通天閣と阪急ブレーブスと明石天文台をこよなく愛した友人がいた。 彼の名を大阪君という。 昭和六十二年の春、私が勤めていた大阪の広告会社のテレビ局に新人として配属されてきた。 (略) いつだったか、会社の飲み会に大阪君がひどく遅刻してきたことがあった。 目を真っ赤にし、席についてからも終始無言。 理由は聞かなかったが、次に日の朝刊を見てはっとした。 彼が好きな阪急ブレーブスの球団最後の試合が行われていたのである。 西宮球場から四時間かけて泣きながら帰ってきたと後で知った。 なんちゅう奴っちゃとあきれた。 (略) その冬、大阪君は死んだ。心筋梗塞だった。 社の先輩と私と三人でカラオケで騒いだ翌朝の出来事だった。 なんちゅう奴っちゃと絶句した。 星が好きだった彼のために、ご両親は明石天文台の隣の寺に墓を立てた。 「わが心の町 大阪君のこと」(最相葉月著・中公文庫刊) 2011年5月7日。 「阪急ブレーブス・復活祭」。 賛否両論。 「ファンを欺くのもいい加減にしろ」「あんな球団、消えて無くなれ」。 多くの「ブレーブス信者」の方々は、概ねそう思っている。 否定はしません。 私だって本音の部分では、限りなくそんな思いに近い。 ある意味、積極的に立ち会おうとしている私は、「裏切り者」に該当するのやもしれません。 でも、こうも思うのです。 大阪君。 映画「ココニイルコト」では、前野君。 「どうしたらいいですか。行ってもいいですか。賛同してもいいですか」。 彼はきっと、言ってくれる。 「ま、ええんちゃいますか」。 もし、ご存命だったなら。 大阪さんはきっと、神戸球場のスタンドにいらしたはずだと、思うのです。 あれから十数年。 通天閣を見るたび、彼が最期の晩に唄った「星娘」の歌詞が「ほしむすめーええん、ほしむすめーええん」と私の心の中でリフレインする。 こんなんやけど、まだ生きててええんやろかと聞くと、いつも通天閣はこう答えてくれる。 「好きなように生きたらええんちゃいますか、はあ」 無責任だけど温かな大阪君の顔をして・・・。 今晩、出発します。 土曜日の早朝に、大阪・なんば着。 大阪球場・西宮球場・藤井寺球場・日本生命野球場。 そして、阪急ブレーブス。 「聖地・巡礼の旅」です。 「アホか」。 すみません。 好きなように、生きたいと思います。 |
懐かしのプロ野球
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34年の観戦歴と読書歴(?)を活かして、実際に観た・観ないに捉われずに、懐かしの球団・選手をリスペクトした記事を書いていきたいと思います。
体験談&アドヴァイスも、大歓迎です。よろしくお願いいたします。
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「ブレーブスのユニフォームがほしいな。着てみたいな」 少年時代の、「夢」でした。 当時はまだ、「レプリカユニフォーム」などというグッズは存在しませんでした。 時が経ち、球団もニックネームも、消えてしまった。 23年の歳月が、流れました。 「遅きに失した」「単なる商魂」。 そのとおりです。 「あんな球団にカネを落としたくない」。 そのとおり。そう、思っていました。 でも、「子供のころに夢見た姿」に、負けてしまいました。 「夢を叶えたい」という思いに、負けました。 「後藤選手・岸田投手・T岡田選手・金子投手・・」 商品選択欄。 辿っていくと、「7番」「17番」という表記が、出現した。 もう、「買うべきか否か」などと聞くのは、野暮です。 悔しいけれど、「売り切れないでくれ。オレが決済するまでは・・」。 現役選手を差し置いて、「7番」「17番」がいの一番で、「品切れ」。 当然だろ。 当然だよ。 でもやっぱり、嬉しい。 ありがとう。 やっぱりみんな、「この日」を待っていたんだな。 ずっとずっと、待ってくれていたんだ。 やっぱり、とっても、嬉しく思いました。 「”阪急ファンだった”ではない。過去形ではない。私は今でも、”阪急ファン”である」。 そんな方も、いらっしゃいます。 「野球難民」ではない。 「心にはいつもブレーブス」。 「ブレーブスは、阪急のものでも、オリックスのものでもないと思います。ひとりひとり、みんなのブレーブスだと思います」。 みんなの心に、いまも「あのころと変わらぬブレーブス」がある。 そんなひとたちのために、このユニフォームは生まれたんだ。 無理矢理にでも、そう思うようにします。 あの球団には、やっぱり「ありがとう」なんて言えないけれど。 大阪ドームのショップには、若いファンも多数、訪れてくれているのだとか。 これもこれ、やっぱり嬉しいな。ありがとう。 「7月17日生まれ」。 「どっちにしようか」なんて、迷えない。選びようがない。 「衝動買い」。2着。 でも、いいですよね。「夢が叶った」んだもの。 「阪急ブレーブスが大好きでした」。 これは、私の人生における「誇り」です。 今でもずっと、です。 aout様。 「準備・完了」です。 |
移転初年度のピンクのユニフォームもひどかった。 デザイン候補が何十種類か挙がっており、選手で選ぶことになった。 選手サイドでは黒を基調としたシンプルなデザインを選んだはずなのだが、できあがったのがあの悪名高きピンクのユニフォーム。 なんだこれ、と聞いたら、オーナーの鶴の一声だったそうだ。 「マリンスタジアムだからマリンブルー」など、もう少しマシなイメージがあるだろう。 「球界の野良犬」(愛甲猛・著 宝島社刊) 「ロッテのユニフォームって、”キャンディの包み紙みたい”ですよね(笑)」 会社で、憧れのカヨちゃんから、そんなことを言われました。 「顔から火」。 赤面。恥ずかしさ。虚しさ。 「ロッテが好き?! 何で? どうして??」 「野球はどこのファン?」と聞かれ、返答すると必ず返ってくるのが、これでした。 「そんな時代」に、よりによって「あんな」ユニフォーム。 「やり場のない怒り」。カナシミ。 もうこんなチームのファン、やめる。 「オリオンズ」も消してしまったし、川崎球場も捨ててしまった。 もういいよ。 少なからず、そう思ったりもしました。 「アメリカメジャーリーグのチームは、ユニフォームの胸に企業名なんか入れていない」。 重光ジュニアさん。 この「ひとこと」が、救いになりました。 ホーム用もビジター用も、「LOTTE」。 考えてみれば、このほうがよっぽど「恥ずかしかった」んだ。 胸は両方とも、「MARINES」になった。 袖には大きく、「CHIBA」の文字も。 まぁ、いいか。 もう、仕方ないか。 そのうちまた、マイナー・チェンジするだろう・・。 「妥協」して、3年。 「”この色”は、戦闘服に相応しいとは思えない」 ボビー・バレンタイン。「名言」。 以後、「いまのユニフォーム」が今日まで続いています。 「負の歴史」があって、「いま」がある。 あながち、無駄な歳月ではなかった。 いまでは素直にそう、思えたりも・・です。 ホークス戦。「復活デー」。 荻野貴司だけは、なんだか妙に似合っていましたね。 |
野球は、小学校の時から中学・高校と続けてたけど、近所にオリオンズの成田がいてさ。 そのスピードの凄さにドギモを抜かれて、とてもじゃないけど勝負になんないわけ。 それでやめた。 (北野武さん) 通算・175勝。 3年連続20勝利&無安打無得点試合も。 オリオンズ(マリーンズ)の歴代選手の中で、「最多勝利投手賞2度」は、成田さんだけ。 ファイターズ時代を含め、リーグ優勝に3度貢献。 打者としても、通算15本塁打。満塁弾も。 文句なしの、大選手&大投手です。 なのに、世間的には無論、野球ファンの間ですら、知名度はいまひとつ。 かくいう私も、パリーグ野球に親しみ始めたころには「ファイターズの中継ぎ投手」になっていた成田さんの記憶は、あまり多くありません。 こんなことを言ったらなんですが、「お前ら、ナンボのもんだよ」と思ってやっていましたね。 どんなに頑張ってもマスコミの扱い方が違うんですよ。 当時の阪急もそうですが、パ・リーグの選手というのは結構、イラついていたと思います。 セ・リーグの選手に対して。 オレのほうがあいつより絶対に良いピッチャーなのに、とか、アイツはなぜそんなに騒がれるんだろうとかね。 (山田久志さん) 「悲運の時代」。 成田文男さんもまた、そんな時代のパ・リーグを支えてくださった野球人でした。 サンフランシスコ・ジャイアンツに、「お前がほしい」と言われたことがありました。 正式契約の寸前まで、いった。 でも当時は、日本人選手がアメリカで・大リーグでプレーするなんて考えられなかった時代。 なんだか怖くなって、逃げるようにして帰ってきました。 「後にも先にも、あんなに凄いスライダーは観たことがない」(佐々木恭介)。 ひとりでも多くの野球ファン・パリーグファン・マリーンズファンの方々が、「過去との交信」をしてほしい・楽しんでほしい・誇りに思ってあげてほしいと、心から願います。 合掌。 |
『「俳優で食えない…」”悪役”逮捕 父は広島元監督』(産経新聞)http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110422-00000540-san-soci女性からバッグをひったくったとして、警視庁捜査3課は窃盗の疑いで、俳優の森永健司容疑者(46)=東京都大田区南雪谷=を逮捕した。 同課によると「20件ぐらいやった。俳優だけでは食っていけず生活費を補っていた」と供述しているという。 (同) 「広島元監督」。 この見出しで、記事をクリックしてしまいました。 「森永さんと、神田アナウンサーです・・」 プロ野球ニュース。 80年代以前からの野球ファンなら、少なからず馴染みがあった方だと思います。 森永勝也さん。 弱小カープの主軸打者として、活躍。 監督就任後は、ジョー・ルーツを打撃コーチとして日本に招聘。 ホークスから古葉竹識、バファローズから阿南準郎を、カープに復帰させている。 「赤ヘル黄金期の礎を築いたお方」と言っても、決して過言ではないでしょう。 「史上ただひとり、”長嶋茂雄の代打”に起用された野球選手」でも、ありました。 93年に、他界。59歳。 いつでも、優しい笑顔。穏やかな語り口。 解説者としても、親しみを感じさせてくれる方でした。 「後輩・黒田博樹の活躍を少しでも見せてあげたかった」。 よく、そんなことを思ったりしたものでした。 「ミスター・ベースボール」「力道山」「それでもボクはやってない」「沈まぬ太陽」。 観た映画ばっかりなのに、「森永さんの息子が出ていた」なんて、初耳。 というより、「息子が俳優」なんてこと自体、初耳・・でした。 偉大なるお父さんに、謝れ。 |









