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千年以上の風雪に耐えてきた石仏は、首のないその姿で、人の世の移り変わりに何を思うのか?
歴史とは何か。
それは失われゆく過去に対する愛惜である。
過ぎし日の思い出の集合である。
失われたもの、死んでしまった人、二度と戻れない日々をなつかしみ、それを記録の形で残そうとする行為である。
それは本質的に過去への感傷(センチメンタリズム)であり、昔をなつかしむ懐古趣味(ノスタルジア)である。
時間は魔物である。
一秒たりとも静止せず、人々を常に未来へと向けて押し流す大河の如きものである。
人はすべてこの時間の横暴に抗うことはできない。
未来はいつの間にか現在となり、現在はすぐに過去へとなる。人は時間にせき立てられて、「現在」という一瞬にとどまることはできない。
いかにその場を離れたくなくとも、時間は暴力的に人を未来に向かってせきたてる。
過去の記憶は雪のように降り積もり、古い層から消えていく。
どんなに幸福な経験も、どんなにいとおしい人々も、やがては遠い過去の記憶となり、まるで初めからそんなものは無かったかのように忘れ去られていく。
歴史を記録するという行為は、時間という魔物に対するささやかな抵抗である。
忘れたくない過去を、忘れてはならない過去を、そのままのかたちでとどめておけないのならば、せめて記録として残そうとする代償行為である。
歴史とは、過去のできごとを忘れないようにするために書き残す備忘録である。
また、自分が死んだ後にも、誰かが自分のことを思い出してくれるようにと残す子孫たちへのメッセージである。
人々は忘れたくないのだろう。過ぎし日の幸福やいとおしい人々を。
人々は忘れられたくないのだろう。自分がこの世界に刹那でも存在していたことを。
だから記録として書き残すのだ。忘れないように、忘れられないように。
歴史とは過去の思い出の集積である。
過去をふりかえり、思い出の中に生きることは後ろ向きで非生産的な行為かもしれない。
しかし、そうであるからこそ、歴史には意義がある。
人はいつだって前だけを向いて生きていけるほど強くはない。
時には過去をふりかえって思い出をなつかしむことで、今日一日、明日一日を生きていく力を得ることだってある。
思い出が、人を活かすこともあるのだから。
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7月21日の朝、「歴史とは何か。それは失われゆく過去に対する愛惜である。」という言葉がふと頭に浮かんで目が覚めた。
夢の中で思いついた言葉で目が覚めるなんて、なんという自家用モーニングコールだろう。
親がこの文章を見て誉めてくれた。過去の記憶が「古い層から消えていく」という部分については疑問だけどね、という一言も付け加えて
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2011/8/19(金) 午後 0:41 [ 西貢 ]
お久しぶりです。たまたま、ブログ拝見しました。
相変わらず、文章が分かりやすく、いいですね。
「古い層から消えていく」のは、現代を生きる我々の無責任の結果でもあるので、断定しては、ならないとおもいます。現実は限りなく、西くん指摘のように推移していますが、本来は、EHカー(博識の西くんなら既読と思われるし、私は、強烈だったフレーズのみ記憶しているので引用します)が指摘したとおり、「歴史とは現代と過去の対話である」のだと思います。歴史から学ばない限り、人類は世代や時代が変われば何度でも、同じ過ちを単純に繰り返してしまう、学んだつもりでも理解が浅ければ、繰り返してしまうのですからね。また、歴史が単に昔の事実関係の記述だけなら(それは、もちろん無意味っはありません)歴史は忘れ去られ、過去を顧みる必要性も薄れていくでしょう。歴史は、古い層でも、近代史でも、現代との関わりの中で重要な意味を持つ。易きに流されがちな自分も、そうした言葉を心に刻みつけながら過ごす努力をしています。偉そうなことを書いて恐縮ですが、私も日々、安易な方向に流されがちです。論文、頑張ってください。
2012/1/7(土) 午前 9:14 [ らいおん ]
携帯から打ったので変換ミスありました。ごめんね、
2012/1/7(土) 午前 9:22 [ らいおん ]
らいおんさん
お久しぶりです。コメントありがとうございます。
「古い層から消えていく」云々のくだりは他の人からも「そう断定すべきでない」と指摘を受けました。
たしかに安易に断定し過ぎたかもとは思います。
ただ、古い時代の記録が手に入らないでもどかしい想いをしている私自身の実感なんですよ、これは。
「歴史とは現代と過去の対話である」とはよく言われることですけど、私の実感としては、過去はなかなか答えてくれないものです。
こちらの10の問いかけに対して1つ答えてくれればいい方で、だからこちらが過去の記録の中に入り込んで、多分こうに違いないと思われるものを拾い集めてくるしか仕方がないんです。
言うなれば、全ての容疑者がすでに死んでしまった事件を捜査するようなものです。「こいつが犯人に違いない」と目星をつけても、容疑者本人からの自白は聞けない。
動機も犯行の手口も容疑者から聞き出せないまま、捜査終了しなければならない場合が多いんですね。変な例えですみませんが。
私も日々安易な方向に流されがちで、研究はあまり進んでいません。(それでも少しは進みつつあるんですけどね)
2012/1/7(土) 午後 0:41 [ 西貢 ]
西君のもどかしい思いについては、何となく理解できているつもりです(完全な理解は本人以外にはできないと思っています)。時の権力者は、都合の悪い資料は完全に消去することも多いでしょうしね。記録が手に入らない焦りは、きっと大ベテランの研究者も同じ思いなのではないでしょうか。歴史を裏付ける決定的な記録も当然、重要なものだとは思いまし、多くの人が血眼で捜し求めているのでしょう。釈迦に説法になって恐縮ですが、歴史の文脈を西君の見識で歴史を見つめることが大切で状況証拠でも意味があるのだと思うのです。西君の例えでいえば、殺人などの被害者がいた場合には、被疑者死亡のまま捜査をしたうえで書類送検されることはありますし、刑事事件では不起訴でも民事では被疑者の関係者が損害賠償しなければならないこともあるはずです(やはり例えは変かな?)。いずれにしても歴史の研究は、ものすごいエネルギーが必要だと思っています。西君は若いのですから。まだまだ、これからですよ。ちなみに今の研究テーマは何ですか?ブログで差し障りがあるならメールででも教えてください。
また、そのうち飯でも食いましょう。
2012/1/12(木) 午前 9:09 [ らいおん ]