくなって、自然に落ちてただけなんだよ。 「ああ、俺も衰えたのかな」って、思ったね。 ●渡辺俊介 僕もシンカーを覚えたくて、高津さんとか葛西さん・川尻さんなんかに聞きに行ったんです。 でもなかなか、マスター出来なかった。 高津さんには、「お前のフォームじゃ無理」って。 でも、山田さんにお会いしたとき、「シンカーは低めに投げるボールじゃない。高めから落とすんだ」って言われて、それからシックリ行くようになりました。 バッターに「チャンスボールだ!」と思わせる高さへ投げて、ほんの少し落とせばいい、と。 昨年は、その「落ち際」を狙われてよく打たれたんですけど、だから今年は逆手にとって、シンカーを投げずに真っ直ぐで勝負した。 そうしたら今度は、フライアウトの山になりました(笑)。 ●松沼さん 僕にとってのシンカーは、逆に「低めに投げたい時に使うボール」でした。 勝手に沈んで、低めに行く。 晩年なんて、130球投げるとしたら100球くらいがシンカー。 それで3年くらい、生き延びました(笑)。 ●ブルペンの練習中に、山田さんのフォームを真似して投げてみたことがあるんです。 そうしたら審判の方に、「いまの、二段モーションじゃないか?」って言われた(笑)。 「このフォームは、284勝をマークした山田久志さんのフォームですよ」って言ったら、みんな突然何も言わなくなって・・(笑)(渡辺俊介) ●いま、ぼくのフォーム(映像)を観て思うこと? 綺麗だねぇ。いいフォームだねぇ・・(笑)。 でもお客さん、入ってないねぇ・・(笑)。 もう少し、入ってくれても良かったよね・・。(山田久志さん) 「カーヴの正しい投げ方は、山田さんに教えてもらいました」(渡辺俊介) 「僕がカーヴを教えてもらったのは、杉浦忠さんだった」(山田久志さん) 杉浦忠→山田久志→渡辺俊介。 素晴らしき「野球の伝統(伝道)」に、ただただ、感動です。 「山田久志・深沢恵雄・仁科時成・高橋直樹・松沼博久・金城基泰・渡辺俊介」。 私が「実際に見た、尊敬する(思い出深い)サブマリン投手」は、この7人。 「7人のサブマリン(侍)」・・ですね。 一番「格好いいな」と思ったのは、「南海ホークスの21番」だった、金城さん。 無論、「いま一番大事に思う投手」は、俊介ですけど・・ね。 山田さんはやっぱり、「別格」だな。 もちろん、杉浦忠さんも。 |
さて、国鉄に入ってみて驚きました。 まず「試合に勝つんだ」という、プロ野球チームにとって最も大事な姿勢がどこを探してもないんです。 西鉄の三原脩監督は「アマは和して勝つ。プロは勝って和す」の名言を残していますが、このチームは勝ってないくせに和しているのです。 悔しがるのではなく慰め合うのです。 西鉄では、こんな不思議な光景に出会ったことのない私はカルチャーショックのようなものを感じました。 豊田泰光さん。 「記念本」なのに、”いつもの”トヨさん節。素晴らしいです(笑)。 「勝てなくても和す」。 「松園スワローズ」も、思えば「そういうチーム」でした。 「巨人に勝つとヤクルトが売れない。負けでいい。ウチは2位でいい」。 「野球選手は、野球が上手いかどうかではなく(!)、その前に立派な社会人でなければならない」・・。 「プロなのかアマ(ちゃん)なのかわからない球団」。 私が少年時代に感じていた「スワローズの印象」は、そんな感じでした。 そしてそんな「チームのカラー」は、実は国鉄時代から受け継がれてきたものだったのかも、しれません。 いまのスワローズは、「勝って”さらに”和す」のチームになったように、思える。 これは、素晴らしいことのように感じます。 人件費と補強費の高騰で球団経営に苦しむ国鉄は、前年から業務提携していたサンケイに身売りすることになった。 提携はもともと球団譲渡が前提であり、条件のひとつに「金田放出」があったという。 「チーム一の高級獲りでワンマンの天皇は不要」との方針からトレードの噂も出た中、金田は当然その方針に反発。 B級10年選手の特権を行使して、巨人に移籍する。 弱小チームを見限って、より勝てるチームを選んだのでは?と問うと、金田はきっぱりと否定した。 「住み慣れたチームをやめたくなかった。ワシは人の助けを借りて勝ったことがなく、全部自分でケリをつけたけど、国鉄あっての”金田野球”だったんだから」 はるか昔、石川県金沢市の野球場で金田さんにサインを頂戴したという我がお袋は、ことあるごとに「大好きだったけど、巨人に行ってから大嫌いになった」と、こぼしていました。 私は「カネやんのファン」なのだけれど、DNAと言うべきなのか否か、「巨人に寝返った金田」という史実に基づくイメージは、やはりとても残念なものでした。 林義一監督との、確執。 その林さんの解任を決定していたのに、「他紙」にそれをスッパ抜かれてしまい、「そのとおりに解任したら”他紙”に特ダネを提供したことになる」という理由だけで、急遽「林監督・留任」。 サンケイの、そんな「まったくつまらない面子のみの人事」に嫌気がさしての、退団。 妙な物言いなのですが、なんだか救われました。 「まず、巨人ありき」だったんじゃない。 カネやんは、「国鉄あっての自分」に、拘ったんだ。 三原さんはその年にオープン戦で僕をガンガン使ってくれた。 それで、まだ2ケタ勝ったことのない4年目の僕が開幕投手。 周りには「なんで松岡が」と不満だった人もいたみたいだけど、三原さんが信頼してくれた。 そうしたら、その年14勝ですよ。 三原さんの魔術にかかっちゃったんだね。 松岡弘さん。 豊田泰光さんに、「三原親子」。西鉄スワローズ。 「中西太⇔若松勉」はあまりにも有名ですが、のちの初優勝に繋がる大エースの育成にも、「三原魔術」は威力を発揮していたんですね。 「万年Bクラス」だった近鉄バファローズとヤクルトスワローズは、ほぼ同時期に「初優勝」を成し遂げていますが、そのいづれにも「三原脩」が絡んでいる。 やはり、ただただ、物凄い人物なんだと改めて・・です。 南海ホークス・蔭山和夫監督が無事に実現していたら、「スワローズ・鶴岡親分」が誕生していました。 もしそうなっていたら、若松さんや松岡さんはどうなっていたのだろう。 ひょっとしたら、絶大なるコネクションを駆使して有望選手獲得に尽力し、「鶴岡親分がスワローズを常勝軍団に」などとなっていたのかな。 パリーグの名将もたくさん、絡んでいる。 考えてみれば、みんな「鉄道村のひとびと」・・なんですね。 「当たったら絶対に死ぬ」と言われた、「弾丸ライナー」杉浦亨さん。 幼少時代、球場に向かう途中に遭遇したら、笑顔で手を振ってくださった。 「見たまんま」の、とっても優しいスラッガーでした。 「守りの達人」水谷新太郎さんのことは、いつも勝手に「楽太郎さん」と呼んでいました。 (いまもし会ったら、「圓楽師匠!」と言わなければならない) 渡辺進さん&小川淳司さん。 バリバリのレギュラーではないけど、雰囲気を持っている選手でした。 「1番・センター・青木」と言えば、ノリチカじゃない。「ミノル」です。 「ただの代走屋だったはずなのに、アッと驚く盗塁王」。今でも思い出す、強烈なインパクトでした。 「王貞治に756号を打たせてあげた」鈴木康二朗さん。 近鉄バファローズでも、大活躍してくれました。 「コイツは阪神にばっかり勝つんだ。大嫌いなんだ」と、トラキチ親父に嫌われた、梶間健一さん。 「強肩・強打」。 なぜだか、私が「田淵&掛布の次に大好きだった野球選手」は、大矢明彦さんでした。 「赤鬼」。 恐る恐る近づいたら、なんと笑顔で頭を撫でてくれたんだっけ。 マニエルおじさん。いまでも、大好きです。「自慢のタネ」です。 その横を歩いていて、握手に応じてくれたのは、「月に向かって打った」スラッガー。 大杉勝男さん。いつまでも忘れないよ。 昭和50年から、36年。 毎年必ず1度以上、神宮球場に通っています。 一度も「スワローズのファン」になったことはないけれど、でもずっと「愛着あるチーム」であり続けています。 クライマックス・シリーズ。 石川マーちゃん&館山昌平のリレー。痺れたよ。 「レギュラーシーズン出場無し」の、山田哲人君。 「致命的エラー」でも、下を向かなかった。 「ポストシーズンにプロ初安打&初打点」なんて、聞いたことがない。 偉いぞ。頑張ろう。 絶対的な戦力差。 でも、明日なき全員野球で。必死に。 クライマックスは大嫌いなんだけど、でもやっぱり、応援してしまいました。 私はそういうチームが、そういうチームこそが、大好きだから。 ありがとうスワローズ。 「わが愛しのスワローズ」(ベースボールマガジン社・刊)。 「特急つばめ物語」「鉄道会社のプロ野球」。 鉄道ファンにも、楽しい一冊です。 そういえば。 もし「ホークスvsスワローズ」となったら、史上初の”トリ対決”になるだけではなく、「つばめダービー」にも・・だったんですね。 残念。 それはまた、来年以降のお楽しみに。 |
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昭和63年10月19日。
「昭和のプロ野球が終わった日」。
いつまでも忘れられないし、忘れたいけど忘れたくない。
そんな日です。
ありがとう近鉄バファローズ。
さようなら阪急ブレーブス。
忘れないよ、南海ホークス。
プロ野球が、恐らくいちばん、最高に楽しかった時代のひとコマです。
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1988年10月15日。
ユーチューブをサーフィンしていて、気づきました。
そうかそうか、「きのう」だったんですね。「命日」。
正確に言うと、「南海ホークス最終戦」が行われたのは、10月20日。VSオリオンズ。
「あの」川崎球場Wヘッダー翌日でした。
いやでも、「命日」はやっぱり10月15日・・ですよね。
水島新司さんのご挨拶は、初めて観ました。
「来年も変わらず、近鉄・阪急とゲームをします・・」
鶴岡御大のご挨拶が、とてもとても物悲しいです。
そう。まだ誰にも、「阪急も・・」の情報など、なかったんだ。
関西野球ファンにとっての「10月」は、8月と並ぶ「鎮魂の月」。
たとえわすがでもいい、南海ホークスを偲んであげてほしかったので、記事にしました。
「ホークスは不滅です」「行ってまいります」。
南海ホークスとなんば球場と杉浦忠さんを、いつまでも忘れないために。
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