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以前に韓国の地方を旅行していて驚いたことがある。
その時は忠清南道(チュンチョンナムド)の儒城(ユソン)温泉というところに行っていて、ソウルにいる友人たちのために温泉まんじゅう的な何かをお土産に買っていこうと思っていた。
そこで宿の主人に「このあたりでいいお土産はありませんか?」と聞いてみたところ、主人は「知らない。思いつかない」と言う。
韓国でも最も有名な温泉である儒城でまさかお土産が無いはずはないだろうと不審に思い、お菓子とかそういったものでなくても特産物くらいあるでしょうとさらに質問してみた。
そうしたら宿の主人は、「このあたりの特産品はソウルに行けば買えるはずだから、ソウルで買いなさい」と言う。
冗談じゃない。どうしてソウルにいる友人のお土産をソウルで買うのだ。これでは本末顚倒ではないか。
という経験をして、どうして韓国では地方のお土産が少ないのかと考えた。
もちろん近年の観光旅行の発達や地方自治の導入などで、地方らしさの掘り起こし作業が進められており、地元の特産品やイベント作りは盛んに行なわれている。
それにもかかわらず、韓国では日本に比べて地方色あふれるお土産がまだまだ少ないと思う。(多けりゃいいのか?と思われる方もいるとは思うが、旅行者としてみれば多い方がうれしい)
この違いはどこにあるのか?
私は、この違いが近代以前における日本の権力分立化の傾向と韓国の権力集中化の傾向に根ざすものと考えている。
日本では平安朝の後期頃から京都の朝廷による地方支配が破綻をきたし、地方に独自の勢力が生まれる傾向を示し始めた。それは源頼朝の鎌倉幕府創設によってさらに加速し、公家の朝廷と武家の幕府という二つの権力が並立する状況が1868年まで続いた。
そのような権力の並立状況は、必然的に様々な権力が分立する傾向を生んだ。たとえば天皇・朝廷が存続し続けているかぎり、将軍・幕府権力の下にいる武士たちは100%将軍権力に従属することなく、時には天皇・朝廷権力を利用して将軍・幕府権力を牽制し、自己の勢力を温存することが可能である。
そのような二大権力の並立状況を利用することで、日本では各地方に自生的な権力が成長し、結局は幕藩体制といわれる諸侯国分立の状況が生まれた。
それぞれの藩は自力で領国の経営につとめなければならないため、産業の育成が必須であり、その結果として地方ごとの特産品が生まれた。加賀の輪島塗や佐賀の有田焼など現在でも有名な地方の特産品は各藩による特産品作りの努力の賜物である。
このような歴史的経緯が、強い一体性を持ちながらも同時に地方色豊かな日本社会を生んだのだと思う。
私は、日本社会の基本的性格は、一体性のもとでの絶妙な多様性であると思う。日の丸の赤地は、単に同じ色の塗りつぶしではなく、実は微妙なグラデーションを成しているのである。
一方で韓国はどうかといえば、後三国の分裂時代を経て936年に高麗の王建が朝鮮半島を統一して以後、1945年の南北分断に至るまで、基本的に朝鮮内の権力は一極集中の中央集権型であった。
王建が朝鮮半島の統一をなしとげた936年という年は、日本でいえば平将門と藤原純友による承平・天慶の乱の真っ最中にあたる。
韓国はこの時期以降権力の集中化の動きが強まるのに対し、日本では逆に権力の分立化が加速していく。日本と韓国の歴史的発展の決定的な分水嶺は、この930年代頃にあったといえるのかもしれない。
高麗王朝はその成立初期においては各地域の豪族たちによる連合体的な性格をもっており、国王である王建自身ももとは地方豪族の一人に過ぎなかった。そういう意味で戦国大名の連合体的性格を持っていた江戸幕府と似た性格を持っていたといえるのかもしれない。
しかし高麗王朝は江戸幕府のように各勢力の地方支配をそのまま認めるのではなく、中央から地方官を派遣して支配するという中央集権体制の確立につとめた。
もともと朝鮮半島はそんなに広くはない。中央から官吏を派遣して地方を監視させれば、地方勢力の勝手な動きを取り締まることはそう難しくない。
朝鮮は中国ほど広くはないため、中国と同様の中央集権制を施行すれば、中国より容易に地方を取り締まることができる。
中国王朝が何度も地方反乱によって滅ぼされているのに対し、朝鮮の王朝が地方反乱で滅びなかったのは、その支配領域の狭さに比べて地方支配が密に行なわれていたためではなかったか。
いずれにせよ、朝鮮は中央集権的支配を続けた。
その傾向は高麗から朝鮮への王朝交替後により一層強まった。
高麗時代以来の地方豪族は地方官に使役される小役人(吏)に転落し、とても地方の独自勢力と呼べるものではなくなった。
唯一地方に土着して勢力を張ったのは都から地方へと下って来た官僚層の子孫たちであり、彼らは田舎(郷)の貴族階層(両班)ということで「郷班」と呼ばれた。
しかし彼らもその権力の根拠は「かつて官僚として王朝に仕えたことがある」ということであり、王朝体制と別個の独自勢力を形成するには至らなかった。
また彼ら自身も機会があれば中央の国政に参画したいと願ったため、その目は常に中央に向き、地方独自の価値を作り上げるという努力はなされなかった。
そのような傾向は近代化以降も続き、「人はソウルに、馬は済州島に」という言葉のごとく、ソウルへの人口・機能集中が進んだのである。
地方のお土産が(日本に比べて)少ないという傾向も、このような歴史的経緯の中で理解されるべき事柄であろう。
俗権と聖権の話をしようと思ってこの文章を書き始めたのだが、長くなりすぎた。
なので、続きはまた別の記事として書こうと思う。
(続く)
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