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京都府京都市東山区。 今は亡き我が父の実家があり、私にとっての生まれ故郷でもあります。 小学生のころ。 お盆の墓参りで東京から訪れた際、父と近所を散歩することに。 「面白いところに行ってみるか」。 そう親父が言い、連れて行かれたのは、我が生家から徒歩数分の場所。 何の変哲も無い住宅街の中に、「珍しいけれどよく耳にする名前」の表札がありました。 「衣笠」。 き・ぬ・が・さ・・・・?! 「そうだよ。ここが実家なんだ。アイツは東山の誇りだな」・・ 通算2453安打・504本塁打・1448打点・266盗塁。 そして、「2215」。 物凄い数字ばかりがズラズラと。 しかし、なのに、「年間打率3割」は1度だけ。 通算三振・1587 通算併殺打・267 しみじみ、素晴らしいなぁ・・と、思います。 「いつ何時も、フルスウィング」。 サチさんはやっぱり、「記録なんかよりも記憶のひと」と、改めて思います。 私は1971年7月17日に、京都・東山で生まれました。 「江夏豊・球宴9奪三振の日」です。 「俺もすぐに行く。また向こうで野球談義をやろう」。 江夏豊。 私にも隅っこでいいので、いつか拝聴させてください。 合掌。
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懐かしのプロ野球
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34年の観戦歴と読書歴(?)を活かして、実際に観た・観ないに捉われずに、懐かしの球団・選手をリスペクトした記事を書いていきたいと思います。
体験談&アドヴァイスも、大歓迎です。よろしくお願いいたします。
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三原脩さん。 西本幸雄さん。 星野仙一さん。 「3球団で優勝監督」。 プロ野球史上、達成されたのは上記お三方のみ。 「共通していること」が、他にもあります。 「グラウンドでは、とにかく怖かった」 「ユニフォームを脱ぐと、別人のように優しくて」・・。 「星野さんは、10のうち7つは怒っているんです。いや9かな(笑)。で、残りの1つでフォローするんです。その、1のフォローがあるから、9のお叱りを純粋に受け止められるんです」(鈴木孝政さん) プロ野球の選手とビジネスマンを結びつけたりするのは好きではないのだけれど。 サラリーマン生活を26年も続けている身になって考えると、「フォローの1」、素晴らしいな、羨ましいなと、ピュアに感じます。 私が物心ついてプロ野球の世界の虜になったのは、昭和50年代の前半からでした。 「巨人にあらずはプロ野球にあらず」の時代。 首都圏のテレビの野球中継は、「巨人・巨人。以上」。 タイガース・ファンの一家に育った私にとって、テレビ野球中継の唯一最大の楽しみは「どこでもいい。巨人をやっつけろ」。 80年代後半まで続いた「ダサ格好良い」ブルーのユニフォームを身に纏い、後楽園やナゴヤ球場で巨人のユニフォームに闘志剥き出し・仁王立ちする星野の仙さんは、文句なしのヒーローでした。 マリーンズ・ジョニー黒木の全盛期、マウンドでの表情や居ずまいを観るたび、「懐かしいな、星野さんみたいだ」なんて思ったりしたこともありました。 「阪神・星野」には正直、あんまり魅力を感じなかった。 そればっかり(メイン?)の報道が何だかちょっぴり寂しい、40歳後半の元・野球少年です。 星野さん、ありがとうございました。合掌。
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「お前、初芝ファンなんだろ? サッサと帰って応援しろ!www」 ・・野球ヲタクの上司です。 社会人野球日本選手権・決勝。 セガサミーの監督は、「あの」初芝清さん・・です。 大会中ずっと気にかけてはいたのだけれど、まさか決勝まで進むとは・・でした。 途中経過を気にしながら急いで帰ってきたのですが、嗚呼!残念、「完敗」でした。 いやでも、「初芝監督」(笑)。 「大健闘」・・ですよね。 セガサミーには他にも、元近鉄の前田忠節さんがコーチとして在籍。 サミーと準決勝で激突した大阪ガスの投手コーチは、元マリーンズの成本年秀さん。 何を今さら、でもようやっと少しだけ、「そういう時代」になってきたのかな・・という感じです。 「準優勝」。 やっぱりちょっと、残念。 でもしかし、かずさマジック時代も含めて初芝さん、意外や意外(失礼)で「名指導者」なのかも・・です。 お疲れ様でした。 1989(平成元)年・川崎球場。 ふとしたきっかけで、球場内でうどん屋さんを営む小母さんと知り合いになりました。 「選手のサイン、貰ってあげるよ! 誰のがほしいの?」。 ・・あんまり深く考えずに、なぜだかすぐに出た名前が「初芝選手」・・でした。 当時はまだ、ルーキー。 ようやっとレギュラーで出場し始めたばかりのころ・・という選手でした。 なんでだろう? 不思議と、「応援したくなる雰囲気」を持っている人でした。 元々、「デカくて飛ばす人」が好み(笑)だったりするのも、ありました。 「ハッちゃん?? あの子なら、いつでももらえるよ! 私、普段は寿司屋をやっているんだけど、いつも来てくれているから・・」。 「金田(正一)監督がね、いつもハッちゃんとか堀(幸一)くんとか、若い子たちを連れてお寿司を食べに来てくれるの。金田さんって自分は全然食べないで、”この子たちにいいネタどんどん出してやって!”って。いろいろ言われる人だけど(笑)、ネは良いヒトなんだよ・・(笑)」 「ハッちゃん、”僕のサインなんか欲しいヒトがいるんですね”って喜んでいたよ(笑)・・」 大好きだった、川崎球場。 いつまでも忘れない大切な思い出・・です。 初芝清さん。 私の小学校時代からの幼馴染に、高校野球部(二松学舎大附)の後輩がいます。 社会人になって同期生になったヒトには、「初芝さんと対戦したことがある」という人が。 いま勤めている会社の所在地(埼玉県坂戸市)も、初芝さんの「生まれ故郷」。 「小学校時代に特大ホームラン打って、ここいらじゃ有名人だったんだぜ」(上司)・・。 私にとっては、なにかと「ご縁のあるひと」・・です。 いつの日かまた、オリオンズのユニフォームを。 待っていますよ。 追伸。 「おんなじボール」に、”もうひとり”。 プロ野球80年の歴史で「ただひとり」の大事件を起こした、オリオンズの元投手。 「事件現場」もまた、私の会社の至近・・でした。 あまりにも明と暗が過ぎる、「晩節」。 寂しくて切なくて、やりきれません。 |
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「甲子園球場での日本シリーズ開幕は、50年ぶり」。 50年前。1964(昭和39)年。 この年の日本シリーズも、「タイガースVSホークス(南海)」です。 ホークスの第1戦先発は、「ジョー・”スタン”カ」。 関西の野球ファンに「スカタン」の愛称で親しまれた、大投手。 今季の「第1戦・ホークス先発投手」も、「”スタン”リッジ」。 ・・これもまた、「不思議な縁」ですね。 「このシリーズ(1964年)は外国人シリーズと謳われ、スタンカの他、南海はハドリ、ローガン、阪神はバッキー、バーンサイド(いずれも投手)らが活躍した(ウイキペディア)」。 メッセンジャー(勝ち投手?)&ゴメス(3打点)&マートン(2打点)。 こんなところも、「酷似」になるやも・・しれません。 「似て非なること」は、「”関西決戦”ではない」こと。 パセ合わせて最大4球団もあったにも関わらず、「関西ダービー」の日本シリーズは、この1964(昭和39)年の一度きり。 これは明らかに、「タイガースの責任」(笑)。 もっとも「惜しかった」のは、1973(昭和48)年。 「残り試合2・マジック1」まで迫りながらの、「逆転V逸」。 フロントが「優勝せんでええ。2位でええ」などと言わなければ、「巨人V9阻止」となり、シリーズでの「関西決戦第2章」が実現していた・・のに。 この年、もしタイガース優勝だったなら、おお!またしても「タイガースVSホークス(南海)」・・でした。 やっぱり、「不思議な縁」・・やなあ。 「タイガースVS九州パ」という観点で言うと、「VS西鉄ライオンズ」は一度も実現せず。 タイガースは昭和37年&39年に優勝。 西鉄ライオンズの「最後の優勝」は、昭和38年。 「藤本のじっちゃんVS中西太さん」。 三原脩さんは、どっちを応援したのだろうか。 「ニアミス」。惜しかった・・。 第1戦 19904人(甲子園) 第2戦 19190人(甲子園) 第3戦 29932人(大阪) 第4戦 30107人(大阪) 第5戦 26962人(大阪) 第6戦 25471人(甲子園) 第7戦 15172人(甲子園) 合計 166738人 1試合平均 23820人 昭和39年日本シリーズの、入場者数。 東京オリンピック・フィーヴァーに沸くなかでの「とばっちり」で、シリーズとは思えないような観客数に。 私の親父は当時、23歳。 「甲子園で”スカタン”にやられた。入場券は”当日に普通に買えた”し、兄貴(私の叔父)と、”何の約束もしていなかったのに球場のスタンドでばったり会った”。それくらいガラガラだった。”外野席なんて人が全然いなかった”な・・」 「あのころは関西でも南海ファンの方が多かった。学校でも南海ファンによく阪神を馬鹿にされた。三宅・吉田・鎌田は名手だったが、遠井(吾郎)のせいで”守りは南海が上”なんて言われてな・・」 遠い遠い昔の、今となっては「信じられない」物語です。 そんな親父も、73歳。 ベッドで「寝たきり」になりました。 第1戦。「予想どおり」。 今年は、タイガースかな。タイガースでエエかな。 個人的には、そんな気分です。 「Gに4連勝」で”古いトラ党”はもう、お腹イッパイなんやろうけど(笑)・・ね。 解説席に、阿部慎ちゃん。 よう引き受けたな、しかし・・(苦笑)。 甲子園。やっぱエエな。行きたいなぁ。 |
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「仰木彬さん」。 バファローズの監督に就任なさったとき、世間一般では「無名なひと」と呼ばれていました。 「選手時代の”実績に乏しい”」「地味」「良く知らない」。 ・・そんな声が大半だったと、記憶しています。 かくいう私も、「よく知らない」。 あろうことか、最初は”みょうじ”も”なまえ”も「読めなかった」(!)・・。 (自身の名誉の為に言っておきますと、3年後に漢検1級を取得しました・爆) 「ちっとも&ぜんぜん、”実績のない野球人”なんかじゃない!」と”きちんと(大変な人物であると)知った”のは、情報量が圧倒的に増えた数年先のお話・・です。 そんな、当時「無名で地味なひと」を一躍”大有名人”にしたのが、「10.19」。 昭和63年10月19日。川崎球場。 「知ってるよ、そんなこと」・・? いやもう、「26年も前のお話」です。 リアルタイムで知っているのは、「30代後半くらいからの世代」だけ・・でしょう。 あの日、球場に同行した私の弟が、まだ13歳だった時代のお話。 その弟はいま、「10歳の娘の父親」です。 昭和最後の大激闘。 「近鉄バファローズ」「ロッテオリオンズ」「川崎球場」。 もう、「遠い遠い昔のできごと」になってしまいました。 球場の外野席後方にあるマンションから、双眼鏡を使っての観戦。 途中、双眼鏡を持つ手が何度も震え、困りました。 鈴木貴久さんがホームに滑り込んだ瞬間は、アウトなのかセーフなのかわからなかった。 マンションの同士の皆さんも一瞬、静かになった。 誰だかはわからなかったけれど、コーチと思しき人が出てきて、鈴木さんと抱き合っている。 それは「肉眼」でもハッキリ、わかりました。 マンション、「大熱狂」。 誰だかサッパリわからない他人同士で、抱き合い&大騒ぎ。 私に抱き着いてきたオジサン、「ほんとはロッテファンなんだけどね・・」(笑)。 いつまでも忘れないし、忘れたくない。 「昭和野球のクライマックス」。 いまにして思うと、「古き良き昭和野球の”総決算”」だったのかも、しれません。 立ち会えたこと、今でも私の素晴らしい思い出です。 「もし私がコミッショナーだったなら、決着が着くまで続けろ! 責任は私が持つ!と言いますねぇ・・」。 長嶋茂雄さん。 当時、ほとんどの記者さん&ライターさんの記事は、「感動!感動!の安売り大会」の様相を呈していました。 でも本当は、「なんで”時間切れ”なの?引き分けで優勝が出来ないの?」を、もっと問題にしなければいけなかった。 「有藤さんの抗議云々」よりも、「ルールそのものの是非」を。 稀代のエンターテイナー・長嶋さんは、そんな「不条理」をよく理解してくれていました。 「もし当時、”クライマックス”があったら・・」。 この季節になると毎年、思ったり・・します。 昭和63年と平成元年の、パシフィック・リーグ。 この2年間だけは、恐らくは誰も文句を言わなかったろうと、思います。 いや、でも。 やっぱり、「なくてよかった」んだよ・・ね。 「なかった」から、26年も経った今でも、「語り継がれて」いるんだよ。 きっと、そうだ。 そう、思います。 鈴木貴久さん&仰木彬さんに、合掌。 中西太さんは、「まだダメ」・・ですよ。 |







